紀有常の妻

紀有常の妻は藤原内麻呂の娘である。ところが内麻呂は812年に死んでいる。有常が生まれたのは815年。つまり、有常の妻は、有常より少なくとも2才年上だということになる。

内麻呂の享年は56才。この年で子を産むことは、不可能ではないが、かなり珍しい。内麻呂の子らで生年が分かっているもので一番若い者でも、だいたい799年までに生まれている。
ということは、有常の妻は、有常より10才くらい年上だった、と考えるのが自然だということにならないか。

有常は幼馴染みの娘と結婚したが、後に有常が左遷されたので、妻と疎遠になった、という解釈はおそらく間違いなのだ。
「筒井筒」に見るような、仲睦まじい夫婦とは、有常ではなく、紀氏に伝わるもっと古い、別の伝承であろう。
紀氏が生駒山の麓に住んでいたのは、奈良時代のことに違いない。有常は平安遷都から20年後に生まれているのだ。

有常はおそらく元服と同時くらいに、ずっと年上の妻を名家から迎えた。女も本来ならばもっと高い身分の夫に嫁ぐつもりでいたかもしれない。たとえば姉の藤原緒夏は嵯峨天皇の夫人になっている。ところがずっと年下の有常の妻にされてしまった。何かの政略があった。つまり、有常は紀氏の長者となるためにあえて藤原氏の妻を娶った。藤原氏は紀氏を自分の郎党に組み込んだ。
有常の姪静子は文徳天皇の更衣となり、第一皇子惟喬親王や斎宮恬子内親王を生んだ。在原業平は有常の娘婿であり、業平は惟喬親王の身辺警護役だった。藤原氏も有常を無視することができないので、一族の娘を嫁がせたのだ。

それで第16段にも書かれているように、40年近くも連れ添ったのだから不仲ではなかったのだろうが、有常が思ったようには出世しないので、妻は姉(緒夏?)とともに尼になってしまった。

内麻呂は冬嗣の父で、生前に従二位右大臣にまでなった人だから、紀氏よりはずっと権力者であった。死後に贈従一位左大臣となったのは、冬嗣が娘順子を仁明天皇に入内させ権力を握ったからだろう。
有常が内麻呂の娘を娶ったことは有常の出世にはずいぶん有利だったはずだ。しかし冬嗣の子良房に藤原一族の権力が集中していく過程で、有常は左遷され、妻は有常を疎むようになり、ついには離縁することになったのに違いない。

伊勢物語 一つの仮説

『伊勢物語』には、もともと一つの話だったのではないかと思われるほどよく似た話が複数ある。一つの話が何かの理由でいくつかのバリエーションに分かれたのではなかろうかと思われるのである。
また、歌が全然関係のない万葉集などからもってきて、割と無理矢理に挿入されたり配置された感のあるものが少なくない。

これらのことから一つの仮説が成立し得ると思う。

まず最初に、歌のない原作とでも言い得るものがあった。
これはたとえば、紀有常じいさんの昔語り、のようなものであったかもしれない。明治時代の軍人に比志島義輝という人がいて、この人の小説を書いたことがあるのだが、彼の談話というのはいくつかバリエーションがある。つまり、年を取って偉くなってから若い頃の思い出話を何度か語って聞かせたのだが、話すたびに少しずつ内容も違ってくるだろうし、詳しいときもあり、忘れてしまったり、記憶が改変されてしまうこともあっただろう。書き手が脚色したこともあっただろう。そんなこんなで、そもそも原作の段階から、同じ話なのだがいくつものバリエーションがあった、ということがあり得ると思う。

で、まず、原作があった。それは歌のない、今昔物語とか古今著聞集のようなものだった。
ここに後の人が、古歌や自分が詠んだ歌や、その他もともと原作とは関係なかった歌を挿入して歌物語にしようとした。
今も良くあることだ。映画化したりドラマ化したりコミカライズしたりする。メディアミックスというやつだ。それでおそらくは、より多くの人々に物語として広めたり、子供や女子にもわかりやすく楽しい話に作り替えたのだ。
そのとき、一つの原作が、挿入する歌によって別々の話のように作り替えられる、ということがあっただろうと思う。

たとえば第69, 70, 71, 72, 75段などは、そうやって、一つ話がいくつも並列にリメイクされてできたのではなかったか。
この部分、ざっくりと原作を復元してみると、こうなる。紀有常が伊勢国守兼伊勢斎宮頭だった頃のこと。朝廷から狩りの使いがやってきた。斎宮に仕えていた女が、都人が珍しくて、夜中に斎垣を越えて男に会いに行った。女は大淀まで男を見送り、男は女を京都に連れ帰ろうとしたが、女は拒んだので男は泣いた。男は尾張へ旅立った。
こういう感じのことを、紀有常が、昔ワシが伊勢守だったころ、こんなことがあったのじゃ、と子や孫に語り、それが彼の死後も語り伝えられたとして何の違和感もない。

今昔物語や古今著聞集はではなぜ歌物語に作り替えられなかったのか?
おそらくは恋愛物ではなかったからだ。歌は春夏秋冬恋が相場と決まっている。今昔物語とは相性が悪い。語り手も違ったかもしれない。歌物語は女子供、遊女などの芸能だった。今昔物語はたぶん坊さんの説話のようなものだ。

歌物語となったことによって、挿入された歌は、実際語られるときには歌ったり舞ったり、楽器で伴奏したりしたのかもしれない。今で言うミュージカルのように。一種の演劇となって、上演された可能性もなくはない。というか、わざわざ歌物語に仕立て直したりするからには、それくらいの理由があったとみるべきではななかろうか。

東下りの話なども、同様な生成過程を経て、もともとは紀有常の体験談のようなものだったのだが、次第に和歌が挿入され、話が分岐して別々の話のようになっていった。
それらをあとで全部蒐集してひとまとめにしたのが『伊勢物語』なのではないか。

藤原高子の話もそうだ。もともとは歌の無い伝記のようなものだったのだが、あとから歌を付けたりしたりして分岐していったのだ。

ただし、惟喬親王と在原業平、紀有常の三人が出てくる話は、おそらくもともと、業平が詠んだ歌をメインに、最初から歌物語として成立したに違いない。なぜなら、ストーリーと歌とが、何の矛盾も無く親和しているからだ。
他の段によく見られるように、歌とストーリーがちぐはぐではない。ここからほかへ歌をもっていくこともできないし、他の歌を持ってきて入れることもできない。この状況で、在原業平ならこの歌しか詠まないだろうと思われるくらい、歌とストーリーが不可分に一体化している。ここだけ非常に完成度が高い歌物語になっているのである。

