
江戸時代と明治の地図はずいぶん違って見えるが、浅草寺の西側に日輪寺や誓願寺のあるのが確認できるので、もともと浅草寺と西隣の寺の間には広い荒れ地があったが、地図の上ではそれはごく小さく狭く、ただ門前と書かれていたのだろうと推察される。なぜ荒れ地だったかといえば浅草寺がその土地を積極的に活用するより早く、回りに町家が開発されたから、であろう。
こうしてみると初音小路などは比較的最近(戦後?)にできたものであり、いっぽうでいっぷく通りなどは明治初期にはすでにあったわけだ。あの一八そばやいっぷく通りがある謎の三角地帯だが、あれは昔はひょうたん池の南側に広がる荒れ地の一部であった。
しかるにこの荒れ地を抜けて西参道へ、また伝法院通りへふたまたに分かれる道というものが江戸時代頃からすでに自然にできていただろうということが察せられるのである。
なぜ浅草寺の辺りを浅草公園というのか不思議だったが、明治政府は浅草寺を接収してし公園として整備したらしいのだ。しかし戦後浅草公園の土地は浅草寺に返された。六区は浅草公園を整備するときに荒れ地を整備してできたものであるという。
ということは、六区、花屋敷を含む五区、また表参道(仲見世)を含む一区の辺りはいまもなお浅草寺の土地、ということなのではないか。第二次大戦で浅草寺本堂が焼け落ちてその再建費用を調達するために四区、つまりひょうたん池と初音小路あたりの土地が売りに出されたのだという。いや、初音小路辺りも実はいまだに浅草寺の土地(つまり寺が地主で大家)であって、ひょうたん池跡に建てられた場外馬券場辺りだけが売りに出されたのかもしれない。
ともかくも浅草寺の東側は割合と昔からああいうふうであったのだが、西側は池を埋め立てたりしてかなり劇的に変わったらしいことがわかる。明治の頃はまだ言問通りもなく言問橋も無い。関東大震災以後ここに道を通して、ここらにあった「銘酒屋」などが向島のほうへ移転して、小梅の里に遊郭ができたというのもおそらくはそれ以降のことなのではないか。白鬚橋が架かったのは大正3年だから、寺島や玉ノ井などはもう少し早く町が開け始めたのに違いない。
明治40年というと日露戦争が終わって好景気に沸いていた頃だ。ホッピー通りはかつて朝鮮部落と呼ばれていたからにはあまり人が住みたがらない低湿地であったはずだ。実際、明治40年の地図を見るとここに南北に水路のようなものが描かれている。ではこの水路は池から水を南の方へ抜くためのものであったろうかと思うが、どうも違うらしい。浅草の標高図を見ると意外なことに浅草寺本堂や伝法院、四区、花屋敷の辺りが窪地のようになっている。もともとの浅草寺の境内は、隅田川の自然堤防に遮られた広大な池のようなもので、その中の島に、弁天池の弁天堂がそうであるように、観音堂があったのではなかろうかと推測されるのである。従ってかつてホッピー通りにあったであろう水路は、南から北へ、池へと流れ込んでいたのではないかと思われるのだ。では池の水はいかにして排水されていたのだろう。よくわからない。
浅草寺の観音像は川から取れたものであるという。そして浅草寺自体が水の豊富なところであったから、神輿が船祭りという形で行われたのもわかるような気がする。