徒然草

「わたしは度たびこう言われている。―「つれづれ草などは定めしお好きでしょう?」しかし不幸にも「つれづれ草」などは未だ嘗て愛読したことはない。正直な所を白状すれば「つれづれ草」の名高いのもわたしには殆ど不可解である。中学程度の教科書に便利であることは認めるにもしろ。」と芥川龍之介は言い放ち、渡部昇一はこれについて「芥川龍之介にはずいぶんと嫌われたものですな。芥川の言葉は若い文学青年の心をとらえるけれども、古希も過ぎ、喜寿も過ぎた者が見ると、何と生意気なことを言っていることか(笑)。いま読んでみると、やはり芥川は若い。全然わかってません、」などと評している(谷沢永一、 渡部昇一『平成徒然談義』)。共著者の谷沢永一は、もう少し冷静に芥川龍之介を理解しようと試みている。『徒然草』には教訓的な話が多く、物語性が強いので芥川がカチンと来たのではないか、自分なら説話物を元にもっとうまく書いてみせる、せっかくの材料を兼好は生のまま放り出している、などと言っている。

徒然草が名高いのは芥川も認めている。中学(今日における高校の文系、もしくは大学の教養課程程度、と読み替えてもよかろう)の教科書に使われていてそれなりの効用があることも認めている。「名高い」のが「殆ど不可解」とは(世間の評判はともかく)文芸作品として高い評価を受けていることが理解できない、という意味合いで言っているのだと思う。

芥川はだから、一種のメジャー嗜好を嫌っているだけだと思う。メジャーなものだけを持ち上げてマイナーなものには価値がないというような考え方が嫌いなのだ。既に有名になったものをさらに褒めても仕方ない。むしろ無名だが価値あるものを掘り起こして世に知らしめる方が徳が高い、と考えているように思えるのだ(もちろん私もそう思う)。

試みに京都書房『新訂 国語図説 三訂版』という学習参考書を見てみると、『枕草子』に二ページ、『徒然草』に三ページを費やしているのに対して、近松門左衛門、井原西鶴、上田秋成、本居宣長らはそれぞれ一ページ、『折たく柴の記』新井白石や『花月草紙』を書いた松平定信はそれぞれ四百字程度、『西山公随筆』を書いた水戸光圀、『なるべし』を書いた荻生徂徠、『独語』を書いた太宰春台などは一字も言及されていない。ちなみに樋口一葉は二ページ、森鴎外は三ページ、夏目漱石には六ページを割いている。小中高および大学生にとって試験に出るか出ないかということは最重要な指標であり、試験に出ないことはイコール存在しないことに等しい。

私も少年ジャンプみたいな小説を書いてくれと言われたことがある。大河ドラマの原作になるような、そのまま映画化されるような、おもしろおかしい話を書いてくれと言われたことがある。それで書いてみようと思ったがどうしても書けない。そういうメジャーなものを書こうとするときには、自分が書きたいことを抑えて、自分が書きたくないところを膨らませて書かなくてはならない。それが精神的に苦しい。苦しくても仕事と割り切って書けば良いのだが、今まで何度も試してみたが一度もできたことがない。ある映画の批評をもっと褒めておもしろおかしく書いてくれと言われたことがある。やはり苦しい。苦しまずに書ける人は世の中にいくらでもいるのだろう。自分が書きたいものというよりは人が読みたいと思っているもの、書けば金になるものを、精神的苦痛を伴わず、むしろ職業的快感とする人がいくらでもいる。そうした人たちがライターをしているのだと思う。

そうでないライターは幸いにも世の中が読みたい知りたいと思っていることと自分が書きたいことが一致しているのである。

僕は時々かう考へてゐる。――僕の書いた文章はたとひ僕が生まれなかつたにしても、誰かきつと書いたに違ひない。従つて僕自身の作品よりも寧ろ一時代の土の上に
えた何本かの
くさ
の一本である。すると僕自身の自慢にはならない。(現に彼等は彼等を待たなければ、書かれなかつた作品を書いてゐる。勿論そこに一時代は影を落してゐるにしても。)僕はかう考へる度に必ず妙にがつかりしてしまふ。

これは「続文芸的な、余りに文芸的な」に出てくる文章だが、私もまったく同じことを考えたことがある。アインシュタインの相対性理論にせよ、彼が思いつかなくとも、彼よりか半年か一年、せいぜい十年以内に同じことを言う人は現れたに違いない。

渡部昇一は「平成徒然談義」という本を書くにあたり、徒然草を思い切り持ち上げなくてはならなかった。なぜかというに自分の書いた本が売れて評判になるほうが良いに決まっているからだ。そのために彼は芥川を批判し、徒然草以外の随筆(たとえば枕草子)を貶め、或いは徒然草以外の中世日本文芸史を無価値なものとみなそうとした(徒然草を褒めたきゃ勝手にやれば良いのにそれ以外のものを相対的に貶めなくては気が済まないとすればそれはサドだ)。そういうことに特別躊躇なくできる人だったのだろう。芥川龍之介の周りにいた人たちもそうした人たちだった。菊池寛とか中村武羅夫とか。出版業界には基本的にはそうした人たちしかいない(基本的には)。そういう状況ではメジャーなものはよりメジャーになり、マイナーなものはよりマイナーになるしかない。

世人は新らしいものに注目し易い。従つて新らしいものに手をつけさへすれば、兎に角作家にはなれるのである。しかしそれは必ずしも一爪痕さうこんを残すことではない、僕は未だに「死者生者」は「芋粥」などの比ではないと思つてゐる、のみならず又正宗氏自身も短篇作家としては、「死者生者」を書いた前後に最も芸術的ではなかつたかと思つてゐる。が、当時の正宗氏は必ずしも人気はなかつたらしい。

「新らしいものに手をつけさへすれば、兎に角作家にはなれる」とはつまり「芋粥」のことだ。「芋粥」であれば、自分で書かなくてもいつかは誰かが同じようなものを書くだろう、一方、正宗白鳥の「死者生者」という作品は彼を待たなくては書かれなかった。「死者生者」はいまだに不評判だが「芋粥」は幸いなことに人の記憶に残った。そのくらいのことを芥川は言いたいらしい。

芥川には出版業界に対する暗澹たる不満があった。世の中で評判なものをことさら愛読する、ということはしたくない、ということを芥川は言いたかったのではないか。

「死者生者」は国会図書館デジタルコレクションで読めるので読んでみたが、何が面白いのか良くわからん話であった。

そういえば私も「芋粥」のように中世の物語を現代文で脚色してカクヨムに載せていたことがあった。「偽検非違使判官、僧都を欺く事」というもので、せっかくなのでここに引用しておく。