まとめると、まず、紀有常の体験談を書き留めた人がいた。本人かもしれない。
その体験談をもとに、適当に歌を拾ってきて歌物語に作り替えて広めた人がいた。これは複数人いたかもしれない。
そうして世の中に『伊勢物語』の物語群というものが広まり、有名になり、しかも異同が生まれると、これらを蒐集して、整理して、一つの本にまとめようとする人が出たに違いない。これがたぶん『新選万葉集』、つまり、菅原道真とか宇多天皇の時代のことだっただろう。『真字伊勢物語』はこの時代の面影を強く残している。
そしてその直後、おそらくは紀貫之によって、『仮名伊勢物語』という形で、完全な和文として、体裁が整えられたのではなかろうか。この頃になると紀有常の時代のことはほぼ昔話になってしまっていた。この時代の人に理解しやすいような脚色が加えられたと思う。伊勢の斎宮に仕えた女の話が伊勢の斎宮の話になったり、紀有常の話が在原業平の話になったり、いろいろな後付けのつじつま合わせが行われた。

伊勢物語 年表

延暦3 (784) 長岡京遷都。
延暦13 (794) 平安京遷都。
大同5 (810) 薬子の変。
弘仁6 (815) 紀有常、誕生。
弘仁7 (816) 良岑宗貞(遍昭。素性の父)、誕生。
天長2 (825) 在原業平、誕生。
承和6 (839) 紀種子、この頃、仁明天皇の更衣となる。
承和9 (842) 藤原高子、誕生。
承和11 (844) 紀有常の妹静子が文徳皇子惟喬を生む。
承和12 (845) 在原業平、左近衛将監(20才)。
承和14 (847) 紀名虎、死去。
嘉祥3 (850) 仁明天皇、崩御。良岑宗貞、出家して遍昭と号す。文徳天皇、即位。藤原良房の娘明子が文徳皇子惟仁(清和天皇)を生む。紀静子、この頃、文徳天皇の更衣となる。
天安1 (857) 紀有常、伊勢権守。事実上の左遷。
天安2 (858) 文徳天皇、崩御。清和天皇、即位。藤原多賀幾子、死去。
貞観1 (859) 藤原高子(17才)、清和天皇の大嘗祭で五節舞姫をつとめ従五位下に叙される(禁色勅許か)。
貞観5 (863) 在原業平、左兵衛権佐。
貞観7 (865) 在原業平、右馬頭。
貞観8 (866) 藤原高子入内、女御(24才)。三条の大御幸。
貞観9 (867) 紀有常、下野権守。東国に下る。
貞観10 (868) 高子、貞明(のちの陽成天皇)を生む。貞明、立太子。高子、「東宮の御息所」と呼ばれるようになる。
貞観11 (869) 遍昭、雲林院の別当(高子の援助によるか)。
貞観13 (871) 紀有常、兼信濃権守。
貞観14 (872) 藤原良房、死去。惟喬親王、出家。藤原基経、摂政右大臣。源融、左大臣。
貞観18 (876) 陽成天皇、即位。
貞観19 (877) 紀有常、死去。藤原高子、皇太夫人。遍昭、元慶寺を建立(高子の援助によるか)。
元慶3 (879) 清和上皇、出家。
元慶4 (880) 清和上皇、崩御。藤原基経、関白太政大臣。業平死去。
元慶6 (882) 藤原高子、皇太后。
元慶8 (884) 光孝天皇、即位。在民部卿家歌合。
仁和1 (885) 芹河行幸。
仁和3 (887) 宇多天皇、即位。鬼啖事件。
寛平1 (889)~寛平5 (893) 寛平御時后宮歌合(紀友則、紀貫之、在原棟梁、藤原敏行)。
寛平3 (891) 藤原基経、死去。
寛平7 (895) 源融、薨去。
寛平8 (896) 藤原高子、皇太后を廃され、「二位后」と呼ばれるようになる。
延喜1 (901) 菅原道真、左遷。
延喜3 (903) 菅原道真、死去。
延喜5 (905) 『古今集』成立。
延喜10 (910) 藤原高子、死去。
承平5 (934) 『土佐日記』成立。
天慶8 (945) 紀貫之、死去。
天暦5 (951) 梨壺の五人(大中臣能宣、源順、清原元輔、坂上望城、紀時文)、『後撰集』編纂開始。
寛弘5 (1008) 『源氏物語』この頃成立。
寛弘6 (1009) 具平親王、薨去(45才)。

伊勢物語 凡例

【定家本】は人文学オープンデータ共同利用センターのものをできるだけ忠実に翻刻した(現在作業中)。句読点や濁点などは、読みやすいように私が適宜付したもので、もともとはない。
藤原定家の孫、二条為氏の筆とされる(定家とは明らかに筆跡が異なるからだろう。定家直筆とされる写本はあるのだろうか。なさそうだが)。
http://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/200024135/

段数(段の通し番号)は『定家本』によった。
「井」「身」はそれぞれ仮名「ゐ」「み」として使われるが、真名として使われることがある。意味と音が一致していると思われるときには真名とみなし、漢字表記とした。
この写本には「を」と「お」、「わ」と「は」、「え」と「へ」と「ゑ」の違いは無いように思われる。
「おとこ」「をとこ」など、単に変体仮名のいずれを使うかの違いでしかないのだが、念のため原文に忠実に区別した。

【朱雀院塗籠本】は Wikisource による。
群書類從卷第三百七 物語部一 編者:塙保己一
https://ja.wikisource.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E7%89%A9%E8%AA%9E
wikisource のデータをそのまま転載している。

【真名本】は続群書類從卷第五百一 物語部一 編者:塙保己一(続群書類従. 第拾八輯上 続群書類従完成会出版、国会図書館永続的識別子 info:ndljp/pid/1789716)と、早稲田大学所蔵のもの(請求記号 Call No. ヘ12 00472)を参照した。
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he12/he12_00472/index.html

まず、こまかいことだが、『真名本』か『真字本』か。
宣長などが『真名本』と言っている本が『真字伊勢物語』寛永20 (1643) 二條通(京都) :沢田庄左衛門。早稲田大学所蔵、なのはほぼ間違いないのだが、これ、表紙には『真字』と書かれているが本文冒頭には『真名』と書かれているのである。
非常に紛らわしいのだが、本来は本文にあるように『真名伊勢物語《まなのいせものがたり》』というのが正しいと思われる。

