二宮金次郎の沢庵

内村鑑三は二宮金次郎について「後世への最大遺物」にも書いているし、「代表的日本人」にも書いている。その影響を受けて私も、二宮金次郎が菜種を植えた川の土手に架かっている菜種橋を見に行ったり、金次郎の生家やら尊徳記念館を見に行ったりもした。金次郎が柴狩りした山に登るツアーにも参加したりした。もちろん小田原城下にある二宮報徳神社にも行ったし、報徳博物館にも行ったのである。

ところで二宮金次郎と沢庵の話なのだが、ある若者がやっとのことで金次郎に弟子入りして、金次郎の下で修行を始めた矢先、金次郎が彼に沢庵を切らせたところ、ちゃんと切れてなくて一つながりになっていたので、金次郎はこの若者を無慈悲にも破門にした、というのである。

どうもこれはおかしい。苦労人の尊徳翁ともあろう人が、弟子入りしたばかりの若輩者で、まだ世の中のことを右も左も知らないうちに、いきなり問答無用に、沢庵ごときで破門にするというのは、ちょっと考えにくい。厳しく叱り、教え諭すということはあっても、たかが一度の失敗でおまえはダメ人間だと決めつけ、いきなり前途ある若者からチャンスを奪うなどということはあり得ないと思う。おそらく二宮金次郎に対して悪意あるものが話をねじ曲げているのではないか。金次郎は厳しい指導者ではあったかもしれないが、尊大で傲慢な権威主義者、専制君主ではなかったはずだ。

それでいろいろ調べていくと元ネタはおよそ二つに絞られてきた。一つは明治41年8月に出た「二宮翁逸話」、そして同年11月に出た「報徳之真髄」。いずれも留岡幸助 編で警醒社から出ている。なんとこの人、同志社を出たキリスト教徒である。二宮金次郎はキリスト教徒に人気が高かったのだろうか。

柴田順作(権左衛門。堅節とも)という人がいた。金次郎の27才年下である。順作は駿河国で製紙業を営む富豪の息子で取れ高八百石の田を持ち、五万両の金も貯めていたが米相場に手を出して破産した。それでも貸した金が八百両ばかりあったのでそれを取り立てようと親類が世話をしてくれたのだが、貸した相手が百八十人ばかりもいて、彼らから貸金を取り立てるとどうしてもその中から二人や三人は自殺者が出るだろうと思って、親類には猶予を願い出て、小林平兵衛という知人を訪ねたら、この人が熱心な報徳主義者で、二宮翁のところへ連れて行かれたのだそうだ。それで「二宮翁逸話」によれば

順作はつらつら思ふのに一旦国に帰らば決心が崩るるに相違ないといふので、二宮翁の台所に居る浦賀の宮原瀛洲といふ人の助手となって、翁には内緒で三年の間炊事をしつつ報徳の道を学んだ。さうして遂には翁の黙許を得て時々その給仕に出たことがある。で或る時、翁の言はれるのに「お前はかういふ人間だからいけない」と言ふて香の物の切れかかったのを箸で挟んで「この通り全く切れて居ない。切るならばシッカリ切るがよし、切らぬならば切らぬがよし、切ったでもなく切らないでもなく中ぶらりして居るから失敗するのである」と言はれたことがある。その後順作は当時のことを思ひ出しては「あの時くらいつらかったことはなかった」と一つ話にしたと言ふことである。

また「報徳之真髄」によれば

さて柴田氏は陣屋の炊夫となって居った事が四年、その間にひどく叱られた事が一つある。それは或る日食事の時、香の物の切り方が悪かったことで、翁がその香の物を食べやうとして箸で挟みあげると、切り方が充分でなかったので、一切れつながって釣り下がった。翁は大そう立腹して、「権左衛門、この切り方はなんだ、切ったのか切らないのか、こんなふうだから貴様は財産をなくしたのだらう。この切り方には心が入って居ない。こんな不親切な切り方をしては食べない」ときつく叱られた。氏は平身低頭詫びたけれども、到頭翁はこの時食事を中止してしまったさうである。