これもさほど遠くはない昔の話だが、奈良の興福寺に説法の上手と名高い、隆禅律師と号する僧都がいた。京都で按察大納言藤原|隆季《たかすえ》が催した法事に導師を勤めて、施主の隆季からたくさんのお布施をいただいて、庫裏《くり》に泊まっていると、外から門を叩く者がある。節穴からのぞいて見ると、そこには一人の尼が立っていた。
「お坊様。突然失礼いたします。私は大和の国から来ました。今日は亡き夫の命日で、墓参の帰りなのですが、途中気分が悪くなり、休んでおりましたら遅くなり、もう日が暮れてまいりました。とうてい家に帰りつくことができそうにありません。申し訳ありませんが、一晩こちらに泊めていただけませんでしょうか。」
ははあなるほど。亡くした夫の菩提を弔うために若くして仏門に入り、夫の命日に一人で墓参りに行った、その帰りであるか。
隆禅は尼をつくづくと眺めた。まだ若い。やっと三十路を過ぎたほどであろうか。夫を失ってまだ間もない、独り身の後家なのであろう。
隆禅は尼の顔が美しく、声がきれいなのにボーっとしてしまった。
「それは難儀なさいましたな。拙僧がそなたの夫の冥福を祈り、念仏を唱えてあげましょう。
おなかもさぞすいておろう。夕餉を召し上がるか。私たちと一緒に囲炉裏をお囲みなさい。夜着や布団もお貸ししましょう。」
そうして隆禅は親切に、尼に食事を与え、彼女を庫裏に泊めてやることにした。

暫くして、また門を叩く者があった。
「検非違使庁からの使いである。」と言う。
「先ほどここに尼が一人来たであろう。あの女は多くの盗みの容疑者として訴えられている者なのだ。決して逃がしてはならない。後ほどまた来る。」と言って帰った。
「尼よ、おまえは盗人なのか。私を騙して、物を取ろうとしたのか。いま検非違使庁から使いの者が来たぞ。申し開きしてみよ。」
隆禅は女を問いただしたが、しかし女は頑として、一言も口をきこうとしない。
そこで隆禅は尼を縄で縛りあげて、捕吏が到着するのを待った。

夜が更けて、また戸を叩く者がある。検非違使判官と名乗った。
「この尼を連行しようというのだろう」と思って、中に入れて、僧自ら対面した。
「この女に間違いありますまいか。」
ところがこの判官と名乗る者、いきなり僧の腕を捕らえて、刀を抜き僧の脇にさし当てて言う。
「動くな。いいか、ここにじっとしていろ。下手な真似をすれば即座にこの刀でおまえを刺し殺す。坊中の者どもも、決して声を上げたり、物音を立てるな。
おい坊さん、おまえ、今日たんまり檀家からお布施をもらっただろう。どこにある。」
「ここです。」
「蔵の鍵も寄越せ。」
「はい。」
男は尼を縛った縄を刀で断ち切り、塗籠《ぬりごめ》や蔵を引き開けて、資財・雑物などを運び取って、馬十頭に背負わせて、隆禅を馬に乗せて、東山の粟田口へ連れていった。
尼は僧に言った。
「お坊さん、命だけは助けてやるよ。でもこのことを検非違使庁に訴え出れば、三日のうちにおまえを殺しに戻って来るぞ。わかったか。今ここで神仏に誓え、決して訴えぬとな。」
「誓います。」
尼と偽判官は、隆禅を道に残したまま、馬を伴って悠々と逢坂の関を東へ越えていった。

研究人生

暗号理論というものは敵の暗号を解くために必要とされたので、緊急性、重要性が高かったから第二次世界大戦の時に飛躍的に進歩した。ロケットを飛ばす技術も軍事目的で開発されてそれがアポロ計画となり、ソ連の有人人工衛星となった。原爆や水爆の開発競争もしかり。いずれも短期間に国家予算を湯水のように注ぎ込んで無理矢理実現させたのだ。

一方人工知能の研究に関しては、ニューラルネットワークやマルコフ連鎖などの基礎理論は、やはり相当早い時期に提唱されていて研究も進んでいたのだが、暗号や原爆や宇宙開発からはずいぶんと遅れてやっと最近になって実用化されつつある。なぜなのか。

一つには、人工知能を開発したからといってそれがただちに戦争に利益をもたらさなかった(何に使えば良いか誰にもわからなかった)からだろう。もう一つは計算能力が圧倒的に不足していた。初期の電子計算機は大砲の弾道計算に用いられた。もちろん軍事目的だ。ただしそれは単にニュートン力学を用いたシミュレーション程度の計算に過ぎず、今なら電卓でも計算できる。そんなちゃちな計算力しか当時はなかった。さらにはビッグデータというものが当時はなかった。

膨大な計算能力と膨大なデータの蓄積があってやっと人工知能はある程度人間に匹敵する程度の知能を備えるようになった、ということなのだろう。第二次世界大戦当時、原爆開発に匹敵するくらいの頭脳と資金を投じても、人工知能は実現しなかった。

昔、私がまだ30才かそこらだったからもう30年近く前だが、飲み屋で、月に人が行けるくらいの予算を使えば人工知能もいますぐ実現するはずだ、と言われて、返事に困ったことがあった。月旅行なんてだいたいニュートン力学くらいの簡単な数学で実現できるが、人工知能はまだどんな理論が必要かさえわかっていないからだ、ということを説明しようとして、なかなかわかってもらえなかった。

今思うに、当時私はマルコフ連鎖もニューラルネットワークも三層の深層学習も知ってはいたが、これらがものの役に立つなどとは到底思えなかったのだ。しかしながら今のプロンプト型の生成AIというのは当時すでに知られていた理論の発展形に過ぎない。基礎理論はもう30年前にはあらかたできあがっていたのだった。私の同僚にマルコフ連鎖の研究をしていたポーランド人がいた。彼は今は実業家になっているようだが、一生研究者でいたければ私もずっとマルコフ連鎖の研究をしていればよかったかもしれない。私の一年下の後輩はニューラルネットワークの研究をしていたが彼は今や相当な大物になっているようだ。私はずいぶん中途半端な人生を送ってしまった。まあしかしこれはこれで仕方ない。

