南朝断絶

読史余論に

> 後小松譲位の日、義持前盟に背きて称光院を立て参らせしかば南帝憤を含み諸国に兵を挙ぐ。此の時、義持南軍と相和するに此の次の御位には南帝の太子を立て参らすべしと約せしかば兵解けぬ。

後小松天皇が譲位したのは自分の子供に帝位を継がせ、院政を敷くためだっただろう。
1412年。
南朝最後の天皇後亀山には皇子恒教があったが、1410年に吉野に逃げている。
恒教は1422年に死ぬまで抵抗を続けている。

> 其の後十六年にて称光院崩じ給ひ御位を継がるべき御子もなく後小松の上皇にも又御子なし。

称光天皇の崩御は1428年。
後小松院1433年まで生きており、将軍足利義教は後小松院の意向を確認して後花園天皇を即位させる。

> 此の時に於ては義教宜しく南帝の太子を立て申すべき事にあらずや。然らば義満義持の盟約も違はず、南朝の旧臣の憤も散じ、且は兼務以来八十余年が程に戦死せし南朝義士の忠魂冤魄をも慰しつべし。豈忠厚の至にあらざらんや。其れに腹悪しく南帝の統を絶棄参らせし事こそうたてけれ。

うーむ。
後亀山院崩御は1424年。
後亀山院もその皇子も1428年当時すでに死んでおり、
その他の南朝の皇子、つまり、後村上天皇の子孫も、いるんだかいないんだかわからない状態だっただろうと思う。
後小松院もこの時点で死去していたとしても、
では南朝の子孫を即位させましょうということになったかどうか。
で、おそらく南朝の子孫はいただろうが僧籍に入っていたり若かったり有力な後見者がいなかったりで、
事実上不可能だったのではないか。
後花園天皇に皇子(後の後花園天皇)が生まれたのは1442年、
義教が暗殺されたあとのことで、しかも皇子はそれ以外に生まれなかった。
伏見宮家があったから皇統が絶えるという心配はなかったのかもしれんが、
南朝北朝とか言ってる場合ではなかったのではなかろうか。

南朝の子孫は、地方に散らばったり、抵抗したりしなくて、京都辺りで着々と子孫を残しさえすれば、
北朝の子孫が勝手に絶えて、いずれ南朝に皇統が戻ることが十分にありえたのだな。

新井白石が案外南朝に同情的なのには正直驚いた。
現代人にはこういう感覚は欠如していると思う。

後三条天皇

後三条天皇の御製を探しているのだが、なかなか無い。
『新古今集』

> みこの宮と申しける時、太宰大弐[実政](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%9F%E6%94%BF)学士にて侍りける、甲斐守にて下り侍りけるに、餞たまはすとて
> 後三条院御歌
> 思ひ出でて おなじ空とは 月を見よ ほどは雲居に 巡りあふまで

しかし、これは『拾遺集』の歌にあまりに似ている。

> 橘の忠幹が、人のむすめにしのびて物言ひ侍りける頃、遠き所にまかり侍るとて、この女のもとに言ひつかはしける
> 忘るなよ 程は雲ゐに なりぬと も空行く月の めぐり逢ふまで

『伊勢物語』第十一段にも、同様の歌が見える。

> むかし、男、東へ行きけるに、友だちどもに道よりいひおこせける
> 忘るなよ ほどは雲居に なりぬとも 空ゆく月の 巡りあふまで

『読史余論』では、『古事談』に出てくる話として、やはり後三条天皇の御製として

> 忘れずは おなじ空とは 月を見よ ほどは雲井に 巡りあふまで

とある。
思うに、初出は伊勢物語であろう。
意味も一番素直でわかりやすい。
後三条天皇御製はひねってあってやや意味が通りにくい。

『玉葉集』

> 御前に菊をおほく植えさせ給へりけるを、弁乳母申しけるをたまはせざりければ、
> ほしとのみ 見てややみなむ 雲のうへに さきつらなれる 白菊の花
> と申して侍りければ、後三条院
> 色々に うつろふ菊を 雲の上の ほしとはいはで 人のいふらむ

顕季

たづね来ぬ先にも散らで山桜見るをりにしも雪と降るらむ

山高みをのへに咲ける桜花散りなば雲の晴るるとや見む

しぐれつつかつ散る山のもみぢばはいかに吹く夜の嵐なるらむ

やまびこの答へざりせばほととぎす他に鳴く音をいかで聞かまし

さりともと思ふばかりや我が恋ひの命をかくるたのみなるらむ

秋風になびくすすきと知りながらいくたびそこに立ち止まるらむ

秋の夜は人待つとしもなけれども荻の葉風におどろかれつつ

ちとせまで君が摘むべき菊なれば露もあたには置かじとぞ思ふ

風はやみなびく稲葉の葉の上にいかでおくらむ秋の夜の露

霧晴れぬ小野の萩原咲きにけりゆきかふ人の袖にほふまで

散りかかる細谷川に山桜たづぬる人のしるべなりけり

試みにさてもや春はうれしきと花なき年にあふよしもがな

青柳の糸吹き乱る春風もいかに苦しきものとかは知る

雪のうちにつぼみにけりな梅の花散る明け方になりやしぬらむ

としまよりとわたる船のともやかたやかたつれなきいもが心か

心あらばこよひの月をからくにの人もながめてあらざらめやは

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歌論の源流

藤原清輔は藤原俊成より10歳年上であり、
清輔には歌論書『奥義抄』があり、
俊成には『古来風体抄』がある。
清輔は治承元年に死んでいるから、源平の争乱直前までしか知らなかった。
『古来風体抄』が『奥義抄』の影響を受けてなったのは間違いなかろう。
俊成は90歳まで生きており、晩年新古今集勅撰の院宣が下っているのだが、彼は後鳥羽院に自分よりも息子の定家を選者に推薦したのだろうと思われる。

定家や後鳥羽院の歌論が断片的、羅列的で、簡素明快なのに対して、
清輔や俊成の歌論の方が長大で体系的なのは不自然だと思う。
おそらくは、紀貫之の仮名序のような、ごく感覚的な文章や、
いくつかの歌に注釈を付けたようなものの集成があって、
それらは確かにもともと俊成や清輔が書いたのだろうが、
それを核として、多くが後の世に付け足された、と考える方が自然だと思う。
ただ、俊成はそうとうもうろくしていただろうから、老人の繰り言というかな、自分でくだらないことをくどくどと書いた可能性もあるわな。
ちゃんと調べてみないと。

天皇が和歌に深く関与したのは白河院が初めであり、
次には崇徳院が、その次には後鳥羽院が和歌を発展させた。
この時期に歌論が生まれ、さらに歌学へと体系化される下地ができた、と考えられる。
その生成過程は非常に興味深い。

和歌

ふと思えば、一年以上和歌を詠んでない。
いや、『新井白石』の中に出てくる歌は詠んだんだけど。

> ひとりもるしづが千代田の岡におふるまつてふ心君につげばや

千代田の岡というのは明治天皇が好んだフレーズなんだよな、実は。
他にも孝明天皇の和歌を採り入れた箇所もある。
たぶん言わなきゃ誰も気付かないだろうど。

心不全で入院する直前に詠んだ歌なんだよな、[これ](/?p=8071)。
今みると恐ろしい。