加後号

いわゆる加後号というものは、
後一条天皇から始まっている。
これは系譜を見ると明らかなように、
村上天皇の皇子に冷泉天皇と円融天皇があって、
ここで皇統が二つに分かれてしまっている。
円融天皇を冷泉天皇の皇子の花山天皇がつぎ、
花山天皇を円融天皇の皇子の一条天皇が継ぎ、
一条天皇を冷泉天皇の皇子の三条天皇が継ぐ、といった両統並立状態だ。
これはまずいというので、
三条天皇を継いだ一条天皇の皇子には後一条天皇という追号がおくられた、後一条天皇が一条天皇の正統な後継者だ、
という意味合いが込められているのだろう。
それはわかる。

しかしその後がもうわけわからない。
後朱雀天皇は朱雀天皇の直系子孫ではないし、五親等も離れている。
後冷泉天皇も後三条天皇も円融天皇の系統であって、冷泉天皇の子孫ではない。
どうもこの道長・頼通の時代に朝廷の原理原則というものが乱れきっているように思われる。

新井白石は後三条天皇がお気に入りである。
蝦夷征伐を行い、記録所を置いて荘園を整理した。
しかしその後の鳥羽天皇や白河天皇はもうだめだ。

荘園ばかり増えて国司は任地に赴きもしない。
国の直接財源は百分の一ほどとなり、勝手な地方自治状態になっている。
鳥羽天皇や白河天皇も自分で荘園を持っていたから富裕だっただけであって、
きちんと国の経営をしたわけではなく、
そのツケが後白河天皇の時代に保元の乱やら平治の乱やら源平合戦となって噴出した、という考え方だ。

結局古代律令制というのは後三条天皇のときにすでに死んでいた、というわけだ。

中国では趙匡胤が統一国家宋を作り、歴史上世界的に中国が最も先進的な時代を迎えていた。
中国が工業も政治も軍事力もすべてにおいて世界に優越してのは宋のときしかない(宮崎市定の受け売りである)。
宋学という当時世界最先端の中央集権的な政治思想が当然後三条天皇の時代に日本に流れ込んできただろう。
道長タイプの政治家とは違う実務的で有能な官吏が、日本も宋のようになればよいと考えたに違いない。
そういう高級官僚は後白河法皇の時代にも、何人も現れている。
要するに私営地を減らして国営地を殖やし、国の財源を確保して、健全な国家経営をしようという、
ごくまっとうな、つまり現代的な発想をする人たちだ。
だがそういうまともな官僚たちは、はじめに藤原氏に、次には平氏につぶされてしまい、
結局源氏を経て北条氏に政治の実権がうつってしまった。

新井白石は高級官僚だから一民間人の頼山陽とはやはり発想が違ってくる。
天皇と朝廷が国を経営しなくなったのがまず悪い。
後三条天皇以後はもうむちゃくちゃで「政道を行はるることことごとく絶えはてて」「日本国の人民いかがなりなまし」という状態に至った。
だから頼朝が出て北条氏が出て賤臣の分際で国の政治を執り行った、ということになるのであり、
白石自身が感じていた為政者側の責任感というものから、そういう考え方に至ったのであり、至極自然だと思う。

後三条天皇は皇太子時代が長く藤原氏を外戚とせず、三十代半ばの壮年期に天皇に即位した。
これだけのことからでも、その志は察しえよう。

後三条天皇の号は母親が三条天皇の皇女(道長の孫娘)であるからおくられたものであろうか。
つまり藤原氏の血縁関係の方が皇統よりも重視されたということか。

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