スパルタ王レオニダス

朝方にはどんより曇っていたが、新横浜で新幹線に乗り替えた頃から窓を雨が叩き始め、相模川の鉄橋を越す頃には雷を伴うどしゃぶりになった。箱根の長いトンネルを抜け、三島駅のホームにおり立ったとき、東海道の在来線、新幹線ともに運休となったと、アナウンスがあった。
「危なかったな。」
「ああ。」
俺と西田は駅前でレンタカーを借りた。運転は、俺もできなくはないが、土地勘のある西田に任せる。ざあざあぶりの中、三島大社の神鹿園(しんろくえん)をちらりと見物し、これから西田の実家まで行くのだ。
山道を走らせていると修善寺辺りで急にからっと照り始めた。
「今日はずいぶんと忙しい天気だな。腹が減っただろ。修善寺で蕎麦でも手繰(たぐ)ってくか。」
「いいね。でもすぐにまた降ってくるんじゃないか。」
「ここは電車でも来れるし、修善寺巡りは別の機会にしよう。」
「今日はもう海水浴は無理だな。」
「台風が来てるんだぜ。いっぺんに三つもな。雨はともかく波が高すぎる。」
黒い雲と白い雲がコーヒーに落としたミルクのように、ねじれ絡まり合いながら渓谷を越えていく。伊豆半島の縦貫道を途中で西に折れて、駿河湾へとくだっていけば、そこが西田の生まれ故郷土肥(とい)だ。

俺と西田が在籍している大学の学部は、外国語科目がなんと第三外国語まである。
第一外国語は原則として英語、一年次通年八単位。第二外国語はドイツ語、フランス語、ロシア語、中国語、朝鮮語、スペイン語、イタリア語のなかから一つ、二年次通年四単位。第三外国語は英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語、中国語、ラテン語、ギリシャ語から一つ、これまた二年次通年四単位。これらを三年次に進級するまでに取らなきゃならない。近頃は実用性を重視して、第二でスペイン語、第三で中国語を取るやつが多い。しかし、俺と西田は第二でイタリア語、第三でギリシャ語を取った。他にそんなやつはいなかったのである。
「ほんとは第二でラテン語、第三でギリシャ語を取りたかったんだがなあ。」
「俺もだよ。」
「必須じゃないが、履修すりゃ「その他の科目」でカウントされるから、いっしょに三年次でラテン語もとろうや。」
二年次前期のギリシャ語の授業で、俺たちはこうして意気投合したのであった。

西伊豆は秘境だ。鉄道が通っている伊東、下田、或いは修善寺なんかと違って、自分で車を運転して来るしかない。道も狭くてうねってる。その代わり、入江の奥のちんまりとした砂浜は、南紀や離島の海のように綺麗だ。稲村ヶ崎や由比ヶ浜あたりも昔はこんなんだったんだろうなあ。