米の値段

米の値段が下がらないのは、生産者、米農家や農協、農林水産省のせいばかりではないと思える。消費者が日本の米を食うことにこだわり続ける限り、行政も変わらないし、農家だって高く売れるほうが良いに決まっているんだから、米の値段は下がりようがない。

日本産の米にこだわる必然性はほとんどない。日本人の多くはしかし米は日本産に限ると思い込んでいる。または思い込まされている。非常に保守的だ。保守というがたまたま戦後はそうだったというだけで、江戸時代じゃあるまいし、米がまったく輸入されてこなかったわけではなく、国産米にこだわってきたわけじゃあるまい。そもそも日本人も今や米ばかり食っているわけではない。米よりも小麦が食えなくなるほうがずっと大きな打撃だろう。小麦はほとんど輸入に頼っているにもかかわらず。米が国産かどうかなどということは全体から見ると些細な、プライオリティの低い問題に過ぎない。そもそも石油が輸入できなくなった時点ですべてが終わる。米が輸入できるかどうかなんて言っている場合じゃない。

たいていの人は米というと頭に血が上って冷静な思考ができなくなる。玉子や生乳のように日持ちしないものは国産に頼るのが合理的だが、米などは世界中で栽培して世界中から輸入するのが良いに決まっている。中国インド、東南アジアなど稲作地帯は人口の稠密地帯であるが、北アメリカでもオーストラリアでも栽培できるんだから世界中どこでも育つに違いない。南米でもアフリカでもどこでもジャポニカ米を栽培すりゃいいだけのことだ。なぜそういうところに日本の外交努力を注ぎ込まないのか。農協や米農家の陰謀ではあるまい。消費者が馬鹿なのだ。消費者はいつも他人を攻撃し不満を言うだけで何も考えようとしない。大衆が馬鹿だから大衆を煽るしか能の無い馬鹿メディアがはびこるのだ(大衆が先かメディアが先か問題)。

私はあの和牛の霜降り肉が、やたら高くて脂がべちゃべちゃしてぶよぶよしてて大嫌いで、あんな病的で気色の悪いゲテモノがちゃんとした肉食文化のある国で受け入れられるわけないと思っていたが、今では世界中で一定の需要があるらしい(ちゃんとした海賊文化があるイギリスやスペインでもワンピースが流行るようなものなのだろう)。つまり国産の、比較的高価な牛肉が国際市場で通用しているということだ。日本酒にしても日本の米にしても、高級路線に特化して海外で売りまくれば良い。その代わり安くて普通の米は海外から買えばよい。米が不足しているのになぜ米を輸出しているのかなどと言ってる連中は経済がそもそもわかってないのだろうか。煽りたいだけなのだろうか。政府を攻撃したいのだろうか。

脂身と赤身が分離した固くて歯ごたえがある肉はアンガスとかオーストラリア産を輸入すりゃいい。だれでも格安で海外旅行できて、アフリカの海で採れたタコを輸入するような、極限まで流通が発達した現代で、国産だけでどうにかしようという理由がない。なぜそういう風潮にならないのか不思議でならん(天照大神の呪縛だろうか。ならば神道ごと稲作栽培を世界に普及させれば良い)。

侏儒の言葉

 「侏儒しゅじゅの言葉」の序

「侏儒の言葉」はかならずしもわたしの思想を伝えるものではない。唯わたしの思想の変化を時々うかがわせるのに過ぎぬものである。一本の草よりも一すじの蔓草つるくさ、――しかもその蔓草は幾すじも蔓を伸ばしているかも知れない。

序からしてすでに言い訳がましい。

 宇宙の大に比べれば、太陽も一点の燐火りんかに過ぎない。いわんや我我の地球をやである。しかし遠い宇宙の極、銀河のほとりに起っていることも、実はこの泥団の上に起っていることと変りはない。生死は運動の方則のもとに、絶えず循環しているのである。そう云うことを考えると、天上に散在する無数の星にも多少の同情を禁じ得ない。いや、明滅する星の光は我我と同じ感情を表わしているようにも思われるのである。この点でも詩人は何ものよりも先に高々と真理をうたい上げた。

真砂まさごなす数なき星のその中にわれに向ひて光る星あり
 しかし星も我我のように流転をけみすると云うことは――かく退屈でないことはあるまい。

おやこれはどうも芥川自身の歌ではなくて誰か他の人の歌らしいと調べてみるとすぐにわかった。正岡子規である。

まず、「まさごなす」が変だ。万葉集に一首例があるようだ。

相模路の よろぎの浜の 真砂なす 子らは愛しく 思はるるかも

相模治乃 余呂伎能波麻乃 麻奈胡奈須 兒良波可奈之久 於毛波流留可毛

浜の真砂というときは数え切れないほどに多いという喩えに使われる。しかし万葉集の「真砂なす」は明らかにそういう意味に使ったのではない。

相模路のよろぎの浜とは今のこゆるぎのことで、大磯から小田原にかけての浜辺のことだが、行ってみればわかるが真っ白な綺麗な砂浜というわけではない。鎌倉辺りはもう少し白いかもしれないが、こゆるぎはどちらかといえば黒い砂(おそらく砂鉄が多く含まれているのだろう)、もしくは小石や砂利の浜辺なのである。「真砂なす子ら」がいったい何を言おうとしたのか、私にはよくわからない。

麻奈胡(まなこ)を真砂と読むのにそもそも無理がある。目がくりくりとしてかわいい、という程度の意味ではなかったか。

「まさご」は普通和歌には「はまのまさご」という成語で出る。真砂に埋もれるとか、真砂のように数え切れない、などと使う。

吾に向かひて光る星あり、とは、無数の星々の中にたった一つだけ、自分の運命を定める星がある、ということが言いたいのだろう。しかしそうした夢想はむしろ私には非常に凡俗な感じを受ける。星の明滅と人間の感情には何の関係もない、あれはただの自然現象に過ぎず、そんなものにロマンティシズムやファンタジーを感じても意味は無い、まして、個々の星がそれぞれ特定の人間にだけ向かって光ってるはずがないと私などは思ってしまうし、そんな歌を詠みたいとも思わない。私は子供の頃から近眼で星がよく見えないから、星に対してそういう幻想を抱くということがなかった。

七曜は古代メソポタミアで生まれた。おそらくシュメールまでさかのぼるのではなかろうか。何曜日に生まれたかによってどの惑星の影響を受けるかが決まるのだそうだ。だから当時メソポタミアでは誕生日よりも誕生曜日のほうが大事であったらしい。そしてそれら七つの天体のことを運命の星と言っていたようだ。

