江戸初期の歌人、戸田茂睡が書いた「紫のひともと」(天和2(1682)年)という仮名草子があってそこに浅草三社祭のことが書かれている。
観音寺門三社権現の祭り、三月十八日なり。是も隔年行はるる。此の三社権現の祭りは花園院の御宇、正和元(1312)年、神託によって始まるなり。
本堂の社の東に三社権現あり。是は観音を網にて引き上げし檜の熊の浜成・竹成と二人の漁夫の在家を改めて精舎となし、直中和といひし漁師と合はせ、三人を権現に祝ひ、三社の護法といふ是なり。本堂の外に出居る出家、専堂・斎堂・常音は、彼の三社の末孫なり。妻帯して子孫相続有る故、三月十八日の祭りは此の三社の神なり。東の随身門より、一の権現の前に出る。一の権現と云ふはあかん堂のことなり。昔、観音、海より上らせ給ふ時、野より雉子来て、羽にて御身体を隠し、雨露に塗らし申さざると云へり。此の故に此の観音、信心の者は雉子を食せず。所の者は雉子を家内にて、他の人にも食せず。
さて、此の三社権現は駒形堂より海に乗せ申し、浅草見付の船着より上らせ給ひ、本通りを本社へ帰らせ給ふ。
いやはや。これはすごい。
戸田茂睡の時代にすでに浅草神社は一応本堂、つまり浅草寺とは別の建物に分かれて、今の場所にあったらしい。また随身門とは現在、二天門と呼ばれている門を言うらしい。浅草神社を出たらすぐ東に折れて随身門を出て、おそらくこの辺りに「あかん堂(一の権現)」と呼ばれた建物があって、そこから今の馬道通りを南下して、駒形堂というところまでいく。これは今も駒形橋西詰の北側にある。ここから神輿を船に乗せて隅田川を下り、浅草見附(浅草御門)、つまりおそらく神田川が隅田川に合流する柳橋辺りの船着き場(蔵前あるいは浅草御蔵のことか)から上陸し、ここから本通りを経由して、鳥越(蔵前)を経て、再び駒形堂を経て、本社に帰っていたのだろう。
今の三社祭と全然違っている。
江戸初期、当時の浅草から吉原にかけてはまだ田んぼや沼が広がっていて人はほとんど住んではいなかったのだろう。吉原が今の場所、当時、竜泉寺村と呼ばれていた場所に移転したのは明暦三(1655)年のことであった。
しかしながら江戸城大手門から浅草まで通る道沿いには後北条氏の時代から既にかなりの人が住んでいたと思われ、また浅草の主たる産業は隅田川を使った水運や漁業であったから、それを生業とする町民らが三社権現の主役であって、また浅草観音は川の中から網にかかって引き上げられたということになっていたから、船渡御というものが、祭りのメインイベントだったのだ。それが三社祭の原型なのだ。