「なあ。ギリシャで集住(シユノイキスモス)が始まったのは、五千年くらい前だよな。」
藪から棒に前田が話題を振ってきた。運転中の眠気覚ましに何か喋っていたいからだろう。
「青銅器時代だな。」
「それまで人々はちりぢりばらばらに暮らしてきたが、なぜか集まって住むようになる。マケドニアで集住が始まるのは二千五百年前。すでに鉄器時代に突入している。だが、トルコでは一万年以上前、初期新石器時代から集住が始まってる。アジアの中心から辺境へ向かって徐々に集住が広まっていく。集住によってデモス(村)ができ、デモスを束ねてポリス(町)ができる。なぜ人は集まって暮らすようになったか。」
「それは、氾濫原の治水事業のために権力の集中が必要になったからだろ。」
「ところがトルコの遺跡は、ごく普通の野っ原にある。エジプトやメソポタミア、インダスみたいな大河の流域じゃあないんだよ。」
「なんとなく自然に寄り集まったんじゃ?」
「今のエストニアみたいなもんだよ、昔のマケドニアは。人が広い大地にばらけて暮らしている。希薄なんだよな、空間的にも、人間関係というものが。エストニアはだから電子政府を作った。人が都市に集まり住む必要がないように。フィリッポス二世は、野山に散っている同胞たちを辛抱強く説得して、或いはときに武力に訴えて、一箇所に定住させ、城壁を作って守ってやり、服を着せてやり、定職を与え、飯を食わせ、その上劇場などの娯楽を与え、神殿を建てて宗教を与えた。」
「何が言いたいんだ。」
「つまり、歴史に残ってない昔のことはわからんが、マケドニアはその国の発祥、成り立ちがだいたい全部歴史に記されている。それと同じことが、それより古いギリシャやトルコ、すべての古代文明で起きたんじゃないかって類推することは可能だろう。」
「つまり。」
「青銅器や鉄器を待たずに、新石器時代には精妙で強力な武器ができた。石斧や投げ槍、弓矢とか。そうすると人は、ばらばらで生きてられなくなった。それまではわーっと石を投げつけて外敵を追っ払ってりゃよかったがそうもいかなくなり、あちこち気ままに流離(さすら)うのをやめて、一族で寄り集まり、親から子、孫へとすみかを固定した方が安全便利だってことになった。一部のファミリーが核となって、まばらに散っている野人をリクルートしてきて、自分たちと一緒に住まわせようとした。つまり王という連中だ。」
「まさにリクルート、募兵だな。」
「ああ。王はできるだけ大勢人を集めるために、人々が快適に暮らせるように町を整備し、娯楽を提供し、また人々の心を一つにまとめるために神殿を建て、祭祀を執り行い、宗教を創った。さらに大規模な集落を作るために、狩猟採集を発展させて農耕と牧畜を考案した。武器を作り砦を作る専門職人が生まれた。」
「農業という技術革新が集落を形成したのではなくて、集住が農業を必要とした?」
「ま、そういうことだな。」
「農業が都市や神殿を産んだのではなく?」
「逆だ。まず王(リクルーター)による募兵(リクルート)があった。そこから集住、農業、祭祀、神殿、宗教、それらすべてが一度に必要になった。それが新石器革命の本質。その後時間をかけて、農業技術の蓄積と進展があって、いよいよ人類は大河の氾濫原に進出して、大規模な灌漑治水工事を始めた。それが古代文明の大発展をうながし、周辺の群小の都市国家(ポリス)を統合して、アケメネス朝ペルシャのような大帝国を産んだ。それが今の定説だぜ。」
