退屈に耐える

ときどきSNSに振り回されている自分に気付き、嫌な気分になる。

飲食や旅行は楽しい。退屈も紛れるし、時間が有意義に過ごせたようにも思う。しかし年寄りにとっては必ずしもそうではない。いまさら娯楽に金を使ってもそれで経験値が上がったり何かいままでにない新たな出会いがあったり、人生に転換点が訪れたりするわけではない。年寄りにはなんの未来の希望もない。年寄りがやるべきことは諦めることしかない。悲しい言い方かもしれないが、年を取るということは実際悲しいことだし、それを認めなくてはならない。

食うほどに醜く太り、健康を害していく。酒を飲んで酔って良い気持ちになっても、それがなんの足しになるわけでもない。金持ちがやりがちなクルーズ船みたいな時間つぶしも、金さえあれば誰にでもできることで世の中に何も貢献することはない。

無駄に食わず、飲まず、旅行もせず、死ぬまでの空虚な孤独な時間を過ごすことこそが、年寄りにとって最も良いことだ。時間が余ると最初はやることがなく時間を持て余すかもしれないが、すぐに慣れる(理論上は)。退屈だからと何かをやるのが良くない。退屈に耐えた先に平安があるのではないか。退屈だからと貯金を崩して贅沢をしても虚しさが後に残るだけだ。良いメガネを買う、良い服を買う、良い時計を買う、ペットを飼ってペットと過ごす。そんなことになんの意味があろうか。

中年や老年の旅行系ユーチューバーとか。趣味系ユーチューバーとか。ああいうことをしていったいなんの意味があろうか。

自分を直視することは難しい。誰にでもできることではない。誰もが現実から逃げる。しかし逃げたからといって何も良いことはない。

と、言いながら。

これまでコツコツと老後楽しめるような趣味を模索してきたのだった。

仕事をこなした日の夕暮れくらいは、節度をもって飲み歩くくらいはよかろうと思う。飲みすぎて良いことは何もない。

蒙を啓く

啓蒙、蒙を啓く、という言葉がある。文明人の俺様がおまえら未開人に教えてやるよ、というようなニュアンスがある。

蒙だが、もともとは高木や藪に覆われた、昼なお暗い森林、というようなイメージらしい。

啓は、口に、手で戸を開くという意味が組み合わさった字であり、未開の地を開いて言葉で教え諭す、という意味があるらしい。

つまりこれはまさしく、縄文人に対して弥生人がやったような、あるいはギルガメッシュがフンババにしたような、源頼光が土蜘蛛にしたようなことを言うわけだ。同様の文明開化の体験を日本は幕末維新に追体験した。

なんでそんなことをいまさらいうかといえば、もののけ姫の本来のテーマはこの蒙を啓くということにあったはずだと思ったからだ。蒙を啓くとはつまり神を殺すことだ。神とは原始の森、蒙である。その蒙を開拓する。文明の光が差し込んで、タブーや呪術がなくなり、誰もが安心して合理的な社会に共存共栄できるようにする。神を殺したのは天朝様だ。日本の歴史というものはごくおおざっぱに言えば天皇が土着の神を殺した歴史であった。

というテーマというかコンセプトがもののけ姫には明らかに掲げられているのだが、おそらくジブリ自身がそのテーマについてあまり興味がなかったと見える。

設定がややこしすぎる映画

地上波は見たくないので、夕方飯を食う時などにてっとりばやくブルーレイとかネットに落ちている動画をみようということになる。

そんなわけで netflix だと私はもう「テキサスレンジャー」を何度みたかしれないが、私はこれが割と好きだ。

「もののけ姫」と「千と千尋」を比べたときに、ちひろに感情移入できる人はかなりたくさんいるのだろう。小さな女の子が突然世知辛い世の中に放り込まれ複雑な人間関係にもまれて、次第に仕事を覚え世渡りに慣れて行き、問題を解決して、聡明な女性に育っていく。運命的な彼氏もいれば、いじわるばあさんもいれば親切なお姉さんもいる。だから「千と千尋」がヒットするのはまあわかる。というか、宮崎駿は、モデルとなった少女にかんでふくめるようにわかりやすく、世の中の仕組みとか仕事とのかかわり方を教えようとしたわけだから、わかりやすくて当たり前なのだ。