『玉勝間』伊勢物語真名本の事
『伊勢物語』に『真名本』といふ本あり。萬葉の書きざまにならひて、真字して書きたる物なり。六條ノ宮ノ御撰と、はじめにあげたれば、その親王《みこ》の御しわざかと、見もてゆけば、あらぬ 僞《いつはり》にて、後の物なり。まづすべての字《もじ》のあてざま、いとつたなくして、しどけなく正しからず、心得ぬことのみぞ多かる。そが中に、「闇《くら》う」を「苦労《くらう》」、「指之血《およびのち》」を「及後《およびのち》」などやうに書けるは、「たはぶれ書き」にて、『万葉』にもさるたぐひあり。又「|東《あづま》」を「熱間《あつま》」、「云々《《にけり》》」を「迯利《にけり》」など書けるも、清濁こそたがへれ、なほゆるさるべきを、「なん」といふ辞に、「何」の字を用ひ、「ぞ」に「社」、「と」に「諾」の字を用ひたるたぐひ、こと心得ず。
しかのみならず、「思へる」を「思恵流《おもえる》」、「給へ」を「給江《たまえ》」、又「ここ《《へ》》」「かしこ《《へ》》」などの「へ」をも、みな「江《え》」と書き、「身《《をも》》」、「これ《《をや》》」などの、「をも」「をや」といふ辞を、「面《おも》」「親《おや》」と書き、「忘《わすれ》」を「者摺《はすれ》」と書けるなど、これらの仮字は、今の世とても、歌よむほどのものなどは、をさをさ誤ることなきをだに、かく誤れるは、むげに物かくやうをもわきまへしらぬ 、えせもののしわざと見えて、真字《まな》はすべてとりがたきもの也。
然はあれども、詞は、よのつねの『仮字本』とくらべて考ふるに、たがひのよきあしきところありて、『仮名本』のあしきに、此本のよきも、すくなからず。そを思へば、これもむかしの一つの本なりしを、後に真名には書きなしたるにぞあるべき。されば今も、一本にはそなふべきもの也。
然るにいといと心得ぬことは、わが縣居《あがたゐ》の大人《うし》(賀茂真淵)の、此物語を解《と》かれたるには、よのつねの仮字本をば、今本といひて、ひたふるにわろしとして、此『真名本』をしも、「古本」といひて、こちたくほめて、ことごとくよろしとして用ひ、ともすれば此つたなき真字《まな》を、物の鐙《あかし》にさへ引かれたるは、いかなることにかあらん、さばかり古ヘの仮字の事を、つねにいはるるにも似ず、此本の、さばかり仮字のいたくみだれて、よにつたなきなどをも、いかに見られけむ、かへすかへすこころえぬことぞかし。
さて又ちかきころ、ある人の出だせる、『旧本』といふなる、真名の本も一つ有り。それはかのもとのとは、こよなくまさりて、大かた今の京になりての世の人の、およびがたき真字の書きざまなる所多し。さればこれもまことのふるき本《まき》にはあらず、やがて出だせる人の、みづからのしわざにぞありける。然いふ故は、まづ今の京となりての書《ふみ》どもは、すべて仮字の清濁は、をさをさ差別《わき》なく用ひたるを、此本は、ことごとく清濁を分けて、みだりならず、こは近く古学てふこと始まりて後の人ならでは、さはえあらぬこと也、又「かきつばたといふ五言を、句の頭にすゑて」と書ける、これむかし人ならば、「五もじ」とこそいふべきを、「五言」といひ、歌の「かへし」を「和歌《かへし》」、「瀧」を「多芸《たぎ》」、「十一日」を「十麻里比止日《とまりひとひ》」と書けるたぐひ、時代《ときよ》のしなを思ひはからざるしわざ也。「十一日」など、此物語かけるころとなりては、「十一日」とこそ書べけれ、たとひなごめて書くとも、「とをかあまりひとひ」とこそ書くべけれ、それを「あまり」の「あ」をはぶけるは、古学者のしわざ、又「とをか」の「か」を言はざるは、さすがにいにしへの言ひざまを知らざるなり。又「うつの山」のくだりに、よのつねの本には、「修行者あひたり」とあるを、此本には、「修行者|仁逢有《にあひたり》」と、仁《に》てふ辞をそへたるなども、古ヘの雅言《みやびごと》の例を知らぬ 、今の世の俗意《さとびごころ》のさかしら也。かかるひがことも、をりをりまじれるにて、いよいよいつはりはほころびたるをや。


『真名伊勢物語』御撰「六条宮」は、早稲田大学の註に「伝六条宮具平親王撰」とあり、村上天皇の皇子、具平《ともひら》親王とされる。
あるいは、順徳天皇の皇子、雅成《まさなり》親王であろうか。

『真名本』には非常に古めかしい、奈良時代から平安初期に書かれたとおぼしき部分も多い。
古学が興り、万葉仮名の研究が相当に進んだ江戸中期以降に作られたのならともかく、鎌倉時代や室町時代にこのような本を偽造することは不可能であると思う。もしそのような時代に、『真名本』を一から偽造していたら、仮名遣いや語法にもっと明白な間違いが見つかるはずだ。
わざわざあんなことが出来る人は一人もいない。今日の学者にも無理だろう。というより、なぜ『仮名本』から『真名本』を作るのか。その動機は?いつの時代にそんな苦労してまで、こんな偽書をこしらえるような需要があっただろうか。

宣長も指摘しているように、「狩衣をなむ」を「狩衣乎何」と書き、「となむいへりける」を「諾何云計留」と書くなど、極めて特殊な万葉仮名遣いを用いていて、その他「五十戸」を「いへ」と読むなど、非常に珍妙な当て字がたくさんあって、これを後世の人がわざとそう書いたとは到底思えないのだ。
「諾」は『万葉集』では「うべ」もしくは「を」と読んでいて、どちらも承諾するという意味で、これを「と」と読む例は、この『真名伊勢物語』以外にはなさそうに思える。なぜそんな不可解なことをわざわざ偽書でやらねばならないのか。
偽書というものは人を信用させるためもうすこしわかりやすく書くものではないか。なぜあえて不審な当て字を使う必要があるのか。

このような異様な当て字や読み方など、後世の人に思いも付かないような書き方がされている。
また、『仮名本』と『真名本』を見比べたときに、どうにも『真名本』のほうが正しくて、『仮名本』は『真名本』を訳し間違えているように思える箇所もあるのだ。

荷田春満は『伊勢物語童子問』で『真名本』から『仮名本』が出来たと考えているし、賀茂真淵は荷田春満の弟子だから、春満と同じように、『真名本』のほうが古い形だと信じていたらしい。

伊勢物語の構成要素

紀貫之は「男もすなる日記というものを女もしてみむとてすなり」と前置きして、『土佐日記』を書いた。
この「男もすなる」の「男」とは誰か。
古来、公卿は漢文で日記を書いた。藤原定家も『明月記』を書いた。親王や僧侶など、多くの人が日記を残している。『吾妻鏡』は武家の日記が元になっていると考えられている。