「宗教って何だよ。宗教は、神の概念や信仰心というものは、もっと古い時代からあったんじゃないのか。旧石器時代とか。ネアンデルタール人も死者を埋葬したっていうし。」
「それはどうかな。日本語の「葬る。」これは古語では「はふる。」つまり放り投げる、捨てるという意味だ。死者の遺体を捨てるという行為は古代には広く見られるのさ。いわゆる埋葬とか墓というものは比較的新しいものだと思うね。
ジークムント・フロイトは宗教よりも前にタブーがあったとする。タブーというのは、ある種族がある動物の子孫であるという信念で、そこからあらゆる社会的禁忌が生まれてくる。ネイティブアメリカンのトーテムがそうだ。祖先神、ギリシャの守護神とかダイモニア或いはエウダイモニア、日本の産土(うぶすな)の神、みんなそうだ。
古代エジプトの神はいちいち何かの動物に関連づけられていた。ローマ建国の祖も狼に結び付けられている。タブーは遠い俺たちの祖先が動物たちとともに原野に住んでいたころからある原始信仰。なぜタブーがあるか?さて。でも非力な人間は熊や虎や野牛などの野生動物を怖れただろう。強い生き物に対する怖れ、そして憧れ。その力を、血を、自分が継承しているという希求。それがタブーのもとじゃないかな。アイヌの熊祭り(イヨマンテ)みたいなもんだな。実際アイヌは近代まで、新石器時代の文化を良く残していたよ。人類最古の神は恐らく熊。或いは狼や虎などの捕食動物(プレデター)だったはずだ。原始人にとっては人よりも肉食動物の方がずっと身近で日常的な脅威だったんだからね。その遠い記憶がモンハンとかゴジラみたいな怪獣として残っている。ポケモンなんてあれはまさにトーテムだよ、人類の本能に刻まれた。
タブーをもとに神の概念を整頓し洗練して民に施し与えたのがクニのリクルーターたる王だよ。タブー由来の神々に序列をつけてクニの神を決めた。神像を彫ってクニの、民族の象徴とした。王は自ら巫(かんなぎ)を演じた。だから古代の王権は宗教と不可分なのさ。多神教から一神教が生まれるのもそれで説明がつく。そして宗教と王権が分離することによって、王は必ずしも不要となって、アテナイやローマのような共和政・民主政のポリスも生まれてきたし、さらに純化されてプラトンの共産思想まで行った。」
「おおっとおしゃべりしてる間に、土肥の町中(まちなか)を通り過ぎちまったみたいだが?」
「恋人岬に寄るよ。」
「なんだそりゃ。」
「行けば分かる。」
夏も終わりに近づいた午後の、湯に浸かったように湿潤な海風が、展望デッキまで吹きあげてくる。悪趣味な男女の像が立っていてせっかくの雰囲気をぶちこわしている。どこの誰が、なんのためにここを「恋人岬」などと名付けたのだ。遠く富士の裾野が見える。頂上はあいにく灰色の笠雲に覆われているが、それがまた、富士山にとぐろを巻く龍の巣のようで、実に見事な眺望だ。
絶景を背に、カップルが、結婚式場の庭にあるような「ラブコールベル」という鐘を鳴らしている。
「斎藤、おまえと野郎二人でこんなところに来てもしょうがなかったよなあ。」
「いやあ。良いところだと思うよ、眺めがよくて。こういうチープなギミックにはしらけるがね。」
「しょうがない。それが「観光」ってものさ。」
「誰か女と来たかったのか。」
「いや、別にぃ。あてもねえしな。いても、ここにはさすがに恥ずかしくて連れて来れないよなあ。うちのクラスの女子とは趣味があわねえ。お嬢様がたは今頃みんな海外旅行さ。

