本居宣長は玉勝間(巻一、巻二)で、立田川というのは今の水無瀬川であると言っている。
竜田川というのは大和国竜田山を流れる川であるというのが定説で、
業平の伊勢物語第百六段に「昔、をとこ、みこたちのせうえうし給ふ所にまうでて、たつた河のほとりにて」
> ちはやぶる 神世もきかず 竜田河 唐紅に 水くくるとは
もまたそのように考えられているのだが、
これは文徳天皇の時代に「渚の院」と呼ばれ、皇子の惟喬親王に相続され、
のちに廃れて(土佐日記に「渚の院」「これ、昔、名高く聞こえたる所也」と出る)、
後鳥羽院の時代に(おそらく業平にちなんで)再建され「水無瀬離宮」と呼ばれ、
宗祇・肖柏・宗長らが水無瀬三吟百韻を奉納し、
現在「水無瀬神宮」が建っている場所で詠まれたと考えるのが自然だ。
というのは、業平は惟喬親王のお供でしばしばこの渚の院を訪れ、たくさんの歌を残しているが、
わざわざ大和の立田山に行ったという話は出てこないからである。
また、同じく宣長が指摘しているように、万葉集には「立田山」という地名は何度も出るが「立田川」という地名は一度も出ないのである(いずれもいずれも山をのみ詠みて、川を詠めるは一つも見えず)。
また立田川は筑紫へ下る途中に通る場所として歌に詠まれている。「源重行集」
> 白浪の 立田の川を 出でしより のちくやしきは 船路なりけり
従って大和には立田川などいうものはなかったと言わざるを得ない。
つまり、古今集「なぎさの院にてさくらを見てよめる」業平
> 世の中に たえてさくらの なかりせば 春の心は のどけからまし
また後鳥羽院によって
> 見渡せば やまもとかすむ 水無瀬川 夕べは秋と なに思ひけむ
が詠まれたのと同じ場所だということになる。
立田川は別名、山崎川とも呼ばれ、後に水成川(みなしがは)と呼ばれ、水無瀬川となったが、
もともと水無瀬川とは涸川、もしくは水無川のことであったという。
京都から見ると大阪平野に出るまえに巨椋池というものがあって、そこが地峡になっていた。
この地峡の西側が山崎。
東側は男山石清水八幡宮である。
宣長がとっくの昔に発見しているのに小倉百人一首の解説にはみな、「竜田川」を「奈良県生駒郡斑鳩町竜田にある竜田山のほとりを流れる川」
としているのがおかしいではないか。
誰も玉勝間を読んでないのだろうか?