いっぽう「もののけ姫」の主人公アシタカに感情移入できる人はほとんどいないだろう(アシタカは若いイケメンで戦闘能力高いという意味でファンになる人はいるかもしれないが、自分の境遇と重ね合わせられるキャラではないということ)。彼はエミシの族長となるべく生まれた男子だが、タタリ神の呪いを受けて、たった一人で郷関を出る。こんな境遇の人は世の中にはほとんどいない。大企業の社長の息子のようなもので、日本人の0.001%くらいしかいないだろう。

山犬に育てられた娘サンにしても、普通の女子がこの子に感情移入できるはずもない。

脇役のエボシ、ジコ坊にしても設定がややこしすぎて、こんな人たちの行動や思考をすんなり理解できるはずがない。

なんかよくわからない、破綻した話のように見えるのだが、しかし何度も見ているうちにこれらの人物やシナリオがすべてすっきりと説明できるように作られていて、おもしろいのである。だけどもののけ姫のほうが千と千尋より面白いと思う人は少ないだろう。

ラストも、あの時首をダイダラボッチに返していなければみんな死んでいたはずだが、ジコ坊はそのことに気づいていたかどうかはともかく、首をアシタカに手渡し、アシタカとサンは、まるでラピュタのパズーとシータのように二人でその首を差し出してダイダラボッチに返す。生と死をつかさどるダイダラボッチ(シシ神)が死んだことによってみな死なずに済み、アシタカの呪いも解ける。シシ神がいなくなることでタタリ神も存在しなくなり、呪いもなくなる。すべては丸く収まって(少なくとも人間にとっては)、ジコ坊もエボシもその結末に納得せざるを得ない。

そして天朝様にしても、不老不死の薬シシ神の首が欲しかったというよりは、シシ神という生死を操る制御不能な存在を地上から抹消し、人々が安心して住める土地を作ることが、シシ神退治の本当の目的であったかもしれない。古来、天皇がやってきたことというのは、縄文時代から続くわけのわからない呪術とか怨霊といったものを人間によってコントロールできるようにし、世の中というものを合理化して説明のつくものにしていくことであったともいえる。何もかも一応説明が付くように作られている話なので、たぶんもともと根底にはそういう設定があったように思われる。

今でも人間は宗教というわけのわからないものに脳を支配される存在であるが、一方で、理性と制度によってそうしたわけのわからないものができるだけすくなくなり、最終的になくしてしまうように努力している。そうしたものをもののけ姫はテーマにしているはずだが、となると、このもののけ姫というものは、あまり宮崎駿的ではなく(つまりストーリーがややこしすぎて宮崎駿的でない。だが映像演出は随所に宮崎駿的なものが満ちている。たとえばシシ神の森はトトロの森とナウシカの腐海を足したようなものだったり、タタラ場はラピュタの鉱山に似ていたり、乙事主らイノシシは明らかにオームの焼き直しだったり、とか)、誰か宮崎監督のほかに(民俗学的なものにこだわりがある)仕掛け人というか裏方がいたのではないかと疑われるのだ(高畑勲?うーん。そうかもしれないが)。

ははあ。なるほど。梅原猛が関わっているのか。神殺し、ギルガメッシュとフンババの戦いか。梅原猛はヤマトタケルも好きだったはずだ。だから、アシタカもサンも、ジコ坊も、全然宮崎駿ごのみのキャラじゃないんだな。エボシとかタタラ場の女たちはちょっとくらいは宮崎駿好みの要素が入ってそうな気はするが。エボシはナウシカのクシャナ姫だろう。

というわけでなんだかすっきりしないわけのわからない終わり方のようにみえて、いろいろと補助線を引いてみると、実はすべてが予定調和ですっきりしているのだけど、そこに気づく人はあまりいないだろう。だから面白いのである。少なくとも私にとっては。千と千尋は誰にでもわかる面白さだが、もののけはわかる人にしかわからない面白さだから、それに気づいた自分えらいとなる。

要するにもののけ姫は宮崎駿以外の梅原猛とか糸井重里とかいろんな人がいろんな形でかかわってきたからあんななんだかカオスなものになってしまった。ジブリとしては初めてCGも採り入れたりして、いろんな模索をしてたんだと思う。でもよく分析してみると一本筋のとおったコンセプトがあってそれでかろうじて破綻してない。もののけ姫で宮崎駿監督はほんとは何を言いたかったのか、また、鈴木敏夫プロデューサーは何をやりたかったのか、というよりも、ジブリは当時制御不能な状態にあってああいうものができてしまった、というのが実情だろうね。

