最近だと、物を書き始めてざっくりといったん最後まで書いて、それから後でディテールを肉付けして10倍くらいに嵩を増やすのだが、
まず短いうちに人に読んでもらう。
あまり長くなると読ませるのに迷惑だし、まあいろいろ差し障りがあるので、
すかすかなうちに読んでもらう。
そうするといつもだいたい言われるのは、「神の視点で書かれている」「主人公が居ない」「主人公が居ないから感情移入できない」
「感情移入できないから、面白いか面白くないか判断できない」「面白い箇所もあるのだが」
「最初に主人公についてある程度のボリュームを書いて、読者を引き込んでから展開すべきだ」
などだ。
いろんな人に読ませてほとんど同じリアクションなので驚く。
しかしまあ、思うのだが、たとえば中国の古典文学、『水滸伝』には主人公がたくさんいて、
その中には一応主役が何人かいるわけだが、やはりこれは、主人公がいるとは言えない。
『儒林外史』などは次々に主人公が交代していくから、オムニバス型と言えるが、
これもやはり、最初に感情移入すべき主人公が居ない。
最初に出てくる人は、元末明初の王冕という人だが、この人の話は第一話で完結してしまう。
『紅楼夢』はまだ読んだことはないが、一応主役が三人ほど居るらしいが、ほかに四百人ほど登場人物が居るらしい。
何しろ一度読んだだけではわからないが、三度読むと中毒になるらしい。
よくわからんが、感情移入しにくい小説であることはたしかだわな。
『金瓶梅』『西遊記』などはだいたい主人公が居るわな。
『平家物語』にも主人公は、居ない。たぶん。
あまり通読する人は居ないのかもしれないが、最初から順番に読んでいくと、
最初の方はどうも清盛が主人公らしいのだが、あまり関係ないどうでもよいエピソードがどんどん挟まっていて、
誰か特定の人に感情移入するようにはできてない。
途中から、義仲とか義経とかが主人公になってしまうようにも見えるし。
ていうか普通の人は『平家物語』をどういうつもりで読んでいるのだろうか。不思議だ。
いや、つまり何が言いたいかと言えば、主人公が確かに居る小説ばかりではないはずなのに、
世間一般では、どうしてこう、主人公が居なければならない的風潮になっているのかというのが、
不思議でならないのだ。
おそらくだが、それが、少女漫画や少年漫画、ライトノベルなどの王道なのだろう。
かつそれを原作としたドラマや映画の影響。
たぶん私はそれらのまったく埒外で物を書いているので、なじまないのだ。
それはそうと『紅楼夢』はざっと『儒林外史』の三倍の分量がある。
『儒林外史』は一人の作者・呉敬梓によって書かれたことがほぼ特定されているが、
二十年近くかけて書いたそうだ。
『紅楼夢』はどうなのだろうか。曹雪芹という人が作者となっているが、
おそらく、数人がかりで書いたものではなかろうか。