ヘルダーリン続き

Hätt’ ich dich im Schatten der Platanen,

Wo durch Blumen der Cephissus rann,

Wo die Jünglinge sich Ruhm ersannen,

Wo die Herzen Sokrates gewann,

Wo Aspasia durch Myrten wallte,

Wo der brüderlichen Freude Ruf

Aus der lärmenden Agora schallte,

Wo mein Plato Paradiese schuf,

私はあなたとプラタナスの木陰に憩いたい

そこは、アテナイの花園の中をケーフィソス川が流れ、

そこは、若者らが名誉を得ようと瞑想し、

そこは、ソクラテスの心が魅了し、

そこは、ペリクレスの愛妾アスパシアがミュルテの木立の中を逍遙し、

そこは、兄弟らの親しげな声が

賑やかなアゴラから響き、

そこは、私のプラトンが地上の楽園を創りあげたところ。

Griechenland — Friedrich Hölderlin

Ach! es hätt’ in jenen bessern Tagen

Nicht umsonst so brüderlich und groß

Für das Volk dein liebend Herz geschlagen,

Dem so gern der Freude Zähre floß! –

Harre nun! sie kommt gewiß, die Stunde,

Die das Göttliche vom Staube trennt –

Stirb! du suchst auf diesem Erdenrunde,

Edler Geist! umsonst dein Element

ああ!かのよりよき日々ならば、

雄々しく大いなることも無意味ではなかった

おまえの愛する心は高鳴る、かの民族のためならば、

歓喜の涙はいくらでも流れ得た –

今はただ待ち焦がれよ!必ず時は巡り来る、

運命が切り離す、土くれから神なるものを –

死ね!おまえはこの地上を探し求める、

気高き魂を!むなしき、おまえの一部を

シュピリを惰性で訳しているうちにふとヘルダーリンを訳したくなった。シュピリはもう訳してもしょうがないかもしれない。もはやたいしたものは出てこないように思える。シュピリを訳しているうちにだいぶドイツ語訳にも慣れてきた。もっと面白いもの、意義のあるものを訳してみたい。

「運命が」は完全な意訳。「その時が」を繰り返したくなかったのと、韻をちゃんと踏みたかったから。

伊藤静雄はヘルダーリンをドイツ語原文で読んで、あのような初期の詩を作ったという。それでヘルダーリンの詩の訳というものは、そんなに良いものはないように思う。例えば川村二郎訳の岩波文庫版で上の箇所は

ああ! あのよりよい日々になら

愛にみちた君の心は 民のために

どれほど大らかに親密を脈うったとしても 空しくはなかった

あの日々ならば 君の心は歓喜の涙を思うさまながしただろうに!――

待つがよい! いずれは刻がおとずれよう

神的な力を 牢から解きはなつ刻が――

死ぬがよい! 高貴な精神よ! この地上では

君の住まう場を求めても 所詮甲斐ないのだ

と訳されているらしいのだが、あまり上手な訳とは思えない。

この「ギリシャ」という詩は1793年、ヘルダーリンが23才のときの作らしい。比較的きちんと韻を踏んで作られた真面目な詩のように思える。たとえば die Stunde と Erdenstunde、trennt と Element が韻を踏んでいる。だから私も少し律儀に訳してみた。このリズムを訳さなくては面白さは失われるだろうし、川村二郎訳では、原文の意味が忠実に伝わってくるとはとても思えない。

これはギリシャ独立戦争に熱狂するヨーロッパ人の気持ちを表した詩だ。「待つがよい! いずれは刻がおとずれよう 神的な力を 牢から解きはなつ刻が」これは明らかにその時代背景をわかった上で訳しているのだが、あまりにも説明的で結果論的だ。

このように気狂いしたような若者の詩を、神聖ローマ帝国的な中世の沈滞の中にその青春時代を生きたゲーテやシラーが、好むはずもなかった。同じ理由でニーチェがヘルダーリンの影響を受けたのは当然だったと言える。

1793年、フランス革命は勃発していたがナポレオンはまだ大尉。イタリア方面司令官にすらなっていない。ギリシャ独立運動も、まだかげもかたちもなかった。ヘルダーリンはまさに時代の先駆者だったのである。

ギリシャ古典

『エウメネス』なんぞを書き始めて、エウメネスという人はよくわからない人なのだが、
とりあえずアリストテレスの下で学んだ学徒であったから、アレクサンドロスの遠征に秘書官として従軍した、という設定にしてみた。

それでアリストテレスを調べてみると、この人はどうも変な人で、お父さんはニコマコス、子供もニコマコス。自分を飛ばしてお父さんの名を子に付けることは一般的(たとえばアンティオコス→セレウコス→アンティオコス)、しかし三代同じ名前というのは古代ギリシャには無い。というか、西アジア的にはありにくい。なぜかというに、西アジアの人名はなんとかの子なんとか、となることが多いからだと思う。ラゴスの子ラゴスはなんかかっちょ悪い。それが三代続くとなおさらかっこ悪い。