そんで、なんだかんだあって、もののけ姫の反省から結局宮崎駿の個性で作品全体をまとめるしかないねみたいなコンセンサスというか諦めのようなものがジブリの中にできあがって、それで千と千尋ができたのだろう。ジブリはほんとうはもっと早く宮崎駿とか高畑勲の「個性」から脱して、もっとニュートラルな、属人的ではないアニメーションスタジオになろうとしていたのだけど、結局それは失敗したようだね。

もののけ姫で迷走し、千と千尋で当たってしまい、五郎にまかせてみてコケた。もうどうしようもないね。もののけ姫の段階でもっと試行錯誤しておくべきだったんだよなほんとは。そしたら何か新しい突破口が見つかったかもしれないのに。ジブリは個人経営のまま終わるしかないのか。

もののけ姫とまったく同じ理由でテキサスレンジャーの主人公の立場を理解でき、すんなり感情移入できる人はほとんどいるまい。ケビン・コスナー演じる主人公と同じ境遇の人なんてこの世に滅多にいるわけないのである。いるとしたら、そうだな、いろんないやな仕事をやらされてきたが定年まぢかでそろそろ楽になろうとしたときにいきなりやっかいな役職を任された人くらいで、私の今の立場に似ていなくもないが、そんな人は世の中にはほとんどいないはずだ。こういう映画をわざわざ作るというのはどういうつもりなのだろう。

ケビン・コスナーはアンタッチャブルでも嫌われ者の警官役だった。

テキサスレンジャーというのももともとは正義のヒーローであると同時に人権を無視してネイティブアメリカンやメキシコ人を虐殺した鼻もちならないアングロサクソン人だった。

アンタッチャブルを元ネタに俺たちに明日はないの主役をひっくりかえしてこのテキサスレンジャーという映画が作られたわけだが、やはり、なぜ誰がこの映画を作ろうと思ったのか、だれがこれを喜んで見るのかがよくわからない。そういうひねくれた映画だから私にとっては非常に面白いのだろうなと思う。

ホームランドも設定がややこしすぎるドラマの一つだろう。

ブラックリストは、設定はややこしいといえばややこしいが、ぱっと見はただのFBIのアクションものなので、そこがホームランドとは違う。ホームランドはたぶん、911で芽生えたアメリカ人の「良心」「内省」というものが作らせたある種の「懺悔」だろう。だがブラックリストは明らかに一般大衆受けを狙って作られた娯楽だ。

噛めばかむほど味が出るスルメみたいな映画というのがつまり私には面白いわけだが、しかしそういう映画は世の中から評価されにくい。されるのに時間がかかる。見たあとに勉強してもう一度みないとわからない。たぶん一般大衆からの評判なんかどうでもよくて、そういう映画を作っても良いよといってお金を出す人がいて、そういう人が作らないような映画をどうしても作りたいという人がいて、それでこういう映画ができるんだろうなあ。

この、でっぷりとおなかがでたケビン・コスナーを見ていると、どうしても、パルプ・フィクションに出てきたジョン・トラボルタを連想する。タランティーノは一世を風靡した一発屋の、腹の出たトラボルタをわざわざ映画に使いたかったわけだ。同じいじわるさをこのテキサス・レンジャーズには感じる。タランティーノは顔がパンパンに膨らんだレオナルド・ディカプリオも使ってるよな。そういうのが好きなんだな(しかしシャッターアイランドやインセプションのほうが早いか)。

空谷に吼える

世の中何もしないことが大事だ。何もせずに、しかし生きているうちは何事かをなす必要がある。矛盾しているようだが、年を取った今、そのことを余計に感じるようになった。HDDも30%くらいまで使ってあとはあけておいたほうが安定して動く。70%、80%くらいまで詰め込むと良いことは何もない。

誰が総理大臣になろうと私の残りの人生には何の関係もないことであって、そのことで頭を使うのは無駄だ。今の自分にとって意味のないことはやらない。

youtube動画にブッダの教えで、年を取ったら人に親切にするな、徳を積もうとするな、静かにしていろというのがあって、そりゃそうだよなと思う。年を取ると、付き合いは増えるし、ある程度の社会的地位やら貯金などが得られるからどうしてもそれを使って何かしたくなるのだが、そんなことをしたところでたかがしれているのであって、それよりは自分の心の平安のほうが重要だ。よかれとおもってやっても他人にはただおせっかいなだけかもしれないし、どうしても向こうから頼まれればそのときはじめて考えればよいのであって、それまでは知らんぷりしているのがよい。何かしゃしゃり出て老害呼ばわりされてはたまらないが、何もしなくて老害呼ばわりされるかもしれない。その見極めは難しいけれども、何もしないのは何も私に限ったことはないので、私も周りのやってるように何もしなくてそれで世の中つまんなくなってもそれは私ばかりのせいではあるまいよ。

