鎌倉幕府宮将軍。
鎌倉に和歌を広めたというが、見るべき歌は特になし。
兄弟の亀山天皇の方がまだおもしろい。
> いかにせむ霞める空をあはれとも言はばなべての春のあけぼの
返歌
> いかにせむ家に籠もりて独り酒飲まばなべての初春の頃
> 正月も二日三日にもなりぬれば食ふものもなしすることもなし
> 食べ飽きて飲み飽きぬれば肝を惜しみ今日だに酒は飲まじとぞ思ふ
返歌って便利だな。
自分では絶対思いつかないような歌が詠める。
鎌倉幕府宮将軍。
鎌倉に和歌を広めたというが、見るべき歌は特になし。
兄弟の亀山天皇の方がまだおもしろい。
> いかにせむ霞める空をあはれとも言はばなべての春のあけぼの
返歌
> いかにせむ家に籠もりて独り酒飲まばなべての初春の頃
> 正月も二日三日にもなりぬれば食ふものもなしすることもなし
> 食べ飽きて飲み飽きぬれば肝を惜しみ今日だに酒は飲まじとぞ思ふ
返歌って便利だな。
自分では絶対思いつかないような歌が詠める。
> あさましやうちまどろめば今日もまた暮れぬと鐘の音ぞ聞こゆる
昼間から寝ているのだろうか。
> あぢきなや我は短き心にて山鳥の尾の長き恋をば
長続きしないひとだったのかな。
> 世の中に思ふことなき我が身かなとてもかくてもあるにまかせて
何も考えていないんですか。
> とにかくに思へばものの思はれて思ひ入れねば思ふことなし
くよくよと考えるなということですよね。
> 東路は聞きても遠き旅なれど心のおくは隔てなきかな
> あはれげに知らばや人の言の葉を心の底の幾重ありとも
> ゆくすゑはいかに契るもたのまれずただ目の前に変はる心は
普通に面白い。
> あはれ我が今は老いとや嘆かまし四そぢののちの春もいつたび
まさに今の私の心境。
> いかがせむ心のうちの隔てをば枕かはしてあまた寝つれば
ふーん。
> 住みなるる山の奥なる家居には都ぞ旅のここちなりける
> いまは我野にも山にも住みなれて都ぞ旅の心地なりける
> 訪ね問ふ人はまれなる我が宿にところ嫌はず春ぞ来にける
なんか山荘みたいなものがあるわけね。
なるほど、嵯峨野の離宮亀山殿のことね。
> 植ゑおきし花は昔と匂ひきて宿から近きあらし山かな
> おいらくの後の春とは知らねども今年も花は植ゑ添へてける
> おとづるるたよりもさびし人ならでかけひの水と山のあらしと
> 音に聞くよもぎが島のあととめて亀の小山に我家居せり
> 憂きことを何に手向けむみそぎ河神も許さば夏払へせむ
うーむ。悩みを神様に手向けちゃって良いんですかね。
> 海山の果ても恋路と思ふにはあはれ心をいづちやらまし
> 中々にありとは聞きて逢はぬ夜はいくたび心行き返るらむ
ふーん。
> つゆじもにたへぬ木のはやかつがつもしぐれをまたず色に出でぬらむ
普通は、時雨によって紅葉するがその前に、という意味。
> 夕しぐれそめつる色を残しつつ雲のはやしに秋はかくれぬ
紅葉が雲に隠れることを「雲の林に秋が隠れた」と表現しているところが、
けっこう斬新じゃね。
> 世の中は夢かうつつかあさがほの花のまがきの露のよすがも
> 身に耐へぬ思ひは誰もあるものを沢の蛍のいかに燃ゆらむ
> 山がつの園の垣ほの梅の花春知れとしも植へずやありけむ
山に住む田舎者の庭に梅の花が咲いているが、春を知っているとしても、無骨なので、植えなければ良いのに、
と言う意味か。
> 暁と思はでしもやほととぎすまだなかぞらの月に鳴くらむ
ここでも「しも」を使っているが、明け方と思わないで欲しい、まだ月が中空に残っているのに、
という意味か。
やはり田舎の景色を詠んだものに面白いものがある。
> 難波江の潮干の潟や霞むらむ葦間に遠きあまの漁り火
> 明石潟あまのとまやの煙にもしばしぞくもる秋の夜の月
> 明日もまたおなじ夕べの空や見む憂きにたへたる心ながさは
> 憂しとても身をばいづくにおくの海の鵜のゐる岩も波はかからむ
> 蝉の羽のうすくれなゐの遅ざくら折るとはすれど花もたまらず
> 山川の氷も薄き水のおもにむらむらつもる今朝の初雪
陰々滅々。
面白くなくはないが、なんかこう、どうしてこうなっちゃった感がすごい。
歌謡曲で言えば、五輪真弓や中島みゆきか。
あるいは演歌か。
北朝第一代。なんか思うところあったのかなあ。
まあいろいろ人には恨みは買ってるだろうな。
南朝の歌の影響もあるのかしれん。
> 舟もなく筏も見えぬおほ川にわれ渡りえぬ道ぞ苦しき
> 我が恋よけぶりもせめて立ちななむなびかぬまでも君に見ゆべく
> 今年またはかなく過ぎて秋もたけ変はる草木の色もすさまじ
> 恋しとて返さむとはた思ほえず重ねしまゝの夜の衣を
> さ夜ふくる窓のともしびつくづくとかげも静けし我も静けし
> 沈む日の弱き光は壁に消えて庭すさまじき秋風の暮れ
思いと恨みと契り。
> 我は思ひ人には強ひて厭はるるこれをこの世の契りなれとや
> 浅くしもなