中野新橋

中野新橋にかつて遊郭があったということについてちょっと調べていたのだが、銭湯で中野区のハザードマップが貼ってあって、それを見ると、かつての神田川は相当屈曲していたように思えるし、また、今の中野新橋駅当たりはけっこう広い沼だったのではないかと思えてくる。つまり、江戸時代か明治の頃には神田川はもっと風光明媚な土地で、それで川沿いに遊郭が並んだのではないか、とまずは想像してみたのだった。

ところが今、中野区がネットで公開しているハザードマップでは、そうした神田川の原風景というものはよくわからない。東京の標高地図を見てもやはりよくわからない。江戸時代、中野区辺りは郊外の田舎に過ぎず、古地図などというものもなく、当時どんなふうだったか調べようもない。

それで今昔マップというものをみるに、明治時代の神田川はそんなに屈曲していたわけでもなく、淀や渓谷らしきものもない。神田川はかなり早い時期(江戸時代?)に河川をまっすぐにする工事が施されていたらしい。

明治の地図では、中野新橋駅あたりは全部田んぼだ。根河原というあたりに多少家が建っていたらしいが、花街という雰囲気ではない。しかも昭和に入ると神田川の川筋は今と同じようにまっすぐに改修されている。いつから花街があったかしらないが、風光明媚な地だったから花街ができたというわけではなさそうなのである。

新橋にあやかったのか、橋の名前が由来か—中野の花街という記事があってこれでだいたいのことはわかった。中野区立図書館に行くと、『開花中新半世紀』という本があってこれに中野新橋の花街の由来が書かれて、関東大震災で都心の花街が田んぼしかなかった中野新橋に移転した、ということらしい。なんだ、中野新橋の花街といってもせいぜい昭和より後の歴史しかなかったわけだ。調べて損した。

国会図書館デジタルコレクションにある『中野区民生活史 第2巻』『大東京年誌』にも若干の記事がある。関東大震災後に、中野区では新井薬師と、やや遅れて中野町新橋に花街ができた。昭和6年6月時点で中野本郷(中野新橋)には芸妓屋が17軒、芸妓が39人いたとある。ちなみに同じ時、八王子には芸妓屋が38軒、芸妓が122人、町田には芸妓屋が6軒、芸妓が13人いたそうである。八王子というところはもともと甲州街道の宿場町で相当大きな花街があったようで、つい最近まで(今も?)ソープランドが街中に点在していた。しかしながら今は八王子よりもむしろ町田のほうが、JR横浜線と小田急線の乗換駅であるせいか、人の往来が多く町も栄えているようにみえる。

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