職務上やらなくてはならないことはもちろんやる。問題は、職務上やらないよりはやったほうがよさそうなことをやるかどうかだが、これはもうきっぱりやらないことにする。ただし、暇つぶしにちょっとくらいは善行の可能性を探ってみても良いかもしれない。何か世の中のためになったほうが精神衛生的によいかもしれない。まったくさぼってたわけじゃないんだよとあとで何かのときの言い訳になるかもしれない。

SNS (特に twitter だが)、見ず知らずの人の発言に反応したり、絡んだりするのはもうやめる。中島敦の山月記に空谷に吼えるというのがあるが、twitterだろうとブログだろうと他人とはかかわりをもたずただ自分の書きたいことを書く。

もう私がこの世にしてやれることの9割はしてしまった。あとはのんびりやる。

久しぶりにもののけ姫を見たのだが「生きろ」と言われても困ってしまう。しかし私が勝手に死ぬと周りが迷惑するから死なないけれども、もうこれ以上生きても私には何もできない。あと望むことはできるだけ苦しまずに死ぬことくらいだろうか(「生きろ。」というキャッチコピーは糸井重里によるものだそうだ。だからなんか作品とあんまり関係なくて浮いてるのかなあ)。

エウメネス3を手直ししていたのだが、古代ペルシャにはボートの刑というものがあり、罪人を縛って小さなボートに寝かせて中を蜂蜜で満たし、さらにもう一つのボートで蓋をする。首は外に出しておいて砂漠のアリ塚か何かの上に放置すると、アリが蜂蜜ごと罪人の体を食べてしまう。そんな話を書いていたのだがもうすっかり忘れてしまっていた。

身動きがとれない状態で無数のアリに体をかじられながらゆっくりと、苦痛に耐えながら死んでいくというのはどれほどつらいだろうか。そんな死に方はしたくない。

とかなんとか、言っておきながらちょろっと言いたいことを書くが、ある人が「明治時代に井上毅のでっち上げたプロパガンダ」などと某ブログで書いているのだが、実際、井上毅はとんでもない歴史捏造をした人なのだが、彼一人の舌先三寸で、あるいは勅語の発布で日本人がみんな騙されたというわけではない。明治の天皇崇拝というものは多くの人々がかかわって長い時間をかけてできてきたものだ。どこかの国の将軍様のようにごく一部の独裁者が十年か二十年かそこらで急にこしらえたものではない。

それは明らかに江戸時代の国学や水戸学によって整えられたものだ。井上毅はそのあまり出来の良くない生徒だったにすぎない。井上毅は確かに天皇を絶対化しようとしたけれども、しかし生身の天皇が普通の人間であることもわきまえていた。天皇を絶対化した上に超人化しようとしたのはどちらかといえば伊藤博文だった。伊藤博文は常識人ではあったけれども明治天皇に対しては恐るべき迫害者だった。野蛮人で反逆者であったと言っても良いくらいだ。星飛雄馬の父一徹のようなものだった。

一方で井上毅という人はちゃんと欧米の論文を読んで理路整然と歴史を捏造した人だった。才子とか策士とでもいうタイプの人。彼は確かにすばやく嘘をでっちあげ国の公文書にねじこむことができる能吏ではあったけれども(彼自身は人をだますつもりはなく、彼が考えた歴史が事実だと思っていたフシあるけれど)、彼のロジックを利用しようとした人たちが相当数いなくては彼の理論が世に広まるはずがない。

追記: twitter に書いたことをここにまとめておく。

AIが出てきてますます私が面白いと思うコンテンツを探すのは容易ではないってことが明らかになってきた。
世の中の流行り廃りとは関係なく、個人の主観で、他人が思いつかないようなことを、ひたすら追求しているようなブログを教えてくれと言っても見つけてくれない。

AIがみつけてくれるのは、今世の中ではやっていて、新聞とか地上波で流れているようなニュースで、みんながよく読む小説とか映画とかスポーツとか政治の話題を扱っているようなブログなのだが、私はそんなものには何の興味もないのだ。