「男というものはだれも日記を書くものなのだ、その日記というものを女の私も書いてみよう」貫之はそう言って、自分を女と仮定して『土佐日記』を書いたと解釈されてきた。
はたしてそうなのか。たくさんの「男」が日記を書いてきたが、一般論として、男はみな日記を書くものなのだろうか。

私はずばりこの紀貫之が言う「男」とは『伊勢物語』で「昔、男ありけり」と書かれた「男」だと思っている。

つまり、貫之が「男もすなる日記」といった「男」とは『伊勢物語』の元となった日記を書いた特定の男なのだ。

『伊勢物語』を『在五中将の日記』などとも言うが、在原業平は歌は詠むが自分で日記を書くような性格ではなかったはずだ。
業平の妻の父、つまり業平の義父に、紀有常という人がいる。紀貫之の遠い親戚だ。業平が仕えた文徳天皇第一皇子惟喬親王は有常の妹の孫に当たる。有常には、業平を日記に書き記す十分な動機がある。

『紀有常日記』には、下野守となって東下りしたときの紀行文や、伊勢守となって斎宮頭を兼ねたときの記録などが書かれていただろう。業平とともに惟喬親王に仕えた話、また、摂家のスキャンダルなども書かれていたはずだ。
有常は日本全国いろんなところへ行った。塩竃《しほがま》、つまり今でいう、宮城県の松島までも行ったらしい。
『紀有常日記』は漢文で書かれていたはずだ。しかし中には和歌や、万葉仮名で書かれた和文も含まれていたはずだ。それはちょうど大伴家持が編纂した『万葉集』のような体裁であったはずだ(もしかすると『竹取物語』も最初は漢文で書かれていたかもしれない。しかしこの話題にはいまここでは触れない)。その日記は時代を経るにつれてだんだん読みづらくなっていったので、和文に訳し、ふりがなを振ったりした。
それを見た貫之は、じゃあ俺が、最初から仮名で日記を書いてやろうと思って書いた紀行文が『土佐日記』なのだと思う。『土佐日記』と『伊勢物語』の東下りは雰囲気が良く似ているではないか。

紀貫之はまだ、『紀有常日記』をじかに読んでいたのではないかと思う。すなわち『男もすなる日記』とは、ずばり『紀有常日記』のことなのだ。しかし、紀貫之が死んだ後、つまり、梨壺の五人が『後撰集』を編み始めた頃には、『伊勢物語』を真似た二次創作みたいなのがわんさと出てきた。
もう、藤原高子が不倫して皇太后位を剥奪されてどうしたこうしたという時代からだいぶたって、それで昔ほどタブー視されなくなり、禁断の書だった『有常日記』がいろんな人の目に触れるようになって、収拾付かない状態になっていたと思われる。
それらを、梨壺の五人などの、六条宮具平親王を中心とする『後撰集』歌壇の連中が蒐集校正して、一個の『伊勢物語』としてまとめた。おそらく『拾遺集』が編纂された頃だ。原作も改編も二次創作も全部ごっちゃにしたから、似たような話がいくつも収録されることになった。この頃にはいつの間にか在原業平が主人公だと見なされるようになり、『在五が物語』とか『在五中将の日記』などと呼ばれるようになった。

『真名伊勢物語』は『紀有常日記』で用いられていた真名、つまり漢字をできるだけ残す形で作られたものだろう。六条宮具平親王が選んだことになっていて、彼の晩年は紫式部が活躍した時代と重なっている。

朱雀院は陽成院とも言い、二条邸とも呼ばれた。『朱雀院塗籠本』はその朱雀院の壁の中に塗り籠められていたというのが由来でそう言うのだろうが、この朱雀院というのは、『伊勢物語』の舞台の一つ、つまり二条の后こと藤原高子が住んだ所なので、そういう伝説が生まれたのだろう。

『定家本』はおそらく定家が手に入れたいろんな写本を校合して編んだものだろう。今『伊勢物語』と呼ばれているのはほとんどがこの『定家本』である。

『真名本』は、荷田春満や賀茂真淵が高く評価している一方で、本居宣長は、一定の評価はしつつも、かなり批判的である。
およそ今日に残っている古写本の多くは、定家の校正を経ている。さもなくば、源俊頼あたりの手によって仮名遣いが修正されている、と私には思われる。
具平親王の時代にはもう、「へfe」「えe」「ゑwe」「江ye」の違いは失われており、「はfa」「わwa」も混同され、「ゐwi」「いi」「ひfi」や「をwo」「おo」も曖昧になっていたと思う。だが、徐々に万葉仮名の研究が進み、「正しい仮名遣い」というものが意識されるようになって、『古今集』最古の写本(元永本)が出る源俊頼の時代には、意識して「へ」「え」「ゑ」「へ」、あるいは「ゐ」「い」「ひ」が書き分けられるようになった。これを完成させたのが定家で、それゆえこの時代の仮名遣いを「定家仮名遣い」とも言うのだが、江戸時代後期になると、記紀万葉の仮名遣いの研究成果に基づいて宣長などによって「定家仮名遣い」に含まれる間違いも指摘されて、明治の「歴史的仮名遣い」となるのだ。
たとえば宣長は若い頃は「用ひる」と書いていたが、晩年は「用ゐる」と書くようになった。

それで私たちは、紫式部が正しい仮名遣いで、というより、当時の話し言葉のままで『源氏物語』を書いたと考えているのだが、そんな証拠は全くない。というのも、『源氏物語』最古の写本は定家が写したものだからだ。定家はいろんな写本を見比べ、『万葉集』まで遡って正しい「てにをは」、正しい仮名遣いを推定して、『源氏物語』を書き直した。に違いない。『古今集』にしろ『後撰集』にしろ手当たり次第に書き直したに違いない。定家なら絶対そうする。
『真名伊勢物語』に仮名遣いの間違いが多く含まれているのは、当時すでに仮名遣いが乱れていて、しかも何が正しいかってことがまだわからない時代だったからだ、とすれば説明が付く。逆に、定家は、『真名伊勢物語』をいじってないし、読んでもいなかったはずだ。
紫式部の時代にはすでに仮名遣いは乱れまくってたはずだ(いや、有常の時代にすでに仮名遣いは乱れていたんだ、いやそもそも大伴家持もまた、試行錯誤ですでに乱れ始めていた仮名遣いを直そうとした結果が『万葉集』なのだ、と考えられなくもないが、話がそれるのでやめておいたほうがよさそうだ)。

というわけで私は、『真名伊勢物語』は六条宮具平親王御撰の、最古の写本である可能性が捨てきれないと思う。
あれは、仮名に無理矢理漢字を当てたのではなく、逆にもともと漢文だったものを無理矢理訓読している感じのものだ。
少なくとも仮名本にしたときに欠落した漢文本来のニュアンスを、つまりは有常の肉声を、『真名本』から再現することは可能だろうと思う。