子規はちょっと無理のある万葉調の歌を詠むくせがある。芥川も和歌がわかっていたとは言いがたい。彼が子規を詩人として尊敬していたとは意外だ。子規が「浜の真砂のように数知れぬ星々の中で」と現代語で、或いは散文で書くのであればそれはそれで一向かまわぬが、古語は用例の集積で成り立っているものなのだから、中世に用例が見られない、無理な万葉語を使って古めかしくした歌を詠むのは、近代歌人らが犯しがちな典型的な過ちであって、私には許しがたい。

さらに言えば「数なき」だが、「数ならず」「数にもあらぬ」などは「数え上げることもできぬほど、数知れず、無数にある」という意味ではなくて、物の数ではない、取るに足りない、平凡な、という意味であって、やはりここにも違和感を感じる。無理に歌に仕立てようとして用例がずれてしまっているのである(せめて「数知れぬ」などとしなくてはならない)。これまた万葉調を尊ぶ近代短歌に見られがちな間違いである。

高等遊民

「侏儒の言葉」に

作家所生の言葉

「振っている」「高等遊民」「露悪家」「月並み」等の言葉の文壇に行われるようになったのは夏目先生から始まっている。こう言う作家所生しょせいの言葉は夏目先生以後にもない訣ではない。久米正雄君所生の「微苦笑」「強気弱気」などはその最たるものであろう。なお又「等、等、等」と書いたりするのも宇野浩二君所生のものである。我我は常に意識して帽子を脱いでいるものではない。のみならず時には意識的には敵とし、怪物とし、犬となすものにもいつか帽子を脱いでいるものである。或作家をののしる文章の中にもその作家の作った言葉の出るのは必ずしも偶然ではないかも知れない。

なる文章があってまるで「高等遊民」という言葉は夏目漱石が造語したかのように書かれているのだが、漱石の作品で「高等遊民」が出てくるのは明治45年に書いた「彼岸過迄」だけであり、「高等遊民」なる語は読売新聞に明治36年にすでに出ているという。また「彼岸過迄」に出てくる高等遊民とは松本という人物だが、これは明らかに漱石自身がモデルではない(ディテイルはともかく全体としては)。「こころ」に出てくる「先生」は明らかに高等遊民として描かれているが、夏目漱石も芥川龍之介も執筆活動に追われて忙しく、資産家で働かなくても良い、というような身分ではなかった。

「余裕って君。――僕は昨日きのう雨が降るから天気の好い日に来てくれって、あなたを断わったでしょう。その訳は今云う必要もないが、何しろそんなわがままな断わり方が世間にあると思いますか。田口だったらそう云う断り方はけっしてできない。田口が好んで人に会うのはなぜだと云って御覧。田口は世の中に求めるところのある人だからです。つまり僕のような高等遊民こうとうゆうみんでないからです。いくらひとの感情を害したって、困りゃしないという余裕がないからです」

「実は田口さんからは何にも伺がわずに参ったのですが、今御使いになった高等遊民という言葉は本当の意味で御用いなのですか」
「文字通りの意味で僕は遊民ですよ。なぜ」
 松本は大きな火鉢ひばちふち両肱りょうひじを掛けて、その一方の先にある拳骨げんこつあごの支えにしながら敬太郎けいたろうを見た。敬太郎は初対面の客を客と感じていないらしいこの松本の様子に、なるほど高等遊民本色ほんしょくがあるらしくも思った。彼は煙草たばこ道楽と見えて、今日は大きな丸い雁首がんくびのついた木製の西洋パイプを口から離さずに、時々思い出したような濃い煙を、まだ火の消えていない証拠として、狼煙のろしのごとくぱっぱっと揚げた。その煙が彼の顔のそばでいつの間にか消えて行く具合が、どこにもしまりを設ける必要を認めていないらしい彼の眼鼻と相待って、今まで経験した事のない一種静かな心持を敬太郎に与えた。彼は少し薄くなりかかった髪を、頭の真中から左右へ分けているので、平たい頭がなおの事尋常に落ちついて見えた。彼はまた普通世間の人が着ないような茶色の無地の羽織を着て、同じ色の上足袋うわたびを白の上に重ねていた。その色がすぐ坊主の法衣ころも聯想れんそうさせるところがまた変に特別な男らしく敬太郎の眼に映った。自分で高等遊民だと名乗るものに会ったのはこれが始めてではあるが、松本の風采ふうさいなり態度なりが、いかにもそう云う階級の代表者らしい感じを、少し不意を打たれた気味の敬太郎に投げ込んだのは事実であった。
「失礼ながら御家族は大勢でいらっしゃいますか」
 敬太郎はみずから高等遊民と称する人に対して、どういう訳かまずこういう問がかけて見たかった。すると松本は「ええ子供がたくさんいます」と答えて、敬太郎の忘れかかっていたパイプからぱっと煙を出した。
「奥さんは……」
さいは無論います。なぜですか」
 敬太郎は取り返しのつかないな問を出して、始末に行かなくなったのを後悔した。相手がそれほど感情を害した様子を見せないにしろ、不思議そうに自分の顔を眺めて、解決を予期している以上は、何とか云わなければすまない場合になった。
「あなたのような方が、普通の人間と同じように、家庭的に暮して行く事ができるかと思ってちょっと伺ったまでです」
「僕が家庭的に……。なぜ。高等遊民だからですか」
「そう云う訳でも無いんですが、何だかそんな心持がしたからちょっと伺がったのです」
高等遊民は田口などよりも家庭的なものですよ」

「遊民」という言葉ならば「それから」にも出てくる。

「三十になつて遊民として、のらくらしてゐるのは、如何にも不体裁だな」
 代助は決してのらくらしてるとは思はない。たゞ職業のためけがされない内容の多い時間を有する、上等人種と自分を考へてゐる丈である。

高等遊民のサンプルは漱石の身近にもいて漱石は十分に観察したはずだ。もちろん「こころ」の「先生」には漱石自身のパーソナリティもまた投影されているに違いないけれども漱石自身は高等遊民とは全然違ったはずだ。