そんなものにはもうあきあきしているから、いままでみたこともきいたこともないようなことを言っているブログが読みたいのだが、そういうものをAIは探し出してはくれない。

twitter にしても、今のトレンドとかトピックを知るには向いているかもしれないが、今まで見たことも聞いたこともない、誰もまだ言ってないことを探すことには向いてない。

それで、google gemini にはアマゾンのレビューでも読んでろと言われたのだが、それもそうだなと思い直し、レビューを読んだりしている。

前例が無い

やる気がダダ下がり中なのでなんでそうなのかって分析してみると、要するに、予算はありそうなんだが、それをうまく使うにはいろいろ根回ししたり、組織に働きかけたり、新しい法人作ったりとか、定年間近でたまたま任された役職でやるには荷が重すぎる仕事ばかりで全然やる気がおきないんだわ、これが。

前例がない。では作りましょうか、ということになって、よーしパパがんばるぞーと前例を作っちゃう人では私はないってことがわかってしまった。これが40才くらいの私であれば進んで旗振り役を買って出たかもしれんが、旗を振っても誰もついてこないってことをいやっていうほど経験してきたからいまさらやる気なんて出ないよな。

私がやる気でないのは私の問題なのでどうでもよいとして、仕事を依頼する人には話がしょぼすぎて申し訳なさすぎる。まったくばかばかしさに涙こぼるる。仕事したふりして何もしないのが一番なのよね世の中。

金と人をどう使うかまるごと決めさせてくれればもすこしどうにかなるんだが、金の使い方も人の使い方も条件を付けられてはやる気が出るほうが不思議というものだ。

もっともらしく中身のない文章

もっともらしいことを言う、おせっかいな人が嫌いだった。校長先生の朝礼の訓示、結婚式のスピーチ、乾杯の音頭から始まり、新聞の社説やテレビのニュース解説なんかでみかける言葉で、なんか面白いことでもいうのかと最後まで聞いていても、結局何も言っていない。面白くない。新しいことが何もない。もったいぶってるだけで情報量がゼロ。ただ時間の無駄、脳の空費に終わる。世の中で美文とか名文などと呼ばれているもののほとんどすべてが、改めて読んでみるとそうしたたぐいのものだ。

最近それがAIの書いた文章に似ているなと気づいた。

さらにそういうAIが作ったような動画を多くみるようになった。

テレビのアナウンサーの喋り方が嫌いだ。ああいうものはもう極力聴きたくない。

たぶん、入試に出る小論文なんかもああいう書き方をすれば良い点がもらえるのだろう。facebookやtwitter、noteなどにもよくこうした文章をみかけるようになった。なぜこんな文章が流行るかといえばそういうもっともらしくて中身がない文章に一定の社会的需要があるからなのだ。そういう需要はあるんだろうが、私には不要だ。というか非常に不愉快だ。

村上春樹の文章がそうだというつもりはない。

まじめに読んだこともない。でもおそらく、村上春樹の文章というか文体というかなんというのだろうか。あれは私にとっては何も中身がなく、それゆえ読んでも仕方のないものだ。そしてああいう文章が世間に需要があるということも事実だ。

村上春樹の文章とAIが書く文章には何か共通点があるのじゃないかと思わざるを得ない。

村上春樹があれだけ読まれるということは彼の文章は簡単なのだ。誰でも読め、読み始めるとつい続きを読みたくなるように、読者の関心が途切れないように、工夫して書いてある。そうでなければあれだけたくさんの読者を獲得できるはずがない。

それは彼が英文学の翻訳をもともとやっていた人で、ライターとしての訓練をきちんと積んでいるからだろう。

もしかすると彼の文章は簡単でもそこに盛り込まれた思想は深淵で高尚なものなのかもしれない。読みやすさと意味深さの二重性にもしかしたら彼の書くものの価値があるのかもしれない。しかし、意味があるようにみせかけているだけで実は中身はがらんどうなのかもしれない。どちらであるかを見極めた人はいないのではないか。

例えば彼が、ヤナーチェクのシンフォニエッタがどうしたこうした、などという文章を書いたとしても、別にその音楽に深い意味はないのだろう。ただそこに置かれるのに一番それっぽい文言がヤナーチェクのシンフォニエッタだったに過ぎないのではないか。

彼自身が、ジャズのインプロビゼーションのように途切れなく続くように書いているなどと言っていたと思うが、まさにそれで、つまり、喫茶店に流れているBGMのようなもので、喫茶店でのんびり時間を過ごすときだらだら読むのに向いている読み物なのであり、そういう雰囲気を楽しむ音楽のようなものであって、中身に深い意味はないのだろう。そしてそうした場にふさわしいのは紙の本であり、kindle端末やタブレットではないのだ。

逆に、もし意味のある文章を読もうとすれば、同じ箇所を何度も繰り返し読んだり、前に戻って読んだり、途中を飛ばして読んだり、辞書をひいたり他の論文を参照したりネットで検索したり、頭を休めてまた読み直したり、場合によってはどこか遠くの図書館まで遠征しなくはならず、そういう読書は至る所で寸断されているから音楽には決してならないのだ。私にとっての読書とはそうしたものだが、普通の人にとっての読書とはそうではないらしいのだ。

つまり村上春樹の本質とは、何も考えずにすらすら読める文章、ということにあるのだろうと思う。何も考えずに読むのが読書と言えるのか、とも思うが、もしかするとそれが最上の読書なのかもしれない。次から次へと流れてくる冷やしそうめんをただひたすらつまみあげてめんつゆにつけて食べる。ああおいしい。また食べる。そんな読書。

誰も白紙の本を読むのが好きな人はいない。何かが面白いから読むのだろうが、たぶんそれは、私にとっては面白くはないので、不可知だし、知りたいとも思わない。水のように飲める酒というが、ただの水が好きな酒飲みはいない。なんといったらよいかうまい言い方がみつからないし、みつけたいという気持ちもあまりない。たぶんそれを知ったところで大したことはあるまいと思う。そう、今のAIのように。

そういう環境音楽のような小説を私が読んで余暇を過ごすことはないし、ましてそのような小説を書くことはあり得ない。これから、AIがライターの仕事のほとんどを奪っていく、ということはあるかもしれない。ドラマのシナリオにしても、なんにしても。しかしそういったものは、私がもともと村上春樹に興味がないように、私にとっては無味乾燥な、不要なものであるに違いないと思う。

映画もそうで、映画を音楽のように一かたまりの時間として、大切な余暇をできるだけ有意義に過ごすためのコース料理のようなものとして鑑賞したい人には映画館は向いているだろう。しかし私などは映画をぶつぶつに分断して、途中で止めたり巻き戻したり、場合によってはコマ送りしたり早送りしたりしながら見てしまう。今のユーチューブやブルーレイならそれが簡単にできる。必ずしも画面が大きく没入感がある必要もない。私はむしろ映画からそのシナリオや原作を再構築するために見ており、映像をひとつながりの時間として体験しようとしているわけではないのだ(もちろん大画面大音量で通しでみたい気分の時がないわけではないがそういう時は滅多にない)。

そもそも私は懐石料理やフランス料理のようなコース料理が嫌いだ。単品で注文して、すぐに店を変えてハシゴするのが好きだ。時間を拘束されるのが嫌いで、自分でぶつ切りにするのが好きなのだ。それは私が落ち着きがなく飽きっぽいからだと思っていたが、ちょっと違う気もする。監督によってカメラ位置が完全に決められている映画よりも自分で視点を変えられるゲームの方が好きだ。人に決められるより自分で決められる要素が多いほど没入感が高く楽しめるタイプの人間なのだと思う。

思えばカップラーメンなどという人間の味覚をハッキングした極めて不自然な食物をうまいうまいと食べる人が(私を含めて)こんなにたくさんいるというのは気持ちの悪いことだ。同じように文章もAIによってそのハッキングはさらに加速していくだろう。

AIが書いた文章を面白いとか、ためになるとか、立派でしっかり構成された文章だと思う人は相当数いると思う。村上春樹のファンが非常に多いのと同じく。その理由を考えれば考えるほど恐ろしくなる。そのうち私もAIが書いた文章と人間が書いた文章の見分けがつかなくなるかもしれないと思うとよけいに恐ろしい。

長生き

確かに、大学受験に失敗して1年浪人しても、そのぶん、1年長生きすればチャラじゃないかという考え方はあるかも知れない。逆に、大学に現役で入っても、人より早死にしてしまったら全然得じゃない、という考え方も成り立つ。2年間大学院に行っても、2年長生きすればチャラじゃないかと。

私の場合1年浪人して5年間大学院にいたから、6年分は長生きしないと人生がもったいないということになる。そうなのかもしれない。私の場合単にもう働きたくないだけなのかもしれない。今の仕事を続けていると、細かなノイズまで全部気になってしまい、気の休まるときが無い。聴覚過敏とは、普通の人は気にしないような音が全部気になって仕方なくなる病気だ。それに近い。細かなことまで何もかも完璧に裁かないと気がすまなくなってくる。こまかくやるところとざっくりやるところをうまく切り分けられない。そこが困る。早く楽になりたい。

