思ったこと

倍晋三氏は、極めて有能な人ではなかったかもしれない、名宰相、という評価が似つかわしい人でもないと思うが、歴代の総理大臣の中ではかなりまともなほうであり、とりわけ、困難な時期に、長きにわたってよく任務を遂行したと思う。
政治家はマスコミや狂人や大衆、あるいは政敵や大学教授の毒舌に殺されることを含めて、そうした危険を敢えて冒す職務であると思う。金閣寺を燃やした男とか、秋葉原の歩行者天国に車を突っ込ませた男とか、電車の中で切りつける男とか。そういう者が現れるのは世相とかそんなことと関係なしに昔もいたし今も必ずいる。問題はそこではない。
黒幕がいて煽るやつがいて金を出すやつがいたかもしれないしいなかったかもしれないが、そういうおかしなやつが発作的に政治家の暗殺を企てることはあり得るわけで、逆に、プロの殺し屋が政治家を殺そうとする例のほうが少ないのではないか。
何が言いたいかと言えば、マスコミや左翼や狂人に殺されるほどに大衆の関心を集めた人であったわけで、世論の渦中にあってなお活発な活動を罷めなかった人であったから、ついにその犠牲となったということもまた、彼の国士としての仕事の一部であったと私には思える。日本のために良く働いてくださった、老後を楽しむ時間が少なくかわいそうだったと思う。
要人暗殺が日常茶飯事な海外と違って日本ではめったに起きない事件でもあり、警備が手薄だったという批判も酷かもしれないと思う。

追記:テロは民主主義への攻撃、という人が多いのだが、民主主義というもの、或いは、言論の自由というものがマスコミの過激報道を生み、そうした大衆扇動の結果、特定の個人に憎しみが集中してこういう要人暗殺が起きてしまう。民衆は不満のはけ口を求めて悪の政治家という偶像を作り出してしまう。そうした偶像作りは、民主主義の代償というか民主主義に必然的に付随してしまうもののように思うのだが違うか。マスコミとか狂信者などを民主主義から排除することは不可能なので、システムとして、そうした犠牲者を生み出さないような歯止めを民主主義に組み込まないといけない、それ以外方法はないのではないか。民主主義を冒涜するテロとの戦い、という考え方でテロが無くなるのだろうか、非常に疑問だ。特に日本では、オウム事件もそうだが、政治的なものより新興宗教がテロと結びつきやすい。再発を防止するならなぜ日本ではそうしたテロが起きやすいのかということを考えないと。
カルトであろうとなかろうと宗教は宗教であって、信教の自由は守られなくてはならない、センセーショナリズムであろうとなかろうとマスコミはマスコミであって彼らの報道の自由は守られなくてはならない。その原則に如何に弊害があろうとも、原則は原則なのである。

ベレッタ

Audible でドクターノオを聞いて、改めて Blu-ray でドクターノオを見直しているんだが、原作の小説ではベレッタをワルサーに代えさせるシーンだけでものすごく長い記述をしている。
映画ではベレッタは弾詰まり、あるいは不発だったから、ワルサーに代えろと言っているのだがそれではまるでベレッタは弾詰まりを起こすちゃちな銃のような言い方だ。
原作では、ジェームスボンドがベレッタにサイレンサーをつけてそれが服にひっかかって撃つのが遅れた、と言っているのであり、ベレッタの性能のせいだとは言ってない。
女性の護身用に作られた、コンシールド拳銃のベレッタに、サイレンサーをつければ、ポケットの中でひっかかってしまう。そういうこねたをイアンフレミングは長々と描写してて、これはもう映画ではそういうニュアンスはまったく伝わらない。
原作にはマネーペニーも出てこないようだ。映画では007は女たらしな男となっているがイアンフレミングの意図ではなさそうだ。

CATV

CATV (某有線チャンネル)はどうしてこんなに使いにくいのだろうか。特にインターフェイス。端末はすでにアンドロイドで動いているのだが、テレビとリモコンで操作するから、ちょっとたくさん録画するともうまったく検索できなくなる。非常に腹立たしい。企業努力が足りないのではないか。
CATVやめて Amazon Prime や Youtube Premium や Netflix や Disney Plus だけ見るようにすればいいのかもしれん。しかしそれはそれで腹立たしい。なぜスマホアプリで操作できるようにしないのか。やらなきゃならないことは明らかではないか。それとも資金が足りないとかいまさらそんなことをやっても無駄だと思っているのだろうか。

代表作

私が書いたものの中では『関白戦記』が最も完成度が高いと思う。一応出版することを前提に、一気に書き上げた長編で、私以外の人も企画に関わったりして、自分自身それなりに推敲もしてあるので、今後手直しすることはあるとしてもほぼ完成していると言って良い。
これに比べると、たとえば『将軍家の仲人』『西行秘伝』なんかはまだまだ直さなきゃならないと思っているが書いた本人が読み返すことがあまりないので(キンドルで売れると読み直して書き直したりすることが多いが売れない本は基本放置)、どこをどう直すかさえ決まってない。『将軍放浪記』はもう少し話を膨らますべきなのだが、史料がほとんどなくて手出しができない。
『エウメネス』は『1』だけは何度も書き直したのである程度完成しているが『6』は未完成作品と言ってよい。『6』を直すために『5』とか『2』『3』辺りも直さなきゃいけないと思っている。『6』で急に新しいキャラクターを出すのではなくてもっと前から伏線をはったりしなきゃいけないからだ。
ともかく現時点は『関白戦記』が私の代表作なんだが、『エウメネス』を代わりに一番の代表作とするにはかなりの年月がかかる。60才までにはどうにかしたいがあと3年しかない。そもそもテーマが広すぎてどうにもならない。インド辺りは適当に書けばいいがペルシャはそうもいかない。ペルシャは調べれば調べるほどいろんなまだ知らないことが出てくる。中途半端に西洋史観で書いてたところを修正し加筆するには膨大な時間がかかる。最初から、私が一人で書けるようなものではなかった。だからその一部を切り取って、ゲドロシアだけの短編を最初書いたのだが、続編を書くことにして深い沼にはまった。