003 ひじき藻 【高】

昔、ある男が懸想している女のもとへ、ひじき藻というものを贈るのに詠んだ歌

 あなたが私のことを思ってくれるのならば、雑草が生い茂るあばら屋に(一緒に)寝さえしましょう。たとえ布団がなくて、衣の袖を敷物にすることなろうとも。

のちに二条の后と呼ばれた藤原高子が、まだ清和天皇に出仕せず、普通の人でいらっしゃった時のことであるという。

【定家本】
むかしをとこありけり。けさうしける女のもとに、ひじきものといふものをやるとて、 
 おもひあらば むぐらの宿に ねもしなん ひじきのものには 袖をしつゝも
二条のきさき、まだみかどにもつかうまつりたまはで、たゞ人にておはしましけるときのこととや。

【朱雀院塗籠本】
昔男ありけり。けさうしける女のもとに。ひじきといふものをやるとて。
 思あらは 葎の宿に ねもしなん ひしきものには 袖をしつゝも
二條の后の。いまだみかどにも。つかうまつらで。たゞ人にておはしけるときのことなり。

【真名本】
昔、男ありけり。仮性《けしやう》しける女の許《もと》に、ひじき裳《も》といふ物を遣るとて、

 念《おも》ひあらば 葎《むぐら》の屋戸《やど》に 眠《ね》もしなむ 引敷《ひじき》物には 袖をしつつも  

二条の后宮《きさき》の、未だ帝にも祇承《つかうまつ》り賜はで、直人《ただひと》にて御坐《おはしま》しける時のこととぞ。

【解説】
『真名本』「つこうまつる」の箇所の漢字は判読しにくい。結局、「祗承」だろうと推定したのだけど、第60段にもこれと同じ当て字が出る。
『続群書類従』ではしめすへん(示)に「弖」。「弖」は国字でもっぱら助詞の「て」を表し、もとは「氐」の異体字であったというから、間違いあるまい。
「祇承」とは貴人に仕えること、またはその人。

「ひしきもの」は「引敷物」であるとされる。

よくわからない歌である。わざわざ女性と、雑草が生い茂るあばら家で、寝具もないようなところで寝ようなどというだろうか。おそらく、そんなところで寝たことすらないし寝るつもりもない、皇族や貴族の男が冗談で、あなたとならどんなあばら家であろうとかまわない、というような意味で、女に言ったことだろうと思う。

この話にはとってつけたように二条后が出てくる。この第3段から第6段までは二条后が主役だ。
紀有常は藤原高子に強い関心があったはずだ。この時代にいよいよ台頭してきた藤原摂関家との政争に敗れて地方に左遷された人、それが紀有常その人だからだ。
彼は政敵の醜聞《スキャンダル》を密かに調べ、日記に残したに違いない。それらのエピソードは決して正史に残ることはなかったのだ。

二条后は藤原高子。藤原長良の娘、摂政・藤原良房の養女。藤原基経の妹。
帝は清和天皇。
藤原高子は866年、25歳で入内する。清和天皇はこのとき16歳。
869年、貞明を産むと東宮の御息所と呼ばれるようになる。
貞明は生後僅か三ヶ月で立太子された(後の陽成天皇)。「東宮の御息所」は皇太子の母を指した呼び名で、869年から876年、高子が28歳から36歳のことになる。ここでは清和天皇の后という意味ではなく、貞明親王の母という意味。皇后と呼ばれるよりも、皇太子の母と呼ばれる方が重要だった。
高子が二条后と呼ばれるようになるのは、光孝天皇が即位した後、密通の疑いで皇太后の位を剥奪され、京都御所から退去させられて、二条の邸に住むようになってから(896年)である。
この二条の邸というのは、高子の子・陽成天皇が884年に譲位したのちに住んだ院御所であり、それゆえ陽成院とも呼ばれた。母が息子の家に同居したのである。

藤原高子は『伊勢物語』の重要なヒロインの一人。彼女の愛人は在原業平であったことになっているが、おそらくはもっとほかにもいろんな男がいたはずだ。