後撰集や拾遺集を読んでいるのだが、
ほんとうの秀歌というのは、三代集、つまり古今・後撰・拾遺集のよみ人知らず、
または人麿の歌にこそあると思うんだな。
しかし現代日本人はまず、小倉百人一首から和歌に入る。
そうすると、とんでもない駄作、まったく無名の歌人などの方が有名になってしまう。
赤染衛門などはまだ良いとして喜撰法師などはまったくどうでもよい人だとしか言いようがない。
このあたりが、
和歌の感覚をいちじるしく混乱させているのは間違いない。
特に、後撰集や拾遺集の雑などに無造作に収録されたよみ人しらずの歌に実に良いものが多い。
拾遺集には「雑春」とか「雑恋」などの巻もあってびっくりする。こんなものは、
他の歌集にはなかろう。
たぶん、集めたことは集めたが編集しきれなかったのだろう。
たとえばだけど、
> ささがにの空に巣がける糸よりも心細しや絶えぬと思へば
蜘蛛の巣の糸よりも心細い、と言っているだけなのだが。
次は、山田法師という、ごく無名の人
> あしひきの山下とよみ鳴く鳥も我がごと絶えずもの思ふらめや
「らめ」とか「らめや」って面白いな。
> 我が恋を人知るらめや敷妙の枕のみこそ知らば知るらめ
> 秋なれば山とよむまで鳴く鹿に我おとらめやひとり寝る夜は
おもしろい歌だなあ。
> 過ちのあるかなきかを知らぬ身は厭ふに似たる心地こそすれ
久しぶりに訪れた女性がなかなか会おうとしないので、
自分の側に過失があって会ってくれないのか、
嫌われてしまったような気分になる、という意味。
> うつくしと思ひし妹を夢に見て起きて探るになきぞ悲しき
これもよみ人知らず。なんか似たような歌があったようななかったような。
万葉集か。
中務
> 忘られてしばしまどろむほどもがないつかは君を夢ならで見む