ダークモード

昨日はちと遊びすぎたので今日はおとなしく寝ようと思ったがなかなかねれない。

夜中画面が明るくなりすぎないように私はブラウザをダークモードで(常に)使っているのだが、facebook にはこのダークモードが効かない。実に眩しい(追記: facebookはダークモードにできることが判明した)。chrome 作ってる google からして gmail がダークモードが効かない(追記: gmail もダークモードにできることが判明した)。さらにいえば wordpress のテーマもダークモードに対応していない(ものが圧倒的に多い?)。twitter はしかしダークモードに対応している。素晴らしい。

ここのブログの過去記事を少しずつ読んでいて、面白いものもあるが、つまらないものもある。特に政治とマスコミの話がつまらない。そういうのを見つけては非公開にしている。20年以上前に書いたものを読んでいると、今の自分とは全然違っていて面白い。

常にイライラしているのはやはり仕事のせいだ。今の仕事を始めたのは36才からだから、もう23年もやっているわけだ。途中勤務地が変わったりもしたが、同じことをずっとやり続けることが私には苦痛だ。だがいまさら転職するわけにもいかない。あと6年半、この仕事をやらなくてはならない。まあしかし私も59才だ。6年半という時間は無限に長いものではなく、実はとても短くて、あっという間にすぎるということも十分知っている。

どこか引っ越しするというのもありかも知れない。金がかかるがしかたない。たぶん楽しいだろうと思う。でもそれも数年前に2年半ほど試したばかりだ。1度やって効果のほどはしれたことを2度やる意味も少ない。

とにかくもう身動きのとれない状態にある。

ubuntu の X11 は突然おかしくなってしまうことがある。一度logoutすると治る。

mozc の句読点変換は邪魔だ。私にとって、句読点をうった時点で変換されるのは早すぎる。句読点まで書いて、しばらく考えてから変換したい。

インターフェイスとか

wordpressのことをワープレと呼んでバカにする人もいるが(笑)、なんだかんだ言ってやっぱりwordpressよりもましなソフトというかインターフェイスというかシステムはないわけで、多少不満があっても 自分を wordpress に合わせて使わざるを得ない。何しろ今やホワイトハウスのサイトも wordpress で作られているそうじゃないか。これはもう使うしかないよね。

wordpress より前には perl で動いていた movable type というものがあった。周りではまだ movable type が主流だった頃に私はいきなり wordpress を使い始めた。なんで wordpress を使ったかといえば多分一番の理由はライセンスだと思う。movable type は私企業が開発したもので、基本的に有料、しかし wordpress はオープンソースだった。

perl と php どちらが好きかというのは最初のうちはあまり関係なかったと思うが、php を使っているうちに web に特化した php がだんだん好きになっていったということはある。

自分で wordpress やらウェブサーバーやらを管理するのがめんどくさくなり、はてなに移住したり、note を使ったりした。

はてなは今ではほぼ wordpress もどきになってしまったが、カスタマイズはできない。有料オプションでいろんなことはできるらしいが、そこまでやるくらいなら自分でサーバー建てたほうがましじゃん、てことにならないか。

note には 2020年から2022年くらいまではぽつぽつ書き込んでいた。2022年に入ってから株を始めたので株のことをいろいろ書いていたが今読み返すとつまらんことばかり書いているので、公開しないことにした。それ以外の記事も note で公開するのはやめて、こちらに統合することにした。

note はエディタを使うたびに、おつかれさまでしたとか、つづきが楽しみですとか、余計なメッセージが出るのが異様にイライラする。おんなじことは microsoft word にも言えて、おはようございますとか挨拶されるたびに腹が立つ。世の中の人はこういうふうにソフトに挨拶されるのが好きなのだろうか。

note はほかにもページ遷移とかインターフェイスとかいちいち気に障る。記事を一括選択する機能はあるのに、削除することしかできない。一度に非公開にするとかいう機能がない。ページもどこからどこへ移動するのかわかりにくい。しかも一度に選択できるのは20件までですとかよくわからない制限がある。なんなのかこれは。

note を使うメリットとしては有料記事を書けることかと思うがそんなら最初から kindle で書いたほうがましだと思ってしまう。連載記事のようなものを書く?たぶん私はそういうものが書きたいんじゃないんだな。そしてたぶん一番大きな問題は、note で書いている他の人と全く趣味や興味が合わないから同じ場所で書いている意味がないんだろう。noteという場の雰囲気に溶け込めない。noteってのはつまり、独りで文章を書くのはさびしいから、運営スタッフとも読者ともつながりたい、馴れ合いの場だということなのだろう。そんなものは私はまったく求めてない。となるとやはり独りで勝手にブログを書くのが気楽でよい、ということになる。

