『古今和歌集の真相』を手直ししてて、『伊勢物語』が気になり始めた。
『伊勢物語』125段、藤原定家版以外なく、つまり、定家までどのような形で伝承してきたかすら、わからないということだ。
それでまあ、紀氏の家に紀有常の物語が残り、また藤原高子と遍昭の物語がこれとは独立してあった。
紀有常物語を執筆したのは紀貫之である可能性が高いと思う。
この二つの物語は比較的似ているし成立時期も重なっているので、
のちに一つに合体してしまい、
さらに似たようなエピソードも追加されて、
主人公は在原業平であることにされてしまったのではないか。
奈良や大和の話が多いのも気になる。
平城天皇系統の物語が在原氏を経て残ったのかもしれない。
京都からわざわざ奈良に来たときの話ではなく、平安時代になってもまだ奈良に住んでいた人たちの話。
1と2はよくわからんが、3から6段までは、高子と遍昭の若い頃の話。
高子入内866年より前。
1と2は後から巻頭に付け足された可能性もある。
7段は、有常が伊勢に権守として赴任したときの話だろう。857年。
8段は、有常が信濃に権守として赴任したときの話だろうから、871年頃。
9、10、11、12、13段は、有常が下野に権守として赴任したときの話。867年。
12段は、おそらく「国の守」である有常が下野に向かう途中に武蔵野辺りで盗人を捕らえて連行したという話だろう。
14、15段。
> 陸奥の国にすゞろに行きいたりけり。
下野は白河の関を越えれば陸奥であるから、そういうこともあったかもしれない。
16段。これはまさしく有常とその妻の話である。
時期はよくわからないが東国に赴任するころと一致するのに違いない。
17、18、19、20、21、22、23、24、25、26、27、28、29、30、31、32、33、34、35、36、37段。謎。
26段は高子の話か。
断片的なエピソードが集められた感じだ。
> 田舎わたらひ
> むかし、男かた田舎に住みけり。男宮仕へしにとて、
子供の頃は奈良で育ったが、宮仕えしようと京都に移り住んだ、という意味ではなかろうか。
ならばやはり在原氏の話ではなかろうか。業平とは限らない。
業平の父・阿保親王だとすると田舎とは太宰府であることになる。
奈良ではなく長岡京かもしれない。
38段。これも明白に有常の話。
39段。淳和天皇と、崇子内親王と、源至の話。848年。
40段。謎。
41段。
> 武蔵野の心なるべし
とあるから、有常の話か。
42
謎。
43
賀陽親王の話。
賀陽親王は桓武平氏の祖葛原親王の実母弟。871年まで生きたので、
有常より20歳ほど年上だが、同時代人とも言える。
44
有常の馬の餞の話か。
45
謎。
46
地方に下った有常へ京都の友が消息した話か。
47
謎。
48
これも有常の馬の餞の話か。
49
謎だが、有常の話であるとすれば、
妹とは、仁明天皇更衣の種子、
文徳天皇更衣の静子かもしれない。
妹に
> 聞こえけり
とあるのが暗示している。
50、・・・、59
謎。
60、61。
有常が肥後権守となったときの話か。
62
謎。
63
在五中将、つまり業平の話。
64
謎。
65
非常に興味深い話だ。
ここには藤原高子と清和天皇と在原某が出てくる。
清和親王の母・藤原明子(染殿后・文徳天皇の女御・藤原良房の娘)も出てくる。
高子入内後の話としてもよいが、それだと
> おほやけおぼしてつかう給ふ女の、色ゆるされたるありけり
皇后ならば禁色を許されているのは当たり前だろう。
だから高子がもう少し若い頃の話ではないか。
そしてそれより若い在原某は業平ではあり得なく、
業平の息子の棟梁、あるいは孫の元方であるかもしれない。
棟梁は有常の娘の子である。
清和天皇は幼主であったから女盛りの高子が不倫していてもなにもおかしくはない。