「坑夫」の主人公も遊民のたぐいだったと考えて間違いあるまい。漱石がなぜそうした遊民らを主人公にしたがるかということだが、仕事というものは人物の属性として非常に比重の大きいものだから、漱石は職業という属性を含めてものを書くということが面倒くさかったのだろう。漱石が敬愛していたのは荻生徂徠のようないわゆる江戸時代の遊民であって、彼らは「白雲」のように浮世離れした存在であったから、漱石がそうした人々を書きたがったのは当然とも言える。漱石自身そうした生き方をしたかったかと言えばおそらくそうなのだろう。「白雲」とは具体的には「高等遊民」なのだろう。くどいが彼自身はそうした資産に恵まれた人ではなかった。

「月並み」もまたこれは漱石が作った言葉ではなく、もともと月ごとに行う歌会や句会、漢詩や連歌の会合のことを月並みと言ったのだ(頓阿「将軍家に月並みの歌会はじめられて」うんぬん)。それをおそらく正岡子規がことさらに使い、漱石も子規の影響を受けて作品に用いたのに過ぎまい。「月並みの絵」「月並みの御屏風」などの表現は枕草子や源氏物語にすでにある。ちょっと調べればわかりそうなことではある。漱石によって世の中に広く知られるようになった、の意味に言っているだけなのかもしれないが。

ちょっと長いが「坑夫」を引用しておく。

実を云うと自分は相当の地位をったものの子である。込み入った事情があって、こらえ切れずに生家うちを飛び出したようなものの、あながち親に対する不平や面当つらあてばかりの無分別むふんべつじゃない。何となく世間がいやになった結果として、わが生家まで面白くなくなったと思ったら、もう親の顔も親類の顔も我慢にも見ていられなくなっていた。これは大変だと気がついて、根気に心を取り直そうとしたが、遅かった。踏み答えて見ようと百方に焦慮あせれば焦慮るほど厭になる。揚句あげくはて踏張ふんばりせんが一度にどっと抜けて、堪忍かんにんの陣立が総崩そうくずれとなった。その晩にとうとう生家を飛び出してしまったのである。
 事の起りを調べて見ると、中心には一人の少女がいる。そうしてその少女のそばにまた一人の少女がいる。この二人の少女の周囲まわりに親がある。親類がある。世間が万遍なく取りいている。ところが第一の少女が自分に対して丸くなったり、四角になったりする。すると何かの因縁いんねんで自分も丸くなったり四角になったりしなくっちゃならなくなる。しかし自分はそう丸くなったり四角になったりしては、第二の少女に対して済まない約束をもって生れて来た人間である。自分は年の若い割には自分の立場をよく弁別わきまえていた。が済まないと思えば思うほど丸くなったり四角になったりする。しまいには形態ばかりじゃない組織まで変るようになって来た。それを第二の少女がうらめしそうに見ている。親も親類も見ている。世間も見ている。自分は自分の心が伸びたり縮んだり、曲ったりくねったりするところを、どうかして隠そうとつとめたが、何しろ第一の少女の方で少しもやめてくれないで、むやみに伸びて見せたり、縮んで見せたりするもんだから、隠しおおせる段じゃない。親にも親類にもつかってしまった。しからんと云う事になった。怪しかるとは自分でも思っていなかったが、だんだん聞きただして見ると、怪しからん意味がだいぶ違ってる。そこでいろいろ弁解して見たがなかなか聞いてくれない。親の癖に自分の云う事をちっとも信用しないのが第一不都合だと思うと同時に、第一の少女のそばにいたら、この先どうなるか分らない、ことにると実際弁解の出来ないような怪しからん事が出来しゅったいするかも知れないと考え出した。がどうしても離れる事が出来ない。しかも第二の少女に対しては気の毒である、済まん事になったと云う念が日々にちにちはげしくなる。――こんな具合で三方四方から、両立しない感情が攻め寄せて来て、五色の糸のこんがらかったように、こっちを引くと、あっちの筋が詰る、あっちをゆるめるとこっちが釣れると云う按排あんばいで、乱れた頭はどうあってもほどけない。いろいろに工夫を積んで自分に愛想あいその尽きるほどひねくって見たが、とうてい思うようにまとまらないと云う一点張いってんばりに落ちて来た時に――やっと気がついた。つまり自分が苦しんでるんだから、自分で苦みを留めるよりほかに道はない訳だ。今までは自分で苦しみながら、自分以外の人を動かして、どうにか自分に都合のいいような解決があるだろうと、ひたすらに外のみをあてにしていた。つまり往来で人と行き合った時、こっちは突ッ立ったまま、向うが泥濘ぬかるみけてくれる工面くめんばかりしていたのだ。こっちが動かない今のままのこっちで、それで相手の方だけを思う通りに動かそうと云う出来ない相談を持ちけていたのだ。自分が鏡の前に立ちながら、鏡に写る自分の影を気にしたって、どうなるもんじゃない。世間のおきてという鏡が容易に動かせないとすると、自分の方で鏡の前を立ち去るのが何よりの上分別である。
 そこで自分はこの入り組んだ関係の中から、自分だけをふいとけむにしてしまおうと決心した。しかし本当に煙にするには自殺するよりほかに致し方がない。そこでたびたび自殺をしかけて見た。ところが仕掛けるたんびにどきんとしてやめてしまった。自殺はいくら稽古けいこをしても上手にならないものだと云う事をようやく悟った。自殺が急に出来なければ自滅するのが好かろうとなった。しかし自分は前に云う通り相当の身分のある親を持って朝夕に事を欠かぬ身分であるから生家うちにいては自滅しようがない。どうしても逃亡かけおちが必要である。
 逃亡かけおちをしてもこの関係を忘れる事は出来まいとも考えた。また忘れる事が出来るだろうとも考えた。要するに、して見なければ分らないと考えた。たとい煩悶はんもんが逃亡につきまとって来るにしてもそれは自分の事である。あとに残った人は自分の逃亡のために助かるに違いないと考えた。のみならず逃亡をしたって、いつまでも逃亡かけおちている訳じゃない。急に自滅がしにくいから、まずその一着として逃亡ちて見るんである。だから逃亡ちて見てもやっぱり過去に追われて苦しいようなら、その時おもむろに自滅のはかりごとめぐらしても遅くはない。それでも駄目ときまればその時こそきっと自殺して見せる。――こう書くと自分はいかにも下らない人間になってしまうが、事実を露骨に云うとこれだけの事に過ぎないんだから仕方がない。またこう書けばこそ下らなくなるが、その当時のぼんやりした意気込いきごみを、ぼんやりした意気込のままに叙したなら、これでも小説の主人公になる資格は十分あるんだろうと考える。
 それでなくっても実際その当時の、二人の少女の有様やら、ごとに変る局面の転換やら、自分の心配やら、煩悶やら、親の意見や親類の忠告やら、何やらかやらを、そっくりそのまま書き立てたら、だいぶん面白い続きものができるんだが、そんな筆もなし時もないから、まあやめにして、せっかくの坑夫事件だけを話す事にする。
 とにかくこう云う訳で自分はいよいよとなって出奔しゅっぽんしたんだから、もとより生きながらほうぶられる覚悟でもあり、またみずから葬ってしまう了簡りょうけんでもあったが、さすがに親の名前や過去の歴史はいくら棄鉢すてばちになっても長蔵さんには話したくなかった。長蔵さんばかりじゃない、すべての人間に話したくなかった。