    ΕΥΔΑΙΜΟΝΙΑ(エウダイモニア) ΑΝΑΚΕΙΜΑΙ(アナケイマイ) ΕΣ(エス) ΗΜΑΣ(ヘーマス) ΑΥΤΟΥΣ(アウトゥース)」

西田は授業で習ったばかりのアリストテレスの『ニコマコス倫理学』に出る一句を唱えた。「守護霊(エウダイモニア)すなわち良き霊は、一人一人の中にある」「幸せは人それぞれ」ってことだ。ここを訪れる男女のために、この鐘の大理石の支柱に刻んでおきたい文句だ。

西田の実家ではごちそうを奮発して待っているという。親切を断るわけもいかないのでこれから呼ばれることになっている。
「一緒に飲み屋に繰り出したいところだが、しゃあねえな。俺のオトンとオカンの顔を立ててくれや。ところで斎藤、その前に、せっかく秘境西伊豆まで来たんだから、商業資本に毒されてない温泉に入っていきたいだろ?」
「何か珍しい温泉でもあるのかい。」
「実は俺も最近知った、地元民以外には知られてない出(い)で湯(ゆ)があってね。」
「どんな。」
「まあ、日本広しと言えど、秘湯中の秘湯、これほどの秘湯はないと思うぜ。」
「まじかよ。」
「サプライズだ。ノーヒントで付いて来なよ。」
町外れの路傍に駐車し、西田は山道を辿り始める。石段を登るとやがて寺の山門らしきものが見えてきた。
「寺に温泉があるのかい?」
「ああ、話は長くなるが、土肥には昔、金山があったんだ。」
「へえ。頼朝の時代からとか?」
「いや、明治に入ってからさ。」
「なんだ、ずいぶん最近だな。」
「でも俺が生まれる頃にはもう枯渇して閉山してた。今も観光客向けに砂金取りのイベントなんかをやってるんだけどね。やりたいかい?」
「別にいいよ、俺は。」
「そんで、金鉱を掘ってて温泉が出たというわけだ。伊豆はどこでも掘ればたいてい温泉は湧くんだがね。実を言えば今も温泉宿に配給するお湯は足りなくて、いつも新しい井戸をあちこち試掘してる。で、その土肥温泉街ができるきっかけとなった温泉が、この寺の裏山の坑道の中にある。」
寺の本堂の前で、一人の僧形の男が俺たちを待っていた。
「斎藤、紹介しよう。こちらの住職の赤城さん。赤城さん、こちら俺の大学の同級生で、斎藤です。」
「こんにちは。初めまして。」
「やあ、斎藤君よろしく。私がこの、真言宗法烙山妙験寺の和尚、赤城太(だい)拙(せつ)だ。うちは、西伊豆でも指折りの古(こ)刹(さつ)、本尊の大日如来は木曽檜材寄木作り、昭和初期の著名な仏師宇野早雲の彫り物で、わざわざこの像の拝観のため多くの敬虔な信徒が西伊豆まで足を延ばしてくださるのだ。斎藤君も記念に本堂に上がって仏様にお焼香していくかね?」
「はあ。」
西田はぷるぷると首を横にふり、俺の耳元でささやいた。
「長くなるからやめとけ。」
西田は赤城さんに向き直り、言った。
「太拙和尚。さっそくですが、あのー、お願いしておいた例の、一般人には非公開な、一番奥の源泉まで行ってお湯に入りたいのですが。」
「ああそうだったな。では案内しよう。」
「よろしいのですか。」
「かまわんよ。俺も毎日入っているのだから。」
「温泉の内風呂ですか。そんな贅沢はなかなかありませんねえ。」
俺たちは赤城さんに真っ暗な坑道のどん詰まりまで連れてこられた。ほのかに、いわゆる卵が腐ったような、硫黄臭がする。
「これが温泉ですか。」
「そうだ。」
それは岩風呂というよりも、岩のくぼみにたまった湯だまりのようなものであった。
「この白いのは温泉に含まれる石灰分が析出したものだ。」
つまり鍾乳石みたいなものか。
「こりゃみんな俺が遊びで彫った磨(ま)崖(がい)仏(ぶつ)だよ。」
坑道の岩盤をくりぬいて、地蔵が、羅漢が、不動明王が彫ってある。恵比寿さんみたいなのもある。何でもある。確かにこれは遊びだ。いかにも稚拙だし、信仰とも芸術ともつきかねる。その像一つ一つの前に赤城さんは、蝋燭の火を灯し手を合わせる。
「こういうの、江の島の岩窟の中で見たことがある。なんだか神秘的だなあ。」
西田は素直に感動しているようだ。
俺たち三人は服を脱ぎ、体を洗ってから、湯に体を浸した。
「斎藤、ブログとかには、書かないでくれよ。赤城さんに迷惑がかかるからな。」
「わかってるさ。」
しばらく俺たちは赤城さんの話を聞いていた。本場ネパールやチベットで密教の修業をしてきたこと、スリランカやタイにも足を伸ばしたこと、などなど。のぼせないように、湯から出て、岩に寝転がって体を冷やすことにした。時折り天井から落ちてくるしずくがひんやりして心地よい。
「テルマエ・ロマエって知ってるか。」
西田が唐突に聞いた。
「ああ。古代ローマ人が日本のいろんな温泉やら銭湯にいきなりタイムスリップしてくる話だろ。映画化されたり続編が出たりして、だんだんネタが尽きてきて、苦しくなってきたよな。」
「こういう温泉もネタにすりゃいいと思わね?」
「おまえさっきと言ってることと違くね?」
「もちろんここはダメだ。世の中、テレビや雑誌で紹介されるだけがすべてじゃない。こういう所はよそ者が入って来て世間にさらされちゃ元も子もなくなる。代わりに架空の温泉のセット組んで作ればいい。」
「はあ。こういう廃坑にいきなり古代ローマ人が出てくるわけね。」
「ラテン語で挨拶するのさ。サルウェ!やあ、こんにちはって。」
「そりゃ、俺たちにとっちゃすごく勉強になるな。ラテン語会話の。」
「逆にこんなのはどうだろう。武田信玄が甲斐の隠し金山に温泉が出たので入ってたらいきなり神隠しにあっちゃう。仕方ないから影武者立てて、跡継ぎの勝頼は長篠の戦いで討ち死に。一方、信玄は皇帝ネロに転生してハーレムでうはうは。」
「でもしまいにゃ暗殺されちゃうんだろ?」
いつものことながら西田の思いつきで大したネタが出たことはない。

黙って聞いていた赤城さんがおどけた調子で言った。
「三人でちょっと念じてみよう。ローマ人を呼び出すのさ。」
「本気ですか。」
「万一出てくりゃもうけもんじゃないか。」
赤城さんが印を結んでなにやら呪文を唱え始めたので、俺も付き合いでお祈りしてみる。アビラウンケンソワカアビラウンケンソワカ・・・

揺れた。なんか来やがった。
「地震だ。」
「やばいぞ。」
「坑道が崩れるかもしれん。」
「慌てるな。慌てて転んじゃシャレにならんぞ。」
「ああ、収まってきた。」
そのときだった。湯だまりの中から、ざばっと、異様な風体をした男が出て来たのは。