『定家本』の不完全なところを後世の人が補完して『真名本』を作ったとはちと考えにくい。『真名本』を写し損ねて、『定家本』ができたと考えるほうが、ずっと自然に思える。

私は『古今和歌集の真相』というものを書いていて『伊勢物語』も調べる必要を感じ書き始めたのだが、こんな大作になるとは考えてもいなかった。

斎宮とタブー

少女の頃、賀茂の斎院となった式子内親王は、恋多き女だった。
誰が彼女の恋人であったか。特定はされてないし、実在も確認されてないが、少なくとも、その誰かわからぬ相手に対して少なからぬ歌を詠んで残した。

式子は待つ人であった。
「松」とは「待つ」である。

山深み 春とも知らぬ 松の戸に 絶え絶えかかる 雪の玉水

彼女は激情的な恋歌ばかりを詠んだのではない。『新古今和歌集』の冒頭から三つ目に載るこの有名な歌でさえ、実は単なる初春の叙景歌ではないのかもしれない。

「松の戸」とはある人が開けて入ってこないかと待っている戸である。
「松の戸」にかかる玉水は、その人の訪れが「絶え絶え」であることを意味する。
山が深く雪が積もっているから来ないと言っている人を式子はただひたすら、自分の部屋に閉じ籠もって待っている。
雪の玉水は式子の涙を暗示しているだろう。
もしこの解釈があっているなら、まさしくこの歌は『新古今』を代表する超絶技巧の歌だ。そしてこの歌の真意はおそらく定家以外は気付いていなかっただろう。式子の恋は人に決して知られてはいけない恋だったのだから。
式子は自分の境遇について、自分の恋について、人に語りたかっただろう。しかしそんなことは許されない。絶対に秘密にしなくてはならない。だから、遠い未来に、わかる人が現れたときにわかるように、歌にヒントを残した。そのヒントに最初に気づいたのはもしかしたら私なのかもしれない、と驚くとともに意外な気持ちもした。

『新古今』冒頭、式子の前に掲げられた二つの歌は、九条良経と後鳥羽院。二人とも、式子の子供くらいの年齢で、恋の相手ではあり得ない。ただし、これらの歌が、つれづれを嘆いている式子を慰めるために贈られた歌だった可能性はあろう。

みよしのは 山もかすみて しらゆきの ふりにし里に 春はきにけり
ほのぼのと はるこそそらに きにけらし あまの香具山 かすみたなびく

なめらかでやさしい歌ではあるが、あまりにも形式的で、特に優れた歌には見えないが、式子の歌を導き出すプレリュードとしては完璧である。と同時に式子の歌をカモフラージュする役割も果たしている。式子の歌もまた、前の二つの歌と同様に、単なる叙景の歌であろうと、人々に思わせたのだ。
しかし、式子の歌を前後から切り離して単独に見てみれば。あるいは式子の恋の歌の中に投入してみれば。あるいはこの歌を『恋』の部に挿入してみたら。この歌が意図するところはあまりにも明白ではなかろうか。
これらの仕掛けについて当然、九条良経と後鳥羽院は知っていたはずだし、そのアレンジをしたのはほかでもない、藤原定家であったはずだ。この三人だけが真相を知っていた。そのような意味において、『新古今』は実は極めて私的な歌集であった、と言うこともできる。

式子が待っていた人とは、九条兼実だったのでないか。
通常、式子のお相手は定家だと考えられているが、式子のほうが定家よりはるかに年上で、どうもあまり考えにくい。
式子と兼実は同い年で、内親王と摂家の御曹司、幼い頃から二人に接点が無いはずがなく、恋仲だったかどうかはともかく、ごく親密な関係であったはず。
私は、式子内親王が賀茂の斎院を退下したのは、彼女が兼実の子を身籠もったせいではなかろうかと思った。
もし式子が出産したとして、その子はどうなっただろう。内親王は天皇や皇族としか結婚できないが、当時、余った皇子は寺に入って法親王となるならわしで、僧侶である法親王もまた表向きは結婚できないし、子も持てない。ともかく内親王が夫や子を持つのは原則不可能であり、いたとしても公表はできない。社会の表舞台には出られないのだ。母が、そして父が、我が子にそんな味気ない人生を望むだろうか?

式子斎院退下の時期と良経の生年は完全に一致するのである。
式子と良経は歌を詠み交わしている。式子が子や夫と密に連絡を取りあっていた証拠ではないか。
式子に恋の相手はいただろう。
でなきゃ恋の歌なんて詠まない。詠めまい。あのように激情的な歌が単なるフィクションであるはずがない。
では誰か。誰が式子の相手だったのか。その候補を検討していくと、最後まで残るのは兼実しかいないのである。
これは、かつて『虚構の歌人 藤原定家』に書いた、まだ誰も指摘してないと思われる説である。定家が秘してのち、八百年余り誰にも知られていなかった真実?

内親王の子というものは、ほとんど知られていない。
内親王が皆、一生不犯であったなどとどうして信じられようか。内親王はものすごくたくさんいる。何百人といるのに誰も男性経験がないなんて信じられない。
そんな荒唐無稽な話を信じられるのは斎宮や斎院が実在しなくなった現代に生きる人だけだ。非実在キャラクターにはどんな属性も付加できる。斎宮や斎院といえど普通の女だ。そういう女性が一般人に交じってたくさん生きていた時代に、非現実的なまでに厳格な純潔を期待する人がいただろうか。

そもそも神道は、そんなに性的に厳格なものではない。せいぜい、伊勢神宮の境内の中では、血で穢れるから出産してはいけません、という程度のものだ。

ちはやぶる 神の斎垣も越えぬべし 今は我が身の 惜しけくもなし

このような歌が人麻呂の歌として平気で人々の口に上っていたのである。通い婚の時代に、高貴な、聖なる女性に通っていくことには、当然暗黙の了解があった。

『伊勢物語』に伊勢斎宮の駆け落ち事件が採られていることは、伊勢斎宮のスキャンダルが、決して皆無ではなかったことを意味しているように思う。
ただ、『伊勢物語』は明らかに後世の人が脚色している。皇太后藤原高子や、恬子内親王が名指しで登場する。彼女らに浮いた話がなかったとは言えない。しかし、『伊勢物語』に出てくる話はもとは別の人の話で、後世それが有名人、高貴な女性にむすびつられただけではないかという疑いは捨てきれない。誰もが知っている人の話にしてしまうことも巧妙なカモフラージュの一種だ。

