内村鑑三は二宮金次郎について「後世への最大遺物」にも書いているし、「代表的日本人」にも書いている。その影響を受けて私も、二宮金次郎が菜種を植えた川の土手に架かっている菜種橋を見に行ったり、金次郎の生家やら尊徳記念館を見に行ったりもした。金次郎が柴狩りした山に登るツアーにも参加したりした。もちろん小田原城下にある二宮報徳神社にも行ったし、報徳博物館にも行ったのである。
ところで二宮金次郎と沢庵の話なのだが、ある若者がやっとのことで金次郎に弟子入りして、金次郎の下で修行を始めた矢先、金次郎が彼に沢庵を切らせたところ、ちゃんと切れてなくて一つながりになっていたので、金次郎はこの若者を無慈悲にも破門にした、というのである。
どうもこれはおかしい。苦労人の尊徳翁ともあろう人が、弟子入りしたばかりの若輩者で、まだ世の中のことを右も左も知らないうちに、いきなり問答無用に、沢庵ごときで破門にするというのは、ちょっと考えにくい。厳しく叱り、教え諭すということはあっても、たかが一度の失敗でおまえはダメ人間だと決めつけ、いきなり前途ある若者からチャンスを奪うなどということはあり得ないと思う。おそらく二宮金次郎に対して悪意あるものが話をねじ曲げているのではないか。金次郎は厳しい指導者ではあったかもしれないが、尊大で傲慢な権威主義者、専制君主ではなかったはずだ。
それでいろいろ調べていくと元ネタはおよそ二つに絞られてきた。一つは明治41年8月に出た「二宮翁逸話」、そして同年11月に出た「報徳之真髄」。いずれも留岡幸助 編で警醒社から出ている。なんとこの人、同志社を出たキリスト教徒である。二宮金次郎はキリスト教徒に人気が高かったのだろうか。
柴田順作(権左衛門。堅節とも)という人がいた。金次郎の27才年下である。順作は駿河国で製紙業を営む富豪の息子で取れ高八百石の田を持ち、五万両の金も貯めていたが米相場に手を出して破産した。それでも貸した金が八百両ばかりあったのでそれを取り立てようと親類が世話をしてくれたのだが、貸した相手が百八十人ばかりもいて、彼らから貸金を取り立てるとどうしてもその中から二人や三人は自殺者が出るだろうと思って、親類には猶予を願い出て、小林平兵衛という知人を訪ねたら、この人が熱心な報徳主義者で、二宮翁のところへ連れて行かれたのだそうだ。それで「二宮翁逸話」によれば
順作はつらつら思ふのに一旦国に帰らば決心が崩るるに相違ないといふので、二宮翁の台所に居る浦賀の宮原瀛洲といふ人の助手となって、翁には内緒で三年の間炊事をしつつ報徳の道を学んだ。さうして遂には翁の黙許を得て時々その給仕に出たことがある。で或る時、翁の言はれるのに「お前はかういふ人間だからいけない」と言ふて香の物の切れかかったのを箸で挟んで「この通り全く切れて居ない。切るならばシッカリ切るがよし、切らぬならば切らぬがよし、切ったでもなく切らないでもなく中ぶらりして居るから失敗するのである」と言はれたことがある。その後順作は当時のことを思ひ出しては「あの時くらいつらかったことはなかった」と一つ話にしたと言ふことである。
また「報徳之真髄」によれば
さて柴田氏は陣屋の炊夫となって居った事が四年、その間にひどく叱られた事が一つある。それは或る日食事の時、香の物の切り方が悪かったことで、翁がその香の物を食べやうとして箸で挟みあげると、切り方が充分でなかったので、一切れつながって釣り下がった。翁は大そう立腹して、「権左衛門、この切り方はなんだ、切ったのか切らないのか、こんなふうだから貴様は財産をなくしたのだらう。この切り方には心が入って居ない。こんな不親切な切り方をしては食べない」ときつく叱られた。氏は平身低頭詫びたけれども、到頭翁はこの時食事を中止してしまったさうである。
だからもともと若者をいきなり破門にした話ではなかったのだ。そして「沢庵」で検索してもなかなか出てこない。「香の物」でなくてはならなかったのだ。
最初から切って売られている沢庵はたいていうまくない。だから私は切れてない沢庵を買ってきて自分で切って食べている。沢庵を切るときは二宮金次郎の逸話を思い出し身の引き締まる思いがする。切れてない沢庵だからといってうまいとは限らない。沢庵はほんとうにむずかしい。
金次郎は、沢庵は三年ものの、すっぱい古漬けしか食べなかった、などとも言われる。しかしながら夏に茄子を食べて秋なすの味がするので冷夏が来ることを察したなどという逸話もあるから、沢庵だけでなくて茄子の漬物も食べたのに違いない。漬物はなんでも食べたに違いない。漬物は三年物の沢庵しか食べない、などというはずがあろうか。古漬けでも浅漬けでも食べたに違いない。
以下「後世への最大遺物」より。
二宮金次郎氏は十四のときに父を失い、十六のときに母を失い、家が貧乏にして何物もなく、ためにごく残酷な伯父に預けられた人であります。それで一文の銭もなし家産はことごとく傾き、弟一人、妹一人持っていた。身に一文もなくして孤児です。その人がドウして生涯を立てたか。伯父さんの家にあってその手伝いをしている間に本が読みたくなった。そうしたときに本を読んでおったら、伯父さんに叱られた。この高い油を使って本を読むなどということはまことに馬鹿馬鹿しいことだといって読ませぬ。そうすると、黙っていて伯父さんの油を使っては悪いということを聞きましたから、「それでは私は私の油のできるまでは本を読まぬ」という決心をした。それでどうしたかというと、川辺の誰も知らないところへ行きまして、菜種