だからもともと若者をいきなり破門にした話ではなかったのだ。そして「沢庵」で検索してもなかなか出てこない。「香の物」でなくてはならなかったのだ。

最初から切って売られている沢庵はたいていうまくない。だから私は切れてない沢庵を買ってきて自分で切って食べている。沢庵を切るときは二宮金次郎の逸話を思い出し身の引き締まる思いがする。切れてない沢庵だからといってうまいとは限らない。沢庵はほんとうにむずかしい。

金次郎は、沢庵は三年ものの、すっぱい古漬けしか食べなかった、などとも言われる。しかしながら夏に茄子を食べて秋なすの味がするので冷夏が来ることを察したなどという逸話もあるから、沢庵だけでなくて茄子の漬物も食べたのに違いない。漬物はなんでも食べたに違いない。漬物は三年物の沢庵しか食べない、などというはずがあろうか。古漬けでも浅漬けでも食べたに違いない。

以下「後世への最大遺物」より。

二宮金次郎氏は十四のときに父を失い、十六のときに母を失い、家が貧乏にして何物もなく、ためにごく残酷な伯父に預けられた人であります。それで一文の銭もなし家産はことごとく傾き、弟一人、妹一人持っていた。身に一文もなくして孤児です。その人がドウして生涯を立てたか。伯父さんの家にあってその手伝いをしている間に本が読みたくなった。そうしたときに本を読んでおったら、伯父さんに叱られた。この高い油を使って本を読むなどということはまことに馬鹿馬鹿しいことだといって読ませぬ。そうすると、黙っていて伯父さんの油を使っては悪いということを聞きましたから、「それでは私は私の油のできるまでは本を読まぬ」という決心をした。それでどうしたかというと、川辺の誰も知らないところへ行きまして、菜種
なたね

いた。一ヵ年かかって菜種を五、六升も取った。それからその菜種を持っていって、油屋へ行って油と取換えてきまして、それからその油で本を見た。そうしたところがまた叱られた。「油ばかりお前のものであれば本を読んでもよいと思っては違う、お前の時間も私のものだ。本を読むなどという馬鹿なことをするならよいからその時間に縄を
れ」といわれた。それからまた仕方がない、伯父さんのいうことであるから終日働いてあとで本を読んだ、……そういう苦学をした人であります。どうして自分の生涯を立てたかというに、村の人の遊ぶとき、ことにお祭り日などには、近所の畑のなかに洪水で沼になったところがあった、その沼地を伯父さんの時間でない、自分の時間に、その沼地よりことごとく水を引いてそこでもって小さい
くわ
で田地を
こしら
えて、そこへ持っていって稲を植えた。こうして初めて一俵の米を取った。その人の自伝によりますれば、「米を一俵取ったときの私の喜びは何ともいえなかった。これ天が初めて私に直接に授けたものにしてその一俵は私にとっては百万の価値があった」というてある。それからその方法をだんだん続けまして二十歳のときに伯父さんの家を辞した。そのときには三、四俵の米を持っておった。それから仕上げた人であります。それでこの人の生涯を初めから終りまで見ますと、「この宇宙というものは実に神様……神様とはいいませぬ……天の造ってくださったもので、天というものは実に恩恵の深いもので、人間を助けよう助けようとばかり思っている。それだからもしわれわれがこの身を天と地とに
ゆだ
ねて天の法則に従っていったならば、われわれは欲せずといえども天がわれわれを助けてくれる」というこういう考えであります。その考えを持ったばかりでなく、その考えを実行した。その話は長うございますけれども、ついには何万石という村々を改良して自分の身をことごとく人のために使った。旧幕の末路にあたって経済上、農業改良上について非常の功労のあった人であります。

この著書の中で

『少年文学』の中に『二宮尊徳翁』というのが出ておりますが、アレはつまらない本です。私のよく読みましたのは、農商務省で出版になりました、五百ページばかりの『報徳記』という本です。この本を諸君が読まれんことを切に希望します。