「彼岸過迄」に出てくる須永と千代子の話に似てやしないだろうか。そして「こころ」に出る「先生」ともどこかしら似ている。共通のモデルがいる、と考えても良いのではなかろうか。遊民譚の元ネタは「坑夫」にすでにあった、「坑夫」のときに書き残したネタを、後からいろいろ手直しして作品に仕立てていったのではなかったか。

「彼岸過迄」は確かに漱石が意図して、短編を組み合わせて長編に仕立てた、という組み立てのものであろう。「吾輩は猫である」は明らかにそうではない。一話完結の短編を書くつもりが、次々に続編を書かされたために結果的に長編になったに過ぎず、また漱石も小説を書くことになれてなかったから、全体としての統一はほぼ無い。猫が主人公というのでかろうじて一つにまとまっているという体裁だ。「彼岸過迄」を書くにあたり「吾輩は猫である」は一つのヒントにはなったのだろうけれども、「彼岸過迄」は朝日新聞の専属作家となって、十分に休養を取り構想を練ってから書いたものであって、素人がいきなり書いた「吾輩は猫である」とは全然違う。

芥川龍之介と随筆

芥川龍之介が『侏儒の言葉』で

つれづれ草

わたしは度たびかう言はれてゐる。――「つれづれ草などは定めしお好きでせう?」しかし不幸にも「つれづれ草」などは、未嘗いまだかつて愛読したことはない。正直な所を白状すれば「つれづれ草」の名高いのもわたしには殆ど不可解である。中学程度の教科書に便利であることは認めるにもしろ。

などと書いていることが一部の徒然草ファンの不興を買っているのであるが、私としてはどちらかと言えば芥川龍之介に同情的なのであるが、ではなぜどういうところに同情しているのか、自分でも判然としない。そもそもどういうつもりで芥川はこれを言ったのか、だんだんに気になり始めた。同じ『侏儒の言葉』に

民衆は大義を信ずるものである。が、政治的天才は常に大義そのものには一文の銭をも
なげう
たないものである。唯民衆を支配する為には大義の仮面を用ひなければならぬ。しかし一度用ひたが最後、大義の仮面は永久に脱することを得ないものである。もし又強いて脱さうとすれば、如何なる政治的天才も忽ち非命に
たふ
れる外はない。つまり帝王も王冠の為にをのづから支配を受けてゐるのである。この故に政治的天才の悲劇は必ず喜劇をも兼ねぬことはない。たとへば昔仁和寺の法師の
かなへ
をかぶつて舞つたと云ふ「つれづれ草」の喜劇をも兼ねぬことはない。

などと言っている箇所もある。この仁和寺の法師というのは第53段

これも仁和寺の法師、童の法師にならんとする名残とて、おのおのあそぶ事ありけるに、酔ひて興に入る余り、傍なる足鼎を取りて、頭に被きたれば、詰るやうにするを、鼻をおし平めて顔をさし入れて、舞ひ出でたるに、満座興に入る事限りなし。

などというアレである。

芥川龍之介が他にも徒然草について書いているものはないかと検索してみると、「解嘲」というものに、

しかし又君はかう云つてゐる。「それと同じやうに、随筆だつて、やつぱり「枕の草紙」とか、「つれづれ草」とか、清少納言
せいせうなごん
兼好法師
けんかうほふし
の生きた時代には、ああした随筆が生れ、また現在の時代には、現在の時代に適応した随筆の出現するのは
むを得ない。(僕
いはく
、勿論である)夏目漱石
なつめそうせき
の「硝子戸の中」なども、芸術的小品として、随筆の上乗
じやうじよう
なるものだと思ふ。(僕
いはく

すこぶ
る僕も同感である)ああ云ふのはなかなか容易に望めるものではない。観潮楼
くわんてうろう
や、断腸亭
だんちやうてう
や、漱石
そうせき
や、あれはあれで打ち
めにして置いて、岡栄一郎
をかえいいちらう
氏、佐佐木味津三
ささきみつざう
氏などの随筆でも、それはそれで新らしい時代の随筆で結構ではないか。」

などということを書いている。芥川龍之介は枕草子や徒然草を読んでいないわけではないし、高く評価していないわけではない、少なくとも夏目漱石の「硝子戸の中」くらいには評価しているわけだ。

ますますわからないのだが、この「解嘲」というものは随筆というものについて書いた文章であるから、今度は芥川龍之介が随筆について書いたものを他にも探してみると、「野人生計事」というものがみつかる。この中で芥川は

随筆は清閑の所産である。少くとも僅に清閑の所産を誇つてゐた文芸の形式である。古来の文人多しと
いへど
も、
いま
だ清閑さへ得ないうちに随筆を書いたと云ふ怪物はない。しかし今人
こんじん
は(この今人と云ふ言葉は非常に狭い意味の今人である。ざつと大正十二年の三四月以後の今人である)清閑を得ずにもさつさと随筆を書き上げるのである。いや、清閑を得ずにもではない。
むし
ろ清閑を得ない為に手つとり早い随筆を書き飛ばすのである。

などと書いている。どうもこの大正13年1月に「野人生計事」なるものを書いて、それに対して当時、新潮を編集していた中村武羅夫なる人がいろいろと批評をした。それに対する反論が「解嘲」であったらしい。

「侏儒の言葉」「野人生計事」「解嘲」はいずれも随筆のたぐいである。しかも芥川は出版社から随筆を書け書けと言われて仕方なく書かされている。「侏儒の言葉」もまたそうして書いたものだったのに違いない(「侏儒の言葉」は大正12年1月から14年にかけて文芸春秋に連載された)。随筆なんてものはヒマがなきゃ書けないはずのものだが、今の人はヒマなどないから手っ取り早く随筆を書き飛ばす。そこで