かつて伊勢神宮には斎宮が、上賀茂神社には斎院という未婚女性が派遣されていた。
伊勢神宮の縁起についてはいろんな伝説があるようだが、天武天皇2年、673年に天武天皇の皇女、大来皇女《おおくのひめみこ》が12才で初代斎宮となった。
賀茂斎院は、810年に嵯峨天皇の皇女、有智子《うちこ》内親王が3才で初代斎院となった。
建武の新政が瓦解して斎宮はとだえた。1334年のことだ。
斎院は承久の乱によって途絶えた。1221年のことだ。
しかし斎宮・斎院が、いずれも古墳時代から中世武家社会まで連綿として継続したおかげで、おそらく日本太古の風習であるシャーマニズムが、かなり純粋な形で残ったのである。
この風習はかつて広く世界中に見られたはずだ。ギリシャにもデルフォイやドードーナに託宣を授ける巫女《シビュッラ》がいた。今日でも特に東アジアではシャーマンが存続している。天照大神もシャーマンであった。斎宮や斎院は明らかに、そのシャーマンの系譜を受け継ぐものだ。

現在でも、ネパールの首都カトマンドゥには、生き女神クマリがいる。クマリとはサンスクリット語で処女という意味だ。クマリと日本の斎宮、斎院の類似性は疑いようもない。太古のアジアに広く、女神が処女に宿るという信仰があった証拠に違いない。

斎宮や斎院には極めて厳格な禁忌がある。これが、儒教や仏教などの外来宗教と、神道が完全に混淆してしまうことをかろうじて防いだ。シャーマニズムは儒教や仏教とは相容れない。というよりも、シャーマニズムのような原始宗教を否定し駆逐することによって、キリスト教や仏教のような普遍宗教は生まれてきたのである。あたかも現代医学が原始社会を衛生的に滅菌してしまうように。
ユダヤ教も預言者というシャーマンに依存し、シャーマンによって生み出されたが、シャーマニズムを否定することによってキリスト教となり、イスラム教となった。仏教もバラモン教を否定することによって普遍宗教となった。ギリシャ、ローマ、エジプトの宗教もみなきれいさっぱりと現実社会から拭い去られ、過去の記憶にされてしまった。

神道は仏教によって侵食されていった。
奈良県桜井市初瀬に長谷寺があるが、ここは雄略天皇時代の王都であった。しかしここにはもはや密教しか残っていない。高野山も同じ。ここは原始神道の揺籃であったはずなのだ。
長谷や高野山などの辺鄙なところに太古から脈々と密教が受け継がれているのは、ここがかつて原始神道の本場であって、それが仏教の影響を受けて密教化したからに違いない。
我々は、長谷観音信仰に、シャーマニズムの残像を見る思いがするが、ここでは神道は完全に真言密教と混淆していて、痕跡しか残っておらず、原型を推測するのは難しい。
別の言い方をすると真言密教と原始神道には密接な関係があって、宇多天皇や後醍醐天皇はそのことに気付いていた可能性がある。

渡来系の神道、たとえば宇佐八幡などは容易に仏教と混淆した。
春日大社は興福寺と混淆し、熱田神宮でも平安時代にはすでに写経が行われている。延暦寺などはわざわざ日枝神社を作り出して垂迹説を流行らせた。そういった仏教の影響を受けなかったのは、伊勢神宮と、上賀茂神社と、(ごく一部の)宮中祭祀しかないのである。上皇は出家することもあったが、天皇はかなりの程度、仏教から切り離されていたし、今もそうである(外来の即位礼は仏教の影響を受けたが大嘗祭はほとんど受けなかった)。それら外来宗教との混淆を峻拒し続けたのは男性である天皇ではなく女性である斎宮なのである。天皇は女性、つまり斎宮を兼ねることもあり得た。それゆえに、天皇にまつわるタブーは残った。また斎宮を持つ伊勢神宮と上賀茂神社にもタブーが残り得た。
伊勢神宮にも無数の神宮寺が寄生し取り巻いていた。しかしその中心に、仏教が立ち入ることができない聖域は残ったのである。
このわずかに残った聖域のおかげで、明治の神仏分離令によって、神宮寺はほぼ完全に消滅した。神宮寺は、今では人の名字くらいにしか残ってはいない。

伊勢物語

しばらく放置していた[カクヨムの伊勢物語](https://kakuyomu.jp/works/1177354054881894159)をまた書き始めた。

なんで伊勢物語を書き始めたかといえば、
『古今和歌集の真相』の手直しをしていて、伊勢物語と関係する部分がどんどん膨らんでしまったので、
分けることにしたのだ。

で、なんでカクヨムかというと、伊勢物語は『古今』のおまけだからタダでいいかなという気分だったからだ。

伊勢物語の謎はすでにほぼ解いたと思う。
肝心の部分はもう書いて公開してある。
伊勢物語がなぜ伊勢物語と呼ばれるのか。
それがどのように変容していったか。
なんで変容したのか。
かっちりとではないが、おおまかな流れは見えた。

それでまあこんなわかってしまえば簡単なことを1120年近くわからずにいたのだよ。
なぜ自分にわかったかというよりもなぜ今まで誰にもわからなかったかのほうが不思議だ(もちろん部分的に指摘した人はいたのだが)。
なんか大言壮語してみた。

カクヨムだが、割とgoogle検索の上のほうに上がってくるので、カクヨムに書いておくことには意味はあるな、と思い始めている。
『妻が僕を選んだ理由』と『新歌物語』は前半15000字くらいをカクヨムで読めるようにしている。
誘導効果はあると思う。

まあね。私は学術的なことを書くしかないんだよ。
ときどきエンタメ。それでいい。

伊勢物語の真相2

66、67、68

69、70、71、72
例の伊勢斎宮の話。

ちはやぶる 神のいがきも 越えぬべし 大宮人の見まくほしさに

恋しくは 来ても見よかし ちはやぶる 神のいさむる 道ならなくに

これはもともと万葉集11-2663

千葉破 神之伊垣毛 可越 今者吾名之 惜無

ちはやぶる かみのいがきも こえぬべし いまはわがなの をしけくもなし

73、74

75
これは有常が妻を任地の伊勢に連れて行こうとした話だろう。
「見る」と「逢ふ」が区別されているのだが、「見る」とは「文を見る」の意味だろう。

76
これの謎解きは『古今和歌集の真相』に書いた通り。

77、78
文徳天皇、女御・多賀幾子、藤原常行、在原業平の話。

79
貞数親王の話。
父は清和天皇、母は在原行平の娘・文子。

80

むかし、おとろへたる家に、藤の花植ゑたる人ありけり。

在原氏と藤原氏のたとえだというのだが、それはどうだろうか。

81
源融の話

82、83
惟喬親王、在原業平、紀有常の話

84
長岡

85
出家後の惟喬親王

86
有常と妻の話か?