などと内村鑑三が言っているので、国会図書館デジタルコレクションで見てみると(初期のスキャンらしくて汚くて困る。国書データベースのものが綺麗)、なんと幸田露伴が書いていて、確かに内村鑑三が「つまらない」というのが良くわかる、子供を啓蒙しようとやたらと図版が入ってるが面白くもおかしくもない、やけに堅苦しい、幸田露伴らしい文章だ。「報徳記」の方は、内村鑑三が言っているのは、明治19年に出た「正七位富田高慶述 報徳記 全 農商務省版」のことであろう。しかるにこれは

茲に二宮金次郎尊徳先生の実績を尋るに、歳月久しくして其の詳細を知ることあたはず。且つ、先生は謙遜にして自己の功績を説かず。いささか邑人の口碑に残れりといへども、万が一に及ばす。

といったような文体で、味わいはあるが、今の人にはちと読みにくいのに違いない。しかし現代口語訳がいくらでも出ているのでそっちを読めばとりあえず用は足りるだろう。

大野晋が『日本語で一番大事なもの』で森鴎外を「あんな下手な擬古文はありゃしないですもの。」などと言っているのだけど、鴎外の「舞姫」など見ると、やはり幸田露伴と同じで実に面白くない。つまり、露伴も鴎外も漢文の素養はあるが、和文がからきしダメなのだと思う。大和言葉というものに対する感覚、感性が全然ダメだと思うのだ。文法は正確だけれども砂を噛むように味気ない。漢学ばかりやって和学をやらない武家などにありがちなのだろう。だからああいうとてつもなく退屈でつまらない文章になる。鴎外も「阿部一族」などは基本的に口語で書いているからまだ読みやすく面白い。「舞姫」みたいな文体でドイツ女に惚れられたなんて話を書いたって面白いわけがない。

幸田露伴はしかし大町桂月なんかと一緒に「日本外史」の現代語訳などを監修したりして、そういう仕事は実に立派で面白い。鴎外は東大の医学・文学博士で、露伴は東大の文学博士だからああいう文章になるのだろう。夏目漱石が死ぬまで博士の学位を嫌がったのも、ああいう連中と一緒にされたくないという気持ちがあったからかもしれん。

ところで二宮金次郎が描かれた絵を見ると素足にわらじを履いている。わらじというのは編み上げブーツのように藁の縄で足をぐるぐる巻きにするものだ。国定忠治なんかはみんな足袋と脚絆で足を固めてその上にわらじを履いている。

いや、昔の人は足の皮が厚かったから平気だったのだろうと思うかもしれないが、小田原辺りは山に入ると蛭が多かったはずだ。そんなところへ裸足で入ってはひとたまりもない。素足にわらじ履きというのはとても信じられない。渡世人なんかは多少金がかかっても足回りには万全の対策をしていたのではなかったか。

もしかすると田んぼで田植えというような場合は素足にわらじであったかもしれない。旅に出たり山登りをするようなときは足袋にわらじであったかもしれない。また里山などはよく整備されていて蛭が出ることもなかったのかもしれない。

梅干し

小田原駅前に「ちん里う本店」という店があって、そこに天保5年に漬けた梅干しが展示してあった。

少し調べてみると、日本最古(世界最古)の梅干しは天正5 (1576)年のものであるという。

ちん里うの梅干しはどれもちょっとお高め(とはいえ都内の百貨店の食品売り場よりはずっとリーズナブル)。5年干しのものを買ってみた。

だるまという料亭に行った。ここはたぶん2度目だと思う。おみやげに800円の梅干しを売っていたから買った。これはたぶん、店で食事をした人向けにかなりお得な値段設定になっていると思う。だるまは明治26年創業ちん里うは明治4年創業らしい。

家に帰り、だるまとちん里うの梅干しを食べ比べてみた。ちん里うは、古漬けだけあって味わいが濃く深い。だるまはたぶん去年漬けたものだろう。味わいは浅いがうまい。

単純でさっぱりした味が良いか、複雑でコクのある味が良いか。どちらが好きかとは言えないが、ふだん気軽に食べるには味わいが浅くてうまい梅干しのほうが食べやすいかもしれない。