随筆は多少の清閑も得なかつた日には、たとひ全然とは云はないにしろ、さうさう無暗
むやみ
に書けるものではない。
ここ
に於て
、新らしい随筆は忽ち文壇に出現した。新らしい随筆とは
なん
であるか? 掛け値なしに筆に
したが
つたものである。純乎
じゆんこ
として純なる出たらめである。

という具合に今の随筆はみな筆に任せて書き殴ったまったくのでたらめだ、とまで言っている。さらによくよく見ていくと、近頃の読者は永井荷風の断腸亭日乗などを褒めて、芥川のような若手の書く(「侏儒の言葉」などの)随筆を嘲笑している、などということまで書いている。

こうしてみていくに、芥川は、出版社から「徒然草」のような名調子の随筆を書いてくれとせがまれている。中村武羅夫もまたそうして芥川にせがんでいる一人であるのに間違いあるまい。つまり


うせ随筆である。そんなに
むづ
かしく考へない方が
い。あんまり出たらめは困るけれども、必しも風格高きを要せず、名文であることを要せず、博識なるを要せず、
ることを要しない。素朴
そぼく
に、天真爛漫
てんしんらんまん
に、おのおのの素質
そしつ
に依つて、見たり、感じたり、考へたりしたことが書いてあれば、それでよろしい」と云つてゐる。それでよろしいには違ひない。しかし問題は中村君の「あんまり出たらめは困るけれども」と云ふ、その「あんまり」に
ひそ
んでゐる。「あんまり出たらめ」の困ることは僕も
また
君と変りはない。唯君は僕よりも寛容
くわんよう
の美徳に富んでゐるのである。

この「あんまりでたらめ」とは芥川の「純なるでたらめ」のことを言っているのは明らかだ。芥川はあまりでたらめな文章は書きたくないと言っている。

芥川は編集者らや読者らから、せいぜい徒然草を愛読して徒然草のような随筆を、さもなくば「硝子戸の中」や「断腸亭日乗」のようなものを、あまり難しく考えず、名文であることを要せず、しかしあまりでたらめにならぬ程度に、どしどし書いてくれ、と言われていたことになる。そりゃあ徒然草に対してああいう言い方をしたくもなるよな、ということにならんか。少なくともそんな気分の中であのようなことを書いたのだ。「わたしは度たびかう言はれてゐる」というのは具体的には文藝春秋や新潮など雑誌の編集者から若手作家に対する指導訓令のように言われていたのだろう(当時芥川は30代前半)。

観潮楼とは森鴎外のことを指すらしい。やれやれ。

大正6年「はつきりした形をとる為めに」、大正7年「永久に不愉快な二重生活」は「中村さん。」で始まるがこれも中村武羅夫(明治19年生まれ、芥川の6年年長)のことであろう(文藝春秋社を興した菊池寛は明治21年生まれ、芥川の4年年長)。

クラウド社会、社会のクラウド化

人はとかく独りで生きて、自分の考えでしゃべり、自分で考えているように思うがそれは錯覚に過ぎない。人の思考の99%までは人が属している社会によって規定されている。人はいちいち何をしゃべろうかと考えながらしゃべっているのではない。たいてい無意識のうちに今日は良い天気ですねなどと言っている。そう言われたらとりあえずええ良い天気ですねとか何か返さなきゃいけない。今日は本当に良い天気なのだろうかと考え込んでしまうのはいけない。聞いてくるほうも別に天気のことなんて本気で心配しているわけじゃない。話のとっかかりにしているに過ぎない。そんなふうにしゃべる言葉も何かの台詞のオウム返しであって人は社会というクラウドシステムの中の一部を構成しているにすぎない。

もし人がそれぞれ独立しているのであれば、人は教育を受けることも、言葉を習うことも、文字の読み書き、数の計算を学ぶ必要もない。そんな天然自然のありのままの人間など人間として生きていくことはできない。人は何にしろ自分がこれまでに獲得してきた知識や経験があるから人間であり得るのだ。人に対してこうしたら人はこう返してきたという蓄積で人はできている。

私たちはだから遠い、何万年も昔の、文字もなく書籍もなかった縄文時代の記憶を受け継いでいるのである。それは遙か遠くから続けられてきた助走であって、今も人類は助走を続けている。人間社会というものが単に個人の集合というのでなくクラウドなのであるとすれば、未来社会がクラウドを指向するのも当然と言えるし、その構成員にこれからAIが加わっていくのも当然だと思える。してみるとAIというものは人間社会に取って代わるものというよりはその拡張と言える。言語が、そして文字や書籍が人間社会を拡張したように。

どんなに社会に影響を与えていないように見える人でもクラウドの一構成員である以上彼の行動は何らかの形で記憶されるのである。個人が社会に埋没しているのではない。近世になって個人が社会の歯車になってしまったのでもない。もともと個人とはそうしたもの、社会を構成する部品に過ぎない。もし自分が社会の部品ではない、独立した一個の人格だと思うならそれは一種の錯覚だ。そう思いそう行動するように作られた部品であるということだ。

楽天モバイル解約

浅草に部屋を借りた後に楽天モバイル Pocket Premium に契約した(cf. Rakuten WiFi Pocket Platinum楽天ポケットモバイルwifiルーター続報)。有線LANを引く工事はほぼ不可能そうだったのでWifiでなんとかしのごうという考えだった。回線品質はそんなに悪くない(たぶん普通くらい。値段の割には頑張ってる)、通信量も無制限で月々3200円は安い。

しかしヘビーユーザー(ネットゲームのレイテンシーとか)にはいかんせん能力がきついということで、結局もっと値の張るサービスに乗り換えることにした。

解約時に二段階認証でワンタイムパスワードがSMSに送られてくることになっているのだが、楽天Wifiルーターだけでは SMS を受け取れない。Rakuten Link というアプリを使えば SMS が読めるらしいんだが、私のスマホは古すぎて動かなかった。楽天モバイルにはSMS転送サービス(無料)というものがあるので、それを自分のスマホに転送してなんとかならんかと思ったがならなかった。そもそも電話もかけられないルーターだけでSMSが有効になっているというのが考えにくく、ワンタイムパスワード自体どこにも送られていなかったのではなかろうか。

それでAIチャットに聞いてみたがなんともならん。人間のオペレーターにつなぐには9:00まで待たねばならぬ。楽天モバイルがやっている情報共有サイトみたいなところで、二段階認証を一時的に解除してもらってなんとかなるらしいってことがわかり、9:00まで待って解約できた。