を蒔
いた。一ヵ年かかって菜種を五、六升も取った。それからその菜種を持っていって、油屋へ行って油と取換えてきまして、それからその油で本を見た。そうしたところがまた叱られた。「油ばかりお前のものであれば本を読んでもよいと思っては違う、お前の時間も私のものだ。本を読むなどという馬鹿なことをするならよいからその時間に縄を綯
れ」といわれた。それからまた仕方がない、伯父さんのいうことであるから終日働いてあとで本を読んだ、……そういう苦学をした人であります。どうして自分の生涯を立てたかというに、村の人の遊ぶとき、ことにお祭り日などには、近所の畑のなかに洪水で沼になったところがあった、その沼地を伯父さんの時間でない、自分の時間に、その沼地よりことごとく水を引いてそこでもって小さい鍬
で田地を拵
えて、そこへ持っていって稲を植えた。こうして初めて一俵の米を取った。その人の自伝によりますれば、「米を一俵取ったときの私の喜びは何ともいえなかった。これ天が初めて私に直接に授けたものにしてその一俵は私にとっては百万の価値があった」というてある。それからその方法をだんだん続けまして二十歳のときに伯父さんの家を辞した。そのときには三、四俵の米を持っておった。それから仕上げた人であります。それでこの人の生涯を初めから終りまで見ますと、「この宇宙というものは実に神様……神様とはいいませぬ……天の造ってくださったもので、天というものは実に恩恵の深いもので、人間を助けよう助けようとばかり思っている。それだからもしわれわれがこの身を天と地とに委
ねて天の法則に従っていったならば、われわれは欲せずといえども天がわれわれを助けてくれる」というこういう考えであります。その考えを持ったばかりでなく、その考えを実行した。その話は長うございますけれども、ついには何万石という村々を改良して自分の身をことごとく人のために使った。旧幕の末路にあたって経済上、農業改良上について非常の功労のあった人であります。
この著書の中で
『少年文学』の中に『二宮尊徳翁』というのが出ておりますが、アレはつまらない本です。私のよく読みましたのは、農商務省で出版になりました、五百ページばかりの『報徳記』という本です。この本を諸君が読まれんことを切に希望します。
などと内村鑑三が言っているので、国会図書館デジタルコレクションで見てみると(初期のスキャンらしくて汚くて困る。国書データベースのものが綺麗)、なんと幸田露伴が書いていて、確かに内村鑑三が「つまらない」というのが良くわかる、子供を啓蒙しようとやたらと図版が入ってるが面白くもおかしくもない、やけに堅苦しい、幸田露伴らしい文章だ。「報徳記」の方は、内村鑑三が言っているのは、明治19年に出た「正七位富田高慶述 報徳記 全 農商務省版」のことであろう。しかるにこれは
茲に二宮金次郎尊徳先生の実績を尋るに、歳月久しくして其の詳細を知ることあたはず。且つ、先生は謙遜にして自己の功績を説かず。いささか邑人の口碑に残れりといへども、万が一に及ばす。
といったような文体で、味わいはあるが、今の人にはちと読みにくいのに違いない。しかし現代口語訳がいくらでも出ているのでそっちを読めばとりあえず用は足りるだろう。
大野晋が『日本語で一番大事なもの』で森鴎外を「あんな下手な擬古文はありゃしないですもの。」などと言っているのだけど、鴎外の「舞姫」など見ると、やはり幸田露伴と同じで実に面白くない。つまり、露伴も鴎外も漢文の素養はあるが、和文がからきしダメなのだと思う。大和言葉というものに対する感覚、感性が全然ダメだと思うのだ。文法は正確だけれども砂を噛むように味気ない。漢学ばかりやって和学をやらない武家などにありがちなのだろう。だからああいうとてつもなく退屈でつまらない文章になる。鴎外も「阿部一族」などは基本的に口語で書いているからまだ読みやすく面白い。「舞姫」みたいな文体でドイツ女に惚れられたなんて話を書いたって面白いわけがない。
幸田露伴はしかし大町桂月なんかと一緒に「日本外史」の現代語訳などを監修したりして、そういう仕事は実に立派で面白い。鴎外は東大の医学・文学博士で、露伴は東大の文学博士だからああいう文章になるのだろう。夏目漱石が死ぬまで博士の学位を嫌がったのも、ああいう連中と一緒にされたくないという気持ちがあったからかもしれん。
ところで二宮金次郎が描かれた絵を見ると素足にわらじを履いている。わらじというのは編み上げブーツのように藁の縄で足をぐるぐる巻きにするものだ。国定忠治なんかはみんな足袋と脚絆で足を固めてその上にわらじを履いている。
いや、昔の人は足の皮が厚かったから平気だったのだろうと思うかもしれないが、小田原辺りは山に入ると蛭が多かったはずだ。そんなところへ裸足で入ってはひとたまりもない。素足にわらじ履きというのはとても信じられない。渡世人なんかは多少金がかかっても足回りには万全の対策をしていたのではなかったか。
もしかすると田んぼで田植えというような場合は素足にわらじであったかもしれない。旅に出たり山登りをするようなときは足袋にわらじであったかもしれない。また里山などはよく整備されていて蛭が出ることもなかったのかもしれない。