ともあれ小田原に行ったら、金目鯛の干物やかまぼこよりは梅干しを買うべきだと思う。良い梅干しというものはそんなにどこでも手に入るものではない。曽我梅林は地元では別所梅林と呼ばれている。

水戸の偕楽園にも梅林があって、やはり梅干しを作っているらしい。一度食べてみたい。

浅草古地図

江戸時代と明治の地図はずいぶん違って見えるが、浅草寺の西側に日輪寺や誓願寺のあるのが確認できるので、もともと浅草寺と西隣の寺の間には広い荒れ地があったが、地図の上ではそれはごく小さく狭く、ただ門前と書かれていたのだろうと推察される。なぜ荒れ地だったかといえば浅草寺がその土地を積極的に活用するより早く、回りに町家が開発されたから、であろう。

こうしてみると初音小路などは比較的最近(戦後?)にできたものであり、いっぽうでいっぷく通りなどは明治初期にはすでにあったわけだ。あの一八そばやいっぷく通りがある謎の三角地帯だが、あれは昔はひょうたん池の南側に広がる荒れ地の一部であった。

しかるにこの荒れ地を抜けて西参道へ、また伝法院通りへふたまたに分かれる道というものが江戸時代頃からすでに自然にできていただろうということが察せられるのである。

なぜ浅草寺の辺りを浅草公園というのか不思議だったが、明治政府は浅草寺を接収してし公園として整備したらしいのだ。しかし戦後浅草公園の土地は浅草寺に返された。六区は浅草公園を整備するときに荒れ地を整備してできたものであるという。

ということは、六区、花屋敷を含む五区、また表参道(仲見世)を含む一区の辺りはいまもなお浅草寺の土地、ということなのではないか。第二次大戦で浅草寺本堂が焼け落ちてその再建費用を調達するために四区、つまりひょうたん池と初音小路あたりの土地が売りに出されたのだという。いや、初音小路辺りも実はいまだに浅草寺の土地(つまり寺が地主で大家)であって、ひょうたん池跡に建てられた場外馬券場辺りだけが売りに出されたのかもしれない。

ともかくも浅草寺の東側は割合と昔からああいうふうであったのだが、西側は池を埋め立てたりしてかなり劇的に変わったらしいことがわかる。明治の頃はまだ言問通りもなく言問橋も無い。関東大震災以後ここに道を通して、ここらにあった「銘酒屋」などが向島のほうへ移転して、小梅の里に遊郭ができたというのもおそらくはそれ以降のことなのではないか。白鬚橋が架かったのは大正3年だから、寺島や玉ノ井などはもう少し早く町が開け始めたのに違いない。

明治40年というと日露戦争が終わって好景気に沸いていた頃だ。ホッピー通りはかつて朝鮮部落と呼ばれていたからにはあまり人が住みたがらない低湿地であったはずだ。実際、明治40年の地図を見るとここに南北に水路のようなものが描かれている。ではこの水路は池から水を南の方へ抜くためのものであったろうかと思うが、どうも違うらしい。浅草の標高図を見ると意外なことに浅草寺本堂や伝法院、四区、花屋敷の辺りが窪地のようになっている。もともとの浅草寺の境内は、隅田川の自然堤防に遮られた広大な池のようなもので、その中の島に、弁天池の弁天堂がそうであるように、観音堂があったのではなかろうかと推測されるのである。従ってかつてホッピー通りにあったであろう水路は、南から北へ、池へと流れ込んでいたのではないかと思われるのだ。では池の水はいかにして排水されていたのだろう。よくわからない。