チャットサービス自体は非常に迅速だった。なにしろこういう事例が多発しているはずだから、対処方法もあらかじめわかっていたはずだ。しかしそれをFAQにまとめたり、手続きを自動化したりするのは手間もコストもかかるのだろう、と推測される。それでAIチャットとオペレーターの合わせ技でなんとかしのいでいる、という状況なのだろうなあと察せられた。

新しいサービスを次々に打ち出しているのだから、整備するのに若干遅延があるのは仕方ないと思うし、楽天モバイルPocketは意欲的な戦略だとは思う。二段階認証もあとから付け足されたもののようでそれはそれで必然性があってそうしたのだろう(楽天証券で二段階認証まで突破されたなどと言っていたがほんとだろうか)。しかしこうなることは予見できただろうし、対処しようとしてできないことではなかったはずだ(メイルにもワンタイムパスワードを送るとか)。

しかし楽天モバイルPocketはよそと比べて安価すぎるサービスではあるからこのくらいは我慢すべきであるかもしれない。実は今のスマホ使ってる会社からいっそのこと楽天モバイルに変えようかとも思ったが、諸般の事情でそれはしなかった。今から何のしがらみもなく通信会社選べるなら楽天にすると思う。そのくらい楽天は嫌いではない(今では)。

U-NEXT がなぜか「月額プランに申し込む」などと出て見れなくなった。メイルで文句を言ったらいつの間にか普通にみれるようになっていた。謎だ。

昨日は陶器屋を見て回ったが今日はすのこベッドが届いたら漬物屋巡りをしてみようと思っている。

急須

一人暮らし女子が自炊するという動画をユーチューブで見たのだが(笑)、一人暮らしを始めたばかりなら何でも試しにやってみれば良いのであって、私なんぞもアジの首を落とそうとしたら骨が固すぎて(鮭の骨は柔らかいからその気分で)無理やり切ろうとして自分の指を落としかけたことがある。

しかしコロッケを揚げるとか。コロッケなんてスーパーで総菜を買ってくれば済む話ではないか。わざわざじゃがいもつぶしてコロモつけてフライパンに油張ってコロッケを揚げるとかコスパ的にあり得ない。時間と金を節約しつつ自炊するのであれば、手間のかかるコロッケなんかは作らず、せいぜい蕎麦かうどんかそうめん、スパゲッティあたりをちゃちゃっとゆでて、パスタソースかなんか買ってきてかけて食べれば良いだけじゃないか。

最悪、米を炊いて卵かけご飯だけでもタンパク質と炭水化物は摂れているからOK。それに心配なら野菜ジュースでも飲めばよくね?

安くてうまい定食屋というものは必ずあるもので、ほんとに時間が無いときはそういうところで済ますと良いこともある。スーパーの弁当もまあよかろう。コンビニ飯、おまえはダメだ。高いしまずい。ウーバーイーツに頼るなど論外。

それはそうと急須を割ってしまった。今まではハリオのガラス製の急須などを好んで使っていたのだが、それもだいぶ飽きてきた。それにイギリス式のティーポットの形は結構握力を要すると思うのだ。注ぎ口と取ってが直列に並ぶのではなく、常滑焼の急須みたいに取っ手が直角に付いているか、あるいは上から吊り下げるタイプの方が手に力がかかりにくいと思うがどうなのだろう。中国式の急須も西洋急須とほぼ同じ形状であって、日本だけが特殊な進化を遂げたものと思われる。

ともかく、急須というのは割と壊しやすいものだから、スーパーなどで売っているようなものはたいてい試して飽きてしまった。浅草合羽橋界隈は日本有数の陶器市でもあるのだから、じっくり買ってみようと思った。雷門通りに「やま吉」という店がある。和陶器の品ぞろえが良いのでここでどうしても一通りものをみて相場を見ておきたいのだが、今日はとんでもなく人出が多かった(土日祭日は家飲みに限る)。そこから合羽橋に移動して、私は割と「小松屋」という店が好きかもしれない。ここで3000円の急須を買った。茶こしに取ってがついており、茶こし単体でも使えるところがおしゃれである。銘は蓋の裏に「西峰作」とあり、どうやら有田焼らしい。

こうした急須も浅草に住んでぶらぶら合羽橋を物色できる身分でなけりゃ買うことはなかったに違いない。

この世に居場所は無い

次から次にいろんな事件が起きるのは引っ越しというものがそうしたものだからだろう。隣の住人は週末特に活動が活発になるらしく、今日も一日中ゲラゲラ笑ったり絶叫したりしていた。隣人ガチャには完全に失敗したようだ。それからすのこベッドを買うことにした。詳しくは書かないがこのまま知らずに放置していたら梅雨時にはとんでもないことになっていただろう。

しばらく浅草から離れたほうがよいのかもしれない。そうしたらまた浅草が好きになれるかもしれない。腕時計もときどき付け替えたほうが良いし、手間の掛かる機械式もたまには付けてみたくなる。

浅草に住んでみて急速に人間社会というものが嫌いになっていくのを感じるがこれは浅草が悪いのではなくて、浅草がほかの町よりもいろんな意味でずっと密度が高い町で、それゆえ強制イベントが多発して、経験値が短期間に増大したせいだ。私は行く先々でその場所を楽しみもするが幻滅もする。浅草以外のところへ移ってもまた同じことが起きるだけのことで、結局私にはこの世にどこにも満足できる場所はない。私にとって最高の場所とは犬を飼ったりタバコを吸ったりする人間がいなくて、頭のおかしな隣人がいなくて、車の排気ガスを吸わずに済んで、頭のおかしな自転車乗りがいなくて、だがとんでもない田舎でもなくて、買い物が便利で、食い物がうまくて、おもしろおかしく酒が飲める友だちがいて、毎日いろんなことが起きて飽きないような場所ということになるがそんなところは世界中どこにもない。つまりはユートピアだ。ビルゲイツのような金持ちでもアミン大統領のような独裁者でもユートピアに住むことはできない。

三平ストアのお惣菜はとても私好みだ。雰囲気も好きだ。こういうローカルなスーパーは鍋屋横町にもあったんだがなくなってしまった。サミットができてからはガラガラにすいていた。レジに並ばずに済んで便利だったが閉店してしまった。ダイエーやイトーヨーカドーも昔のダイエーやイトーヨーカドーではない。とりあえず三平ストアは頑張れ。