アリストテレスという名は後世の人がつけた(すげえかっちょいい)あだ名のような気がする。アリストテレスの本名は彼の祖父か孫、でなければ叔父あるいはいとこの名がわかればかなり絞られてくると思う。

そしてアリストテレスはたしかに学者であって、博物学者のようなことは(あちこち放浪しながら)多少やったようだし、「ニコマコス倫理学」は本人が書いたものである(あるいは息子の口述筆記)のは間違いあるまいが、しかし、リュケイオンの講義をまとめたのがアリストテレス全集だというのはまあ絶対嘘だ。

アリストテレスが有名なのは、彼がアレクサンドロスの家庭教師で、アレクサンドロスがヘレニズム世界を作って、そのヘレニズム世界の学者らが、アリストテレスという偶像を必要としたのにすぎない。そしてヘレニズム世界の学者がみなギリシャ人であったわけでもない。ペルシャ人やエジプト人のほうが多かったはずだが、残された文献がギリシャ語で書かれているので、なんとなくギリシャ人だと思っているだけだ。

それでヘレニズムは東ローマが継承したわけだが、オスマン帝国が東ローマを滅ぼして、オスマン帝国がヘレニズムを継承することになったわけだが、こんどは西洋がオスマン帝国をぶん殴り始めて、ギリシャを独立させ、ギリシャ王国を作って、ヨーロッパのルーツはギリシャだとか言い出して、ニーチェみたいなオカルト的思想が流行した。
まあ、ニーチェにしてみればギリシャだろうとペルシャだろうとよかったわけだが、いずれにしても、当時のヘレニズムというものは近世のキリスト教が生み出した虚構にすぎない。それが虚構であって、本来のギリシャ古典とはなにかということを、近現代のオックスフォードとかの学者たちはけんめいに復元しようとしている。しかしオックスフォードが生み出した膨大な近代古典とか、ニーチェなどの近代哲学のために、あとは、それらを教義に取り込んでしまったキリスト教のために、なかなか元のギリシャ古典が世の中に知られることはない。

ヨーロッパの後追いをしているだけの(しかも五周遅れくらいで!)日本ではいまなお近代ヨーロッパにおけるギリシャ感がそのまま残っており、その虚像をぶっ壊そうと考えている学者もいなければ、オックスフォードの英訳に頼らず、ギリシャ語をそのまま読んで、本意をつかもうという学者もいなさそうだ。もちろんごくまれにプラトンを原語で読むとかいうのを自分の研究にしている人もいるようだけど。

プラトンは生粋のギリシャ人ではなくて、ギリシャ人の中でもかなり異邦人に近いシチリア人であったはずだ。彼はソクラテスの弟子の一人だったというにすぎない。そしてアリストテレスの師匠に収まったおかげで有名になったのである。

私たちが古代ギリシャにシンパシーを感じるとしたらそれは単に近代ヨーロッパの幻想に踊らされているだけなのだ。イスラム教徒が描いたヘレニズムに共感を覚える日本人は少ないだろ?アレクサンドロスをイスカンダルと呼んだり、マレーシア国王がイスタンダル・シャーを名乗ったりすると違和感を感じるだろ。

それでまあ、せっかくなので、この際徹底的に調べ上げて、『エウメネス』の続編の中で、ヘレニズムの実態を暴いて、見せつけてやりたいと思ったりしているのだが、しかしギリシャ語は難しい。

やまと

ヤマトという言葉なのだが、普通に考えれば「山戸」だろう。つまり山へ這い込んだ谷間のことで、ヤマトが縮まってヤト(谷戸)となったのかもしれない。

あるいはヤは八洲や八百万と同じく「八」(たくさんの)という意味か。トは水戸や江戸や瀬戸と同じく「戸」、つまり入り江という意味だろうと思う。ではマは何かといえば「まほろば」の「ま」であるかもしれない。だから漢字表記すれば「八真戸」となるか。だとすればヤマトという名は「大和」という内陸部に都ができるようになるずっと以前の名前であろう、海と関係のある名前であろうと思う。

ヤ・アマトがつながってヤマトになったのではなかろうかとも思える。アマトとはつまりアマノイハト(天の岩戸)のこと。天の岩戸というのは、具体的には、岩礁にうがたれた岩窟のようなものではないか。天の岩屋戸、天の岩屋、天の岩船みな同じ。宗像神社の奥津宮(沖ノ島)のようなものを考えても良い。アマトと母音で始まるとおさまりが悪いのでヤ・アマト、ヤマトとなったのではないか。東シナ海から瀬戸内海に続く多島海のことをヤマトと言っていたような気がする。つまり、ヤマトと八洲はだいたい同じ意味なんじゃないかとおもう。

あと、ヤマタのおろちのヤマタとヤマトの関連性は疑ってみてよいとおもう。ヤマタは単に山田かもしれんが。

邪馬台国はヤマト国であり、北九州地方にあったと考えるのが自然だ。