「うわっ。」
「ほんとに出やがった。」
「太拙和尚の真言の力は、ホンモノだったんだ。地震で時空の歪みができたんだ。」
「ほんとかよ。」
「軍人か。」
「古代ローマの重装歩兵?」
その男は剣と盾と、投げ槍を三本持ち、頭には座敷箒のようなトサカがついた兜をかぶっている。
男は盾をかまえて剣を抜いた。
「待て。やめろ、殺すな。俺たちは敵じゃない。」
西田と俺は懸命に、知る限りのラテン語の語彙を駆使して、男に語りかけた。
「SALVE(サルウェ)!」
「UNDE(ウンデ) ES(エス)(どこから来た)?」
「QUID(クイド) EST(エスト) NOMEN(ノーメン) TIBI(ティビ)(あなたのお名前は何ですか)?」
しかし男には言葉が通じなかった。
「おい、おまえの言葉、イタリア語混ざってるぞ。」
「ラテン語にイタリア語がちょっと混じったくらいで通じないわきゃないよ。」
「おや、この男の言葉は、どうもラテン語でもイタリア語でもなさそうだが。」
「じゃあ何語だ。」
「これは、・・・コレはまさしくギリシャ語だ!」
「そう言われれば。」
現代ギリシャ語ではない。古典標準語(コイネー)でもない。その男は、「ここはどこだ、おまえたちは何者だ、」と古代ギリシャ語で話しているように思われた。
「ΕΛΛΗΝ(ヘツレーン)(ギリシャ人)!?」
「そうだ、おまえらは何人だ。ΠΕΡΣΗΣ(ペルセース)(ペルシャ人)?」
「違う。ペルシャ人ではない。」
「では何人だ。見たこともない顔立ちの種族だ。」
「ペルシャよりもずっと東の国の者だ。」
「ではインド人か?」
「いや、インドよりもずっとずっと東の国の人間だ。」
「インドの東にはもう海しかないはずだ。」
「いやいや、インドの東にもまだ広い大陸があって、その東の海に浮かぶ島に、あなたはなぜか、その温泉から出て来たのです。」
「温泉?」
「ええ、温泉から。なぜだか理由はわかりませんが、あなたは、ギリシャから、私たちが住む東の果ての島国に、温泉を通り抜けてやってきたのです。」

「ふむ。思い当たるふしはある。」男はしばらく思案にふけった。「余(よ)は、スパルタ王レオニダスだ。」
「ええっ。」
「余はギリシャ連合軍の盟主として、ペルシャ王クセルクセスの軍を迎え撃つために、三百人の決死隊とテルモピュライを過ぎようとしていた。途中、地震が起き、俺が乗った馬が驚いて足を滑らせて、余は温泉の沼に落ちてしまった。」
「おい西田、テルモピュライとは、「ΘΕΡΜΟ(テルモ)(熱い)ΠΥΛΑΙ(ピユライ)(門)」、つまり、「温泉の湧く通り道」という意味なのだよ。」
「そうなのか?」
テルモピュライは山と海に挟まれた狭い経路で、しかも山から絶えず硫黄泉が湧き、海辺に石灰を堆積させ、熱い沼地を成しているという。泉質もどうやらここの温泉に似ているらしい。しかし余りにも話が出来すぎている。
「余は、「熱い門(テルモピユライ)」を通り抜けてここへ来てしまったというわけか。」
「赤城さんのお経がスパルタ王を召喚しちまった。」
「どうしよう。」
西田と俺は、赤城さんが真言密教の修験者であること、赤城さんと一緒にみなで召喚呪文を唱えたこと、あたりは適当にぼかして、レオニダスに説明した、三人で温泉に入っていたらたまたま地震が起きて彼が現れたのだと。
「なるほど、我がギリシャにもしばしば震災がある。そしてテルモピュライは地底の冥界(ハデス)に続く場所と言われている。余は地震で開いた地獄の門を通ってここへ来てしまったのかもしれん。」
レオニダスは彼なりに納得したように思われた。
「おまえたちは我々よりずっと未来の人間なのだな。すると余の、スパルタの運命を知っているのであろう。」
「知っています。あなたはテルモピュライの戦いで討ち死にします、二十万人のペルシャ陸戦隊に攻囲されて。他の三百人のスパルタの戦士とともに。全滅するのです。」
「しかし今余は、まだ生きていて、ここにいる。彼らは余を待っているに違いない。」

また地震が起きた。
「余震か。」
「あぶない。」
「余は、ギリシャに帰らねばならぬ。今なら帰れるかもしれぬ。」
「やめてください。帰ればあなたは死にます。」
「それでも、余は帰らねばならぬ。余はラケダイモン人の王(バシレウス)なのだから。
デルフォイの神託は告げた、「王が死ぬか、国が滅びるか」と。余が死ねば国は滅びぬ。」
そう言ってレオニダスは湯だまりの中へ飛び込んだ。
赤城さんはまたしても真言(マントラ)を唱えた。
「サター、サター。サラテー、サラテー。トラユィ、トラユィ。ヴィダマニ、サンバンニャニ、トラマティ、シッダーグリャ。ヴァジュラーグニ、プラディープターヤ。スヴァーハー。」

大地の動揺が収まるとともに湯面も鏡のような静けさを取り戻し、ただほんのりと硫黄の匂いの湯気が立ち上がるだけである。彼は二度と浮かび上がってはこなかった。

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