87

津の国莵原の郡芦屋の里

阿保親王の領地であるという。

88

95
藤原高子に仕える男女の話。

97
藤原基経

98
藤原良房

99
業平

101
行平

102
尼となった斎宮の宮とは誰だろうか。晏子か恬子だろうか。

103
仁明天皇に仕えた男。850年までの話になる。

106
竜田川。渚の院、業平。

107
藤原敏行

114
光孝天皇。伊勢物語の中では比較的新しい。

115、116
陸奥の話

125

むかし、男、わづらひて、心地死ぬべくおぼえければ、

つひにゆく 道とはかねて 聞きしかど きのふけふとは 思はざりしを

後付けな感じがするが『古今集』に採られているので古い歌なのだろう。
業平かどうかは疑わしい。

伊勢物語の真相

『古今和歌集の真相』を手直ししてて、『伊勢物語』が気になり始めた。

『伊勢物語』125段、藤原定家版以外なく、つまり、定家までどのような形で伝承してきたかすら、わからないということだ。

それでまあ、紀氏の家に紀有常の物語が残り、また藤原高子と遍昭の物語がこれとは独立してあった。
紀有常物語を執筆したのは紀貫之である可能性が高いと思う。
この二つの物語は比較的似ているし成立時期も重なっているので、
のちに一つに合体してしまい、
さらに似たようなエピソードも追加されて、
主人公は在原業平であることにされてしまったのではないか。

奈良や大和の話が多いのも気になる。
平城天皇系統の物語が在原氏を経て残ったのかもしれない。
京都からわざわざ奈良に来たときの話ではなく、平安時代になってもまだ奈良に住んでいた人たちの話。

1と2はよくわからんが、3から6段までは、高子と遍昭の若い頃の話。
高子入内866年より前。
1と2は後から巻頭に付け足された可能性もある。

7段は、有常が伊勢に権守として赴任したときの話だろう。857年。

8段は、有常が信濃に権守として赴任したときの話だろうから、871年頃。

9、10、11、12、13段は、有常が下野に権守として赴任したときの話。867年。
12段は、おそらく「国の守」である有常が下野に向かう途中に武蔵野辺りで盗人を捕らえて連行したという話だろう。

14、15段。

陸奥の国にすゞろに行きいたりけり。

下野は白河の関を越えれば陸奥であるから、そういうこともあったかもしれない。

16段。これはまさしく有常とその妻の話である。
時期はよくわからないが東国に赴任するころと一致するのに違いない。

17、18、19、20、21、22、23、24、25、26、27、28、29、30、31、32、33、34、35、36、37段。謎。
26段は高子の話か。
断片的なエピソードが集められた感じだ。

田舎わたらひ

むかし、男かた田舎に住みけり。男宮仕へしにとて、

子供の頃は奈良で育ったが、宮仕えしようと京都に移り住んだ、という意味ではなかろうか。
ならばやはり在原氏の話ではなかろうか。業平とは限らない。
業平の父・阿保親王だとすると田舎とは太宰府であることになる。
奈良ではなく長岡京かもしれない。

38段。これも明白に有常の話。

39段。淳和天皇と、崇子内親王と、源至の話。848年。

40段。謎。

41段。

武蔵野の心なるべし

とあるから、有常の話か。

42
謎。

43
賀陽親王の話。
賀陽親王は桓武平氏の祖葛原親王の実母弟。871年まで生きたので、
有常より20歳ほど年上だが、同時代人とも言える。

44
有常の馬の餞の話か。

45
謎。

46
地方に下った有常へ京都の友が消息した話か。

47
謎。

48
これも有常の馬の餞の話か。

49
謎だが、有常の話であるとすれば、
妹とは、仁明天皇更衣の種子、
文徳天皇更衣の静子かもしれない。
妹に

聞こえけり

とあるのが暗示している。

50、・・・、59
謎。

60、61。
有常が肥後権守となったときの話か。

62
謎。

63
在五中将、つまり業平の話。

64
謎。

65
非常に興味深い話だ。
ここには藤原高子と清和天皇と在原某が出てくる。
清和親王の母・藤原明子(染殿后・文徳天皇の女御・藤原良房の娘)も出てくる。
高子入内後の話としてもよいが、それだと

おほやけおぼしてつかう給ふ女の、色ゆるされたるありけり

皇后ならば禁色を許されているのは当たり前だろう。
だから高子がもう少し若い頃の話ではないか。
そしてそれより若い在原某は業平ではあり得なく、
業平の息子の棟梁、あるいは孫の元方であるかもしれない。
棟梁は有常の娘の子である。

清和天皇は幼主であったから女盛りの高子が不倫していてもなにもおかしくはない。

『伊勢物語』の主人公は紀有常ではなかろうか。

そして『伊勢物語』の筆者は紀氏の誰か、有常から昔話を聞けただれかだろう。
紀貫之である可能性もある。
貫之は『土佐日記』で渚の院に言及しているが、
彼は当然、渚の院における惟喬親王や在原業平、そして紀有常の故事を知り得る立場にいた。

紀有常は名虎の子で、妹に静子があり、静子は文徳天皇の更衣となり、文徳の長男・惟喬親王を生んだ。
藤原良房の関心は文徳からその皇子の惟仁(後の清和天皇)に移りつつあった。
文徳朝末期、有常は伊勢権守となる。
これゆえに『伊勢物語』というのではないか。
権守というのだから実際に伊勢に赴任したのである(ほんものの伊勢守はおそらく王(皇族)で遥任)。
69段、

昔、男ありけり。その男伊勢の国に狩の使にいきけるに、かの伊勢の斎宮なりける人の親、「つねの使よりは、この人よくいたはれ」といひやれりければ、親のことなりければ、いとねむごろにいたはりけり。朝には狩にいだしたててやり、夕さりは帰りつつそこに来させけり。かくてねむごろにいたつきけり。

二日といふ夜、男われて「あはむ」といふ。女もはた、いとあはじとも思へらず。されど人目しげければえ逢はず。使ざねとある人なれば遠くも宿さず。女の閨近くありければ、女人をしづめて、子ひとつばかりに男のもとに来たりけり。男はた寝られざりければ、外の方を見出して臥せるに、月のおぼろなるに小さき童を先に立てて人立てり。男いとうれしくて、わが寝る所にゐて入りて、子一つより丑三つまであるに、まだ何事も語らはぬにかへりにけり。男いとかなしくて寝ずなりにけり。

つとめていぶかしけれど、わが人をやるべきにしあらねば、いと心もとなくて待ちをれば、明けはなれてしばしあるに、女のもとより詞(ことば)はなくて、

君や来し 我や行きけむ おもほえず 夢か現か ねてかさめてか

男いといたう泣きてよめる、

かきくらす 心の闇に まどひにき 夢うつつとは こよひさだめよ

とよみてやりて狩に出でぬ。野にありけど心は空にて、こよひだに人しづめていととく逢はむと思ふに、国の守、斎宮の守かけたる、狩の使ありと聞きて、夜ひと夜酒飲みしければ、もはらあひごともえせで、明けば尾張の国へたちなむとすれば、男も人知れず血の涙を流せどえ逢はず。夜やうやう明けなむとするほどに、女がたより出だす杯の皿に歌を書きて出だしたり。とりて見れば、

