宣長の辞世の歌

山室の山の上に墓どころを定めて、かねてしるしを立ておくとて
山むろに 千とせの春の 宿しめて 風に知られぬ 春をこそ見め
今よりは はかなき身とは 嘆かじよ 千代のすみかを 求め得つれば

宣長は遺言で葬式のやり方をことこまかに指示し、かつ自分の墓所も自分で決めた。 そのときに詠んだ歌で、自分の墓で千とせの春の花を眺めていたい、 みたいな、何か無邪気な歌であり、特に学問とか思想が込められたものではない。

黄泉の国 思へばなどか 憂しとても あたらこの世を 厭ひ捨つべき

死後の世界はとても気持ちの悪いものだから、 もったいなくて簡単にこの世を嫌って逃れることはできない、という意味。

死ねばみな 黄泉に行くとは 知らずして ほとけの国を ねがふおろかさ

「死ねば」でなく「死なば」でないかと思うのだが・・・。 宣長は古事記に書かれたように人はみな死ねばけがれた、暗い黄泉の国に行くと信じていた。 極楽浄土に往生するという仏教の教えを信じてはおらず、そういうものを願うのは愚かだと考えていた。

聖人は しこのしこ人 いつはりて 良き人さびす しこのしこ人

聖人というのは嘘をついて良い人をけなす醜い人だ、と言っている。 「さびす」はやや訳しにくい。

聖人と 人は言へども 聖人の たぐひならめ や孔子はよき人

孔子は聖人と言われているが聖人のたぐいではなく、良い人だ、と言っている。 つまり、儒教や仏教などで言われている聖人は嘘つきで良い人を悪く言う醜い人たちばかりだが、孔子だけは良いと言っている。

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