あしわけをぶね

投稿者: | 2010年3月11日

相変わらず宣長を読んでいる。
排蘆小舟(あしわけおぶね)は宣長が医者の修行で京都に遊学していた28才くらいまでに書かれた歌論書で、
宣長の評論の中では比較的初期でかつまとまったものである。
現代語に全訳してやろかとも思うがそんな暇人でもない。

> 近代の先達の教えに、玉葉・風雅などの風体を嫌って、正風体を学べと教えられるなり。
その教えは良けれども、その人と歌をみれば正風にはあらずして、その嫌わるる所の玉葉・風雅に近き風なり。
これはもと、玉葉・風雅の悪風を改めて、頓阿という人、正風を詠み、かの悪風を大いに戒められたるより伝わる教えなり。
頓阿は名人なれば、実に風体の善し悪しをわきまえて言われし故に、自分の歌みな正風なり。
その後の近世の先達は、頓阿の説に従って、教えはさることなれども、歌の風体の善悪を知ること、頓阿に及ばず、
故に自分の歌、正風にあらず。
かの嫌われる所の悪風に近し。
これなにゆえとなれば、大概は風の善悪も分かるる人も、正風にのみ詠みては珍しきこと詠み難し。
それゆえに珍しき風情を詠まむ詠まむととするゆえに、おのづから異風になるなり。
これいにしえの人に及ばぬ所なり。
いにしえの人は正風にして、珍しい風情を詠めり。
いかほど珍しく優なる歌にても、正風を離れず、少しも悪きところなきなり。
近世の人は、珍しきことを詠めば、必ず正風を失うなり。

いにしえの(善悪を知る)人ならばどんなに近現代の珍しいことを歌に詠んでも正風を離れず詠むことはできる。
しかし近現代の人が今の風情を詠もうとすると必ず正風を失う、と主張している。
つまり今の歌詠みは、古いことを古いながらに歌に詠むことはできるが、
新しい、それまで和歌で試みられなかったような事物を詠もうとすると必ず古風を失う。
あるいは俗語や漢語などを使おうとする、と。
まるで明治以後の歌人たちを言っているようではないか。

また、次のようにも言っている。
近代の人の歌をまねるべきではない。
当時無双と言われる名人でも、いにしえの歌には及ばない。
そのうえ次第次第に言葉遣いの誤りも多くなる。
古代の歌をまねて詠めば古代の歌も近代風の歌も詠めるが、逆は成り立たない。
ただしいきなり昔の歌を詠むのは初心者には難しいので、
「題林愚抄」などで題詠のやり方を学ぶと良い。
古代の歌を学んだ後ならば近代の歌を善悪の見分けもつくのでそれほど害にはならない。

また、俳諧・連歌について、
俳諧は「今日の常態言語」を使い、これほど人に近く便利なものはない。
なぜ和歌でなく俳諧をとらないのか、という問いに対して、
連歌・俳諧・謡・浄瑠璃・小唄・童謡・音曲のたぐいは、すべて和歌の一種であって支流である。
その中で雅びなものと俗なものがあるが、
風雅の道においてはどうして雅を捨てて俗をとることがあるか。
本をおいて末を求めることがあろうか。
しかしそれも個人の好みにまかせれば良い、
などと言っている。

実際、俳諧は、和歌に比べるとはるかに俗語を取り入れるのに、古くから熱心だった。
なので、明治に入ってからもわりあい人々に容易に受け入れられた。
しかし、和歌は逆に「正風」をやかましく言い、俗語や歌舞音曲を受けいけることを拒んだ。
明治に入って急激に俗語や漢語を取り入れたために悲惨なことになったが、
和歌は江戸時代にあまりにもその準備がなさすぎた。
和歌というものが、
宣長がやったように、歌道の家の言い伝えなどはひとまずおいて、
古文書に直接当たって文献批評のような科学的分析を加えないと、
もはや一般人にはとうてい善悪の見分けがつかない状況にあった。
伝授・附会といった歌道の「密教化」が進み、
あるいは堂上・地下の対立が起きたというのも、
ようするに「歌学」というきちんとした方法論なしには和歌が詠めなくなっていたからなのだ。
それに比べて俳諧などは「学問」という仰々しいものがなくてもある程度は直感的に作れたわけだ。

伝授・附会とか堂上・地下といった風潮はつまり、学問的な考察なしに、
歌をどうこうしようとしてどうにもならなくなっておこってきた現象であり、
これを宣長は京都遊学中に契沖の歌論書によって気づかされたのだろう。
つまり、聖書に textual critics が必要なように、
歌学にも文献批評が必要だ、という一つの真理に気づいたということだ。

ははあ。
古文辞学は荻生徂徠の学派に学んだということか。
うまくできてるな。
確かに Textkritik を「本文批評」と訳すよりは「古文辞学」と訳した方がしゃれてるわ。

宣長は京都遊学前から頓阿の草庵集や井蛙抄などを読んで手本としており、
ますますこれらを正風として手本にしたと思われる。

思うに、和歌は、公家も武家も詠むものだ。
公家の世界に限ればおそらくその最盛期は新古今集。
その次の新勅撰集からは武家の歌も多く混じるようになった。
頼朝、実朝、泰時、高氏らはみな歌を喜んで詠んだ。
もろびとこぞって和歌を詠んだ。
武家に和歌は不要だと言った武人はほとんどいない。家康が言ったか言わないかくらいのことだ。
公家は公家のように、武家は武家のように歌を詠めば良い。
特に勅撰集が編纂されなくなった応仁の乱以後は武家が和歌の伝統を支える大きな役割を担った。
中には田安宗武のような武家の思想・儒家の思想で和歌を解する人も出た。
武家が武家の思想で歌を詠んで何が悪かろうか。
それまで公家は公家の詠みたいように詠んできたし、
坊主は抹香臭い歌を詠んできたのだから、
ただお互い様というだけのことだ。
戦の歌もあり、商売の歌もあり、政教の歌もあり、四季や恋の歌があるだけのことだろう。

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