土岐善麿

国会図書館デジタルコレクションで田安宗武のことを調べていると土岐善麿が書いたものばかり出てくる。土岐善麿とはつまり土岐哀果である。

土岐哀果の歌は悪くはないがどれも調べが悪い。まったく好きになれない。後味が嫌すぎる。田安宗武の歌も調べが悪い。そのうえ中身が無い。土岐善麿も田安宗武の歌がうまいとは決して言っていないようにみえる。ただ、理念に賞賛できるとか、生活者として、人格者として優れているとだけ言っているようにみえる。なんという詭弁だろうか。左翼歌人によくいそうだ。歌を歌として見るのでなくイデオロギーで見ている。土岐哀果もおそらく、歌人というものは歌の調べの美しさよりもまず、生活者として、人格者として立派であるべきだ、そう考えていたのではないか。こういう考え方が歌というものをわからなくしているのだ。

土岐善麿はなぜあれほどまでに田安宗武のことを執拗に調べ上げたのだろうか。その仕事は非常に丁寧でわかりやすく為になるのだけれど、その情熱がどこから来ているのか。そして田安宗武の問題点、万葉調の問題点を理解しているのは明らかなのだが、土岐善麿が田安宗武を、そして万葉調を愛していることもまた明らかなのである。

徳川幕府は和学御用というものを作った。和学御用となることが国学者の、歌学者の権威となった。荷田春満、賀茂真淵はそうだし、ある意味、本居宣長さえも晩年には(紀州および尾張)徳川の権威におもねった。

徳川は和学というものを官学にしようとした(式楽化しようとした、と言っても良い)。世の中に漢学と和学という二つの学問があり、漢学のように和学も高潔で清純なものでなくてはならないとした。柔弱で淫らな和学を厳しくしつけてきりりとしたものにしなくてはならないと考えた。はっきりいって和学というものがまったくわかってない。和学音痴極まれり。なるほど和学は国学ではあるが官学にしてはならぬ。国のものではあるが官が縛ると死んでしまう(芸術も補助金漬けにされれば死ぬだろう)。それが和学だ。

宣長はその意図に気付いて抵抗した。それが「もののあはれ」論となった。

荷田春満はむしろ逆に和学御用のために大好きな『伊勢物語』『源氏物語』批判までした。賀茂真淵もむりやり自分を万葉歌人と規程しようとした。それほどまでに徳川幕府の権威は強かった。土岐善麿の田安宗武を読んでそれが確信に変わった。そりゃそうだろう。当時徳川の恩顧を蒙れば何不自由なく暮らせたのだから。

村田春海や加藤千蔭や松平定信が田安宗武を真似なかったのは、荷田春満や荷田在満や賀茂真淵の本心を知っていたからだ。和歌というものを骨肉としている人にとって(つまり官学という裃を着てお城に登って貴人に侍っているのでなく、和歌そのものを愛している人にとって)田安宗武やその万葉調というものは我慢がならなかったはずだ。土岐善麿もそれには気付いていたはずだ。しかし完全に無視した。本居宣長や香川景樹などの歌人がいたことは知っていてもまったくそれらとの比較研究を行わなかった。ただひたすら田安宗武のことだけを書いた。なぜそこまで意固地になったかといえば、土岐善麿の中に埋め込まれていた左翼思想、反国粋主義から来ているのだろう。

土岐善麿は戦後まもなく田安宗武を書いて学士院賞をもらいますます田安宗武を書くようになった。賀茂真淵が田安宗武に取り込まれたのと良く似てはいないか。

土岐善麿は極めて克明にまた誠実に(つまり学術的に正確に)田安宗武を描こうとしているが、そこで読者に与えようとしている印象はまったくの偽りだ。賀茂真淵が幕臣として田安宗武に仕えたのとまったく同じではないか。

ともかくもいまははっきりとわかった。荷田春満や賀茂真淵が本居宣長と対立しているようにみえたのは間違いだった。もともと春満も真淵も宣長の側にいた人だったのだ。

思えば不幸なことだ。国学四大人、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、そして平田篤胤。みな呪われている。国学とはかくもいびつなものなのか。なぜ学問というものはこれほど呪われているのか。

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