今は click証券と楽天証券の2つを使っているんだが、インターフェイス的に言うと、楽手店証券は扱える取引所とか銘柄が多いせいかとにかくごちゃごちゃしていて、どこに何があるかわかりにくい。特にローソク足のチャートが見にくい。小さなチャートがあってそこから大きなチャートにいけてさらにテクニカルチャートとかいうさらにインタラクティブに操作できるチャートを開くことができるのだが、このテクニカルチャートがすごく操作しにくい。それにくらべて click証券のチャートは一種類だけでこれが普通に見やすいし使いやすい。

あと楽天証券はいちいちカイルくんみたいなやつが顔を出してきて邪魔くさい。

善意に解釈すれば楽天証券はこれまで顧客の要望に答えて少しずつ建てましたてまししてきてあんなふうになって、一からインターフェイスを作り直すのは危険なので、とうぶんこのまま放置する(企業業績が上向けばまた考える)ってことにしたのではないか。

mozc はまあまあ使いやすいんだが、日本語には全部スペルミスの赤い波線が付くのが気になりだすとものすごく気になって仕方ない。どうにかこの赤い波線を消す方法はないのだろうか。これってもしかして wordpress の機能?

解決した。firefox のせいだった。firefox → 設定 → 一般 → 自動スペルチェック機能のチェックを外す。

ソフトランディング

レバナス1本リーマンなんか見てると、アメリカが無限に借金をし続ければ理論上リセッションにはならないがそういうことができるのか、ということを言っていて、昔は1ドル借金をしてそれを公共投資に回すとそれが8ドルとか9ドルくらい米ドルの資産価値を上げていた、国が借金をすることによって通貨の価値が上がっているうちはそれでよかったが、最近は国が1ドル借金すると通貨の価値が50セントくらいに下がってしまう。アメリカが借金をすることによって基軸通貨たるドルが世界に流通することになり、経済を活性化し、ドルの価値を上げているうちは良かったが、今はもう借金をしすぎているので通貨価値が下がるばかりで、そうなるとインフレになって結局アメリカは死ぬと言っていて、まあそれはそうなんだろうなと思う。

アメリカは結局経済問題を政治で解決しようとしているのだと思う。ごくあからさまに言えば、戦争が起きればあっという間にアメリカは好景気になって借金は帳消しになってしまう。

もひとつ。ロシアはプーチンが死ぬとプーチンに代わる指導者はもう現れてこないだろう。中国にしても、鄧小平、江沢民と、開放路線を突っ走ってきて、習近平はその勢いでここまで中国経済を盛り上げたけれども、過剰投資が過ぎて不良債権だらけになった。新築物件ばかりのうちはまだ良い。日本だと需要があるところに鉄道を通すが、中国の地方政権はとんでもないところに線路を通し駅を作るから乗客がいない。収入が無い路線はメンテナンスもされないからそのうち電車を安全に走らせることもできなくなるだろう。不動産もそうだ。人が住まず、テナントが入らない建物は維持ができずどんどん老朽化する。

習近平の次の指導者がどんなに優秀でも、中国はこれまでにあまりにもツケをためすぎた。

ウクライナ戦争というものも、そろそろプーチンも寿命で死ぬし、その後のロシアはとるに足りない、ほとんど影響力のない田舎国になってしまうかも知れない。いつまでもそんなロシアの属国でいても仕方ないと先読みして起きたものかも知れない。ベラルーシは独裁国家で大統領も年寄りだからロシアに付き合う気になったが、若者はできるだけ早くヨーロッパの一員になりたがっているかも知れない。

で、戦争が起きなくても、プーチンと習近平がいなくなれば、アメリカ一強の時代が来るしかない。基軸通貨ドルの地位は安泰で、多少借金しても誤差の範囲、ということになるかもしれない。ソフトランディングとはそのことを言っているのかも知れない。

アメリカ帝国主義は今やその本性をまったく隠そうともしなくなってきた、とも言えるし、アメリカはそもそもいつもその本性をむき出しにしてきたともいえる。