浅草寺の観音像は川から取れたものであるという。そして浅草寺自体が水の豊富なところであったから、神輿が船祭りという形で行われたのもわかるような気がする。

濹東綺譚2

日本堤を往復する乗合自動車に乗るつもりで、わたくしは暫く大門前の停留場に立っていたが、流しの円タクに声をかけられるのがうるさいので、もと来た裏通へ曲り、電車と円タクの通らない薄暗い横町をえらみ択み歩いて行くと、忽ち樹の間から言問橋のあかりが見えるあたりへ出た。川端の公園は物騒だと聞いていたので、川の岸までは行かず、電燈の明るい小径こみちに沿うて、鎖の引廻してある其上に腰をかけた。

いきなりうしろの木蔭から、「おい、何をしているんだ。」と云いさま、サアベルの音と共に、巡査が現れ、猿臂えんぴを伸してわたくしの肩を押えた。

公園の小径をすぐさま言問橋のきわに出ると、巡査は広い道路の向側に在る派出所へ連れて行き立番の巡査にわたくしを引渡したまま、いそがしそうにまた何処どこへか行ってしまった。
 派出所の巡査は入口に立ったまま、「今時分、何処から来たんだ。」と尋問に取りかかった。
むこうの方から来た。」
「向の方とは何方どっちの方だ。」
「堀の方からだ。」
「堀とはどこだ。」
真土山まつちやまふもとの山谷堀という川だ。」

山谷堀に沿って下っていけば自然と待乳山に出る。待乳山の語源は真土山であろう。この辺りは隅田川が作った自然堤防でなければ沼や湿地帯ばかりだった。盛り土ではなく天然の土で出来た山というので真土山というのに違いない。永井荷風はそこに拘ったか。

言問橋の灯りが見えるというからおそらく待乳山の脇へ出て、隅田川のほとりへ出ようとして、物騒だからやめにして、道を渡らずに、つまり今の山谷堀公園の南のどんづまり(今戸橋あたり)か、待乳山聖天公園あたりで、何かに引き回した鎖の上に腰掛けていたとき、巡査に声をかけられ、言問橋西詰の交差点にある聖天町交番というところへ連れて行かれたのに違いない。

道路は交番の前で斜に二筋に分れ、その一筋は南千住、一筋は白髯橋
しらひげばし
の方へ走り、それと交叉して浅草公園裏の大通が言問橋を渡るので、交通は夜になってもなかなか頻繁
ひんぱん
であるが、

これも今と同じである。南千住へ行く道というのは都道464号言問橋南千住線。白鬚橋へ行く道とは都道314号言問大谷田線のことである。普段ぶらぶら歩いている道なので実に具体的にイメージがわいてきて、以前読んだ時とはまったく違う気分で読めて面白い。

永井荷風は本所か深川、須崎遊郭の話を書こうとしたのだが結局、寺島玉の井を書くことにして、ここを濹上と言うには川から離れすぎているから、濹東と呼ぶことにしたのだ。本所、深川、須崎、或いは柳橋、向島小梅の里などいろんな地名が出てくるけれどもこれらは子細にみればどれも少しずつ違っている。

本所というのは蔵前の対岸あたりであり、浅草から見れば随分南だ。

深川というのは永代橋、門前仲町あたりのことでさらに南だ。

洲崎は深川の東隣で木場などと呼ばれるあたりだ。

向島小梅の里というのは言問橋東詰、牛嶋神社や三囲神社などのある辺りで、向島見番(向嶋墨堤組合)というのもこの辺りにあって、ほんらい向島の遊郭というのはこの辺りのことをいうのだろう。

鳩の街商店街の辺りは東京大空襲の後に(おそらく戦災を免れた建物を利用して)できたものだというから、濹東綺譚よりは後の時代のものだ。

この、押上、曳舟、寺島の辺りは昔は都電、つまり路面電車などが浅草から伸びていて、どこがどういうふうに繁華であったのか、今では予想が付きにくい。

昔は隅田川に架かる橋というものは今より少なくて、吾妻橋の上流には白鬚橋があるだけだった。白鬚橋を往来する京成バスというものがかつてはあり、白鬚橋の東に京成白鬚線というものがあって白鬚駅から向島駅というところを結んでいたらしいのだが(向島駅は京成押上線に連絡していた)、これらは今はほとんど痕跡もない。この白鬚線沿線辺りを昔は寺島村と呼んでいた、と濹東綺譚には書かれている。白鬚線と東武伊勢崎線が交叉するところが玉ノ井駅、今の東向島駅である。