かち人の 渡れど濡れぬ えにしあれば

と書きて末はなし。その杯の皿に続松の炭して歌の末を書きつぐ。

又あふ坂の 関はこえなむ

とて明くれば尾張の国へ越えにけり。

斎宮は水尾の御時、文徳天皇の御むすめ、惟喬の親王の妹。

これが実話であるとすると、伊勢国の守、兼、斎宮の守というのが有常。
「狩の使」とは朝廷の用にあてる鳥獣を狩るために地方に使わされた使者だが、
負担が大きいとして、平安初期から延喜五年までしか行われなかった。
この狩の使というのは、誰だかわからないが業平である可能性は必ずしも高くない。

有常が伊勢に赴任したのは857年。
この年の伊勢斎宮は晏子内親王。
文徳天皇の第一皇女だが、惟喬親王の実母妹ではない。
惟喬親王の実母妹、つまり静子の娘・恬子内親王が伊勢斎宮であるというのが通説のようだが、
なんか違う気がする。
業平との年の差は20歳くらいある。
有常815年生まれ、業平825年生まれ、惟喬844年生まれ、恬子848?年生まれ。
恬子は晏子の次、861年(13歳頃)に伊勢に下る。

斎宮が晏子だとすると
「伊勢の斎宮なりける人の親」とは文徳天皇のことではなくて藤原列子(従四位上・藤原是雄の女)ということになり、
その列子が「つねの使よりは、この人よくいたはれ」と言った勅使の男とは、はて、誰だろうか。
普通に考えれば藤原氏の誰かだろう。
だがまあ、もともとは有常と晏子の話だったのが、だんだんに恬子と混同され、業平の話になっていった可能性はある。

伊勢物語23段

筒井つの 井筒にかけし まろがたけ 過ぎにけらしな 妹見ざるまに

女、返し、

くらべこし ふりわけ髪も 肩過ぎぬ 君ならずして たれかあぐべき

これは有常とその妻(藤原内麻呂の娘)のなれそめの歌ではなかろうか。

さらに867年、有常(52歳)は下野国の権守となる。このころではなかったか、

名にし負はば いざ言問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと

この歌が詠まれたのは。
そして伊勢物語16段は、有常が貧乏なので妻(藤原内麻呂の娘)が尼になるという話。

昔、紀の有常といふ人ありけり。三代の帝につかうまつりて、時にあひけれど、のちは世かはり時うつりにければ、世の常の人のごともあらず。人がらは、心うつくしくあてはかなることを好みて、こと人にも似ず。貧しく経ても、猶昔よかりし時の心ながら、世の常のことも知らず。年ごろあひ馴れたる妻、やうやう床離れて、つひに尼になりて、姉のさきだちてなりたる所へ行くを、男、まことにむつましきことこそなかりけれ、今はと行くを、いとあはれと思ひけれど、貧しければ、するわざもなかりけり。思ひわびて、ねむごろに相語らひける友だちのもとに、「かうかう今はとてまかるを、何事もいささかなることもえせで、遣はすこと」と書きて、おくに、

手を折りて あひ見し事を かぞふれば とをといひつつ 四つは経にけり

かの友だちこれを見て、いとあはれと思ひて、夜の物までおくりてよめる、

年だにも とをとて四つは 経にけるを いくたび君を たのみ来ぬらむ

かくいひやりたりければ、

これやこの あまの羽衣 むべしこそ 君がみけしと たてまつりけれ

よろこびにたへで、又、

秋や来る 露やまがふと 思ふまで あるは涙の 降るにぞありける

有常の歌は82段にも載る。業平の歌への返しである。

ひととせに ひとたびきます 君待てば 宿貸す人も あらじとぞおもふ

あるいは

おしなべて 峰も平に なりななむ 山の端なくは 月も入らじを

業平の室は有常の娘、その子が棟梁、棟梁の子が元方である。

丹念に探せばもっと証拠が見付かるかもしれない。

業平は確かに50過ぎて相模権守になってるから、相模までは行ったことがあるはずだが、
相模の国府は寒川辺りだ。
武蔵と下総の境の隅田川をこえて下野国まで行ったのは有常であった。
また彼が愛妻家であったことも確かだろう。
彼の場合は赴任というよりは左遷に近かった。
藤原良房や高子、基経らにとっては邪魔な惟喬親王の近親であったからだ。
文徳朝後期以降、抑圧され不遇に暮らした。

身をえうなきものに思ひなして、京にはあらじ、東の方に住むべき国求めにとて行きけり。もとより友とする人、ひとりふたりして、いきけり。道知れる人もなくて惑ひ行きけり。

京都にはろくに仕事もない地方官にでもなろう、というやけくそな感じではなかったか。

『伊勢物語』に出て来る藤原高子関係の話は、紀氏の伝承とはソースが別なような気がする。
高子は遍昭の愛人だったはずだが、それがいつ頃からはわからない。
業平や有常とはあまり関係ないような気がするがよくわからない。

以下は関連する書きかけのメモ。

仁明天皇の皇太子には最初、嵯峨天皇によって淳和天皇の皇子・恒世親王(母は桓武天皇皇女)が想定されていた。
恒世親王が死ぬとやはり淳和天皇の皇子・恒貞親王(母は嵯峨天皇皇女)が皇太子になった。
ところが承和の変で恒貞親王は廃太子され、
代わりに仁明天皇の皇子・道康親王(母は藤原順子、冬嗣の長女で、良房の妹)が立太子される。

この頃すでに天皇と内親王の間にできた皇子は政治的経済的基盤が弱く、
有力な外戚を持つ皇子には勝てなくなっていたのである。

道康親王は即位して文徳天皇となる。
文徳天皇の長男・惟喬親王の母は紀静子、名虎の娘であった。
紀氏は家柄としては藤原氏にはとうてい勝てなかった。
文徳と藤原明子(良房の娘)の間に皇子・惟仁が生まれると、生後八か月で皇太子となる。

文徳が死ぬと、惟仁は九才で即位、清和天皇となる。

清和天皇と藤原高子(長良の娘、良房の養子、基経の妹)の間に皇子・貞明が生まれるとわずか生後三ヶ月で立太子される。
惟喬親王が出家したのはその四年後なのだが、
おそらくこのとき承和の変に匹敵する政変があったはずだ。
幼主の外戚となり、自ら摂関となる。摂家の濫觴、「貞観の変」とでも呼ぼうか。