ネットでぐぐると腰越状をいろんな人が読み下し文にしたり現代語訳したりしているのだが、
あまりうまく行ってないように思える。
腰越状は、
平家物語、吾妻鏡、義経記などにほぼ同様のものが載っているのだが、
吾妻鏡には「顯累代弓箭之藝」とか「倩案事意、良藥苦口、忠言逆耳、先言也」とか、
なくもがなという変な脚色や蘊蓄が挿入されている。
特に「良藥苦口、忠言逆耳」などは前後の文脈とほとんど関係ないどころか流れを断ち切ってさえいる。
吾妻鏡の漢文を無理に読み下し文にしようとしてはならない。
平家物語というこれ以上期待できないほど上質の資料があるのだから、
またおそらくは平家物語の方がオリジナルでそれを吾妻鏡が掲載しているだけなのだから、
平家物語の原文を読めばよい。
「廣元、雖披覽之、敢無分明仰、追可有左右之由」
ここだけ読んでもよくわからんのだが、「敢えて分明の仰せ無く」とは、は平家物語「腰越」の次「大臣殿被斬」に出てくる
> 鎌倉殿、さらに分明のご返事もなし
を漢文化したものだろう。すると、
「広元はこれを頼朝にお見せしたが、追って指図あるべし由という他、特に明瞭なことは仰せにならなかった」
となるだろう。
「京都之経廻難治之間」であるが、この「経廻」が謎である。
漢語ではないらしい。
たぶん「経巡る」(へめぐる)という意味であろう。
とすれば意味はおそらく、「京都周辺を経巡ることは(平氏に見つかる恐れがあり)困難だったので」となるか。
腰越状は戦前の漢文だか修身だかの教科書に載っていたそうだから、ちゃんと探せばもっときちんとした解説があるのに違いない。
こういう当時の律令社会に流通していた日本語をそのまま漢文化したような漢文を、
戦後教育ではやらない。
本場中国の漢文しかやらなくなったので、
日本人は江戸時代までの日本人の漢文(吾妻鏡もそうだが、たとえば公家の日記など)がまったく読めなくなってしまった。