売れない本を書く

AIには本当の知性はない、ただのチャットボットだ、という話を良く見るのだが、そういう人間のほうが実は本当の知性は無いのかもしれない。今日は良い天気ですね、と言われて人は即座に、ええ、良い天気ですねと返す。これだって別に知性があってそう言ってるだけではない。チャットボットと何の違いもない。もし知性があるのなら、今日は良い天気ですね、と言われて、本当に良い天気かどうか、空を眺めてみたり、天気予報を調べてみたりして、やっと良い天気かどうかを判断して回答するのではなかろうか?

しかし今日は良い天気ですね、と話しかけた人は、本当に天気のことを質問したわけではない。ただ挨拶代わりに当たり障りの無い、無難な、会話に良くある話題を持ち出したに過ぎない。人はとりわけ天気のことが心配なわけではないし、いちいちなんで天気の話をしようと思ったのだろうと自問自答するわけでもない。これに対してあれこれ考えて5分後に結論を出して回答したとしたら、普通の人間とは思われないだろう。ものすごい変わり者か、最悪狂人だと判断されてしまうだろう。

人間はふだん無意識に無自覚に人と会話している。無意識に無自覚にテレビを見て、無意識に無自覚にものを食べている。テレビのバラエティ番組など、あんな馬鹿げた時間の無駄はない。だが人は喜んで見る。人は時間を無駄にしたい生き物だからだ。自分の時間を有効活用したい人間なんてこの世にはほとんどいない。テレビ番組の制作会社もできるだけ無自覚無自覚に見れるような番組を作る。そうしたほうが視聴率が稼げて、スポンサーが喜ぶからだ。要するに、今食べてますという実感を得られる食事というよりは、食べているのかいないのかもわからないくらい喉をするりと通っていく流動食のようなものを人は好み、世間もそれに合わせてそのような食事を作っているのだ。いちいちテレビを見たりものを食べたりするのに人生かけているなんて人はいない。

無意識に息をして無意識に歩き、無意識に生活して無意識に死んでいく。映画を見るときも、本を読むときだって知的に、批判的に読んでいるわけじゃない。ただの娯楽として読んでいる。村上春樹の小説を読んだところで何かおもしろおかしいことが書いてあるわけではない。たぶんあれは、すらすらと読めて、苦も無く読書体験ができるから人気があるのであり、本に書かれた内容に対した価値はないのではないか。私にはまだ、涼宮ハルヒの憂鬱などのほうがまだ、文章にひねりがあり、内容にも面白みがあるように感じる。ラノベは総じて低品質で読む価値すらないが、カテゴリーとしてはラノベであってもハルヒに関していえば普通の小説よりはずっと読む価値があると思っている。

映画批評をするユーチューバーは、人にもよるが、一応ちゃんと映画を見てしゃべっている。登録者数が多く再生回数が多いユーチューバーはやはりそれなりにすごい。しかし大抵の人はその配信動画を見てわかったつもりになっているだけだ。要するに自分で考えるのがめんどくさい、考えたくないだけだ。配信動画を参考に見たい映画を選んでじっくり見る人は、それなりにいるのかもしれないが。しかし一般大衆は要するにできるだけ楽して、頭を使わずに娯楽を消費したいだけなのだ。

人間がどれほどものを考えているのか、非常に疑問だと私は思っている。人は自分に意識があると思っているが、人は単に、自分には意識があると思い込む存在というに過ぎないかもしれない。デカルトの「我思う故に我あり」というのは正しいかもしれないが、しかしただそれだけのことで、大した意味はない。内部は不可知であって、外からみて区別が付かないのであれば同じことだと言う結論に達するしかない。外見と別に中身があるというのであればその根拠が知りたい。そんなものはもともとないのではないか。

今時の新人賞はみんなAIで書いてくるから新人賞はもはや機能していないなどとツイッターで言っていたが、これまでの新人賞だってどうせろくに読んではいないに違いない。年が若くないと新人賞はとれない。若者には伸びしろがあり、編集者が教育しがいがあるのと、わざわざ本を買って読むという人はほとんど若者(特に女性)なので、感性が近くないと、どんなに良い小説でも読まれないし売れないのだ。審査も、良いかどうかではなくて売れるかどうかで判断しているだけだ。で、売れる小説なんてものは、AIが書いたほうが売れるに決まっている。別に面白くなくても、話が良くできていなくてもよい。売れる本を書く人が小説家になる。自分が書きたい小説を書いて売れればそれにこしたことはあるまいが、たいていの場合、作家は書きたい小説ではなくて、売れる小説を書きたがるし、売れる小説こそは自分が書きたい小説だと思いたがる。或いは何か特別に自分が書きたいものがあるわけではなく、売れることが快感であり目的であったりする。編集者もそうだろう。いつの間にか面白い本よりも売れる本をプロデュースすることに喜びややりがいを感じるようになり、それを何にも疑問に思わなくなる。

そういうことは研究者の間でもよくあることだ。ほとんどの人にはほんとうに研究したいことがあって研究しているのではない。研究業績が稼げて、外部評価をされて、外部資金をたくさん集めてこれる研究をしたがる。民間企業の営業職と何も違わないのに、何のために研究者になったのか、なぜ民間で働かないのか、疑問も持っていない人がほとんどだ。

売れるかどうかということを判断する能力はAIにもある。むしろ変なこだわりをもたないだけAIの方がうまいだろう。AIには明らかにプロデュース能力がある。人間の性癖を分析してこういうものを出せばこのくらい人の性癖に刺さって売れるだろうという計算ができる。

となるとますます私は売れない本を書くことになるし、誰にも評価されない研究をすることになる。人からの評価もAIの評価も信用しない人間になっていく。

2次元のキャラとか萌え絵なんてものはあれは脳のバグを利用した記号に過ぎない。それでもああいうものは売れて儲かるから描く人がいるわけだが、記号に過ぎないからAIのほうがうまく描く。ああいう固定したパターンの絵を描く仕事はどんどんAIに奪われていく。

エロも同じだ。儲かるから描く。人に雇われるより同人活動で食っていくほうが人間関係的に楽だからエロを描く。別にエロが好きでもなんでもなくても描く。しかしこういう仕事もAIのほうがうまいからそのうち人間の仕事が奪われるようになるだろう。

J-Popの歌詞だって中身のないスカスカなものだからAIでも自動生成できるだろう。曲だってAIが作ったほうが受けが良いだろう。

AIが出てきて結局人間ってAIにだまされる程度に馬鹿なんだなってことがわかってきただけではないか。AIに飼い慣らされて、AIから金を巻き上げられるだけの存在。AIに喜んで課金するだけの存在。ほんとうにものを考えて生きている人間なんているのだろうか。

AIがでてきたおかげで人間がますます馬鹿にみえて仕方ない。私の書いた小説が読まれない理由(或いはなぜか読まれる理由)もわかった気がする。つまり誰もものを読む能力があって読んでいるのではなく、ただ無意識に読んでいるだけ、読んだつもりになっているだけだからなのだ。

AIに奪われるような仕事というものはそもそも元々そんなに価値のあるものではなかったのだ。AIに作れるような作品なんてもともとそんなに価値のあるものではなく、そんな作品を喜んで消費しているような人間にも、文化芸術にも、もともと大した価値などなかったのである。

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