昭和五年の春都市復興祭の執行せられた頃、吾妻橋から寺島町に至る一直線の道路が開かれ、市内電車は秋葉神社前まで、市営バスの往復は更に延長して寺島町七丁目のはずれに車庫を設けるようになった。それと共に東武鉄道会社が盛場の西南に玉の井駅を設け、夜も十二時まで雷門から六銭で人を載せて来るに及び、町の形勢は裏と表と、全く一変するようになった。今まで一番わかりにくかった路地が、一番入り易くなった代り、以前目貫といわれた処が、今では
はず
れになったのであるがそれでも銀行、郵便局、湯屋、寄席
よせ
、活動写真館、玉の井稲荷
いなり
の如きは、いずれも以前のまま大正道路に残っていて、俚俗
りぞく
広小路、又は改正道路と呼ばれる新しい道には、円タクの輻湊
ふくそう
と、夜店の賑いとを見るばかりで、巡査の派出所も共同便所もない。このような辺鄙
へんぴ
な新開町に在ってすら、時勢に伴う盛衰の変は免れないのであった。
いわん
や人の一生に於いてをや。

濹東綺譚は昭和11年、つまり二・二六事件のあった年に書かれたものだが、東武鉄道が玉ノ井の盛り場の西南に駅を設け、とあるからには、永井荷風が玉ノ井と呼んでいる場所は今の東向島駅の北東辺りのことを指しているわけである。本文から推察するに、東清寺(玉ノ井稲荷)のあたりだろう。つまりいろは通り界隈である。白鬚橋から大正通りを経ていろは通りへ。古い商店街らしいが遊郭の面影というのは私の見る限り無い。むしろ鳩の街や小梅の里のほうが向島らしい雰囲気や情緒があるだろう。吉行淳之介の小説とか、いわゆるカフェー風建築なんてものは鳩の街あたりだけにあるのであり、しかも赤線が廃止されるとともに急速に廃れたから、再開発もされずシャッター街となって比較的そのままの状態で残っている。

白鬚橋は大正3年に架かったそうだから、大正通りもそのときにできて、さらにその先が延長されていろは通りとなったものと思われる。日光街道と水戸街道が短絡されたから、寺島町はそれなり賑わいがあったのだろう。

濹東綺譚を昔読んだときは浅草や向島や戦前や戦後や遠くは江戸時代の風物がぼんやり漠然と、渾然一体と混じっていて、そういうものを読むからむしろファンタジー的な気分で読めたわけだけれども、実物を知ってしまった今読んでみるといちいちイメージが鮮明であって、逆に空想の入り込む余地がないとも言える。

以前にも東向島というものに書いたのだが、台東区には台東区で、墨田区には墨田区で巡回バスがあるのに、白鬚橋を往来して台東区と墨田区をつなぐバス路線が無い。言問橋ができて、浅草から押上、曳舟、東向島までいく交通が便利になると、この白鬚橋の重要性が非常に小さくなって、バス路線も採算が取れなくなり廃止されたものと思われる。吉原あたりに住んでいる私にとっては不便極まりない。吉原と玉ノ井を結ぶバス路線なり電鉄などあってくれれば、向島に遊びに行くのにどれほど好都合かしれない。都電荒川線が白鬚橋を渡って玉ノ井まで伸びていてくれたらよかったのに(白鬚線はもともと荒川線に接続する計画だったという)。

私の玉の井散策という記事が最も詳しいように思われる。

寺じまの記濹東綺譚向嶋向島浅草むかしばなし勲章水のながれ吾妻橋草紅葉里の今昔葡萄棚(青空文庫)。

国会図書館デジタルコレクションで断腸亭日乗など読むが、まあとりたててどうということはない。

濹東綺譚

濹東綺譚はもちろん読んだことがある(濹西綺譚なんてものを書いてみたこともある)のだが、小田原まで行く用事があって途中だいぶ間があるから小田急線の中で改めて濹東綺譚を読んでみた。浅草に半年も住んでみたものだから、地名がいちいちわかるのが面白い。

活動写真の看板を一度に
もっとも
多く一瞥する事のできるのは浅草公園である。ここへ来ればあらゆる種類のものを一ト目に眺めて、おのずから其巧拙をも比較することができる。わたくしは下谷
したや
浅草の方面へ出掛ける時には必ず思出して公園に入り
つえ
を池の
ふち

く。

とあるのは明らかに今は、東洋館、浅草ロック座なるストリップ小屋が建ち並ぶ通り(六区ブロードウェイ)のこと。

一軒々々入口の看板を見尽して公園のはずれから千束町
せんぞくまち
へ出たので。右の方は言問橋
ことといばし
左の方は入谷町
いりやまち
、いずれの方へ行こうかと思案しながら歩いて行くと、四十前後の古洋服を着た男がいきなり横合から現れ出て、

これはあきらかに、ひさご通りを通り抜けて、千束商店街の手前、言問通りまで来たところのことを言っている。

永井荷風は千束通り(千束商店街)のことを千束と言っている。実際今の浅草二丁目から五丁目の西側はかつて浅草区というものがあったときには千束町の一部であったらしい。戦後、下谷区と浅草区が合わさって台東区ができて、そのとき区割りも変わった、ということか。

さらに古くは、千束村は浅草区、下谷区、北豊島郡南千住町(大字千束)に編入されていたという。結構変遷があるものだ。もともとは千束池というものがあったあたりを全部千束と言っていたのだろう。

わたくしは口から出まかせに吉原へ行くと言ったのであるが、行先のさだまらない散歩の方向は、かえってこれがために決定せられた。歩いて行くうちわたくしは土手下の裏町に古本屋を一軒知っていることを思出した。
 古本屋の店は、山谷堀さんやぼりの流が地下の暗渠あんきょに接続するあたりから、大門前おおもんまえ日本堤橋にほんづつみばしのたもとへ出ようとする薄暗い裏通に在る。裏通は山谷堀の水に沿うた片側町で、対岸は石垣の上に立続く人家の背面に限られ、此方こなたは土管、地瓦ちがわら、川土、材木などの問屋が人家の間にやや広い店口を示しているが、堀の幅の狭くなるにつれて次第に貧気まずしげ小家こいえがちになって、夜は堀にかけられた正法寺橋しょうほうじばし山谷橋さんやばし地方橋じかたばし髪洗橋かみあらいばしなどいう橋のがわずかに道を照すばかり。堀もつき橋もなくなると、人通りも共に途絶えてしまう。この辺で夜も割合におそくまであかりをつけている家は、かの古本屋と煙草を売る荒物屋ぐらいのものであろう。

ここは少々難しい。千束商店街が尽きるまでいけば日本堤にぶつかる。土手通りを左に行けば吉原大門、見返り柳だ。山谷堀公園という遊歩道は戦後昭和になって暗渠になった、ということはそれまではまだ水が流れていたのだろう。つまり山谷堀公園が尽きるより上流が当時すでに暗渠になっていたと考えて良いだろう。

日本堤橋は吉原大門を出た真向かいにあったはずで、ここには今、桜鍋屋(創業明治三十八年、中江)や馬肉屋が残っている。その裏通りというのは土手通りに沿って、つまり、山谷堀の右岸が土手通りで、左岸が裏通りと言いたいのに違いない。

髪洗橋(紙洗橋)というのは東武ストアへ行くあたりにある。地方新橋はデニーズのあたりにある。地方橋はローソン100がある交差点、千束商店街のアーケードが尽きるあたりにある。いずれも橋の名前ではなくて、土手通りの交差点の名前として残っている。下流から順に言えば、正法寺橋、山谷堀橋、紙洗橋、地方橋、となるはずだ。

要するに、かの古本屋というのは吉原大門前の桜鍋屋の並びか、その裏通りあたりにあったと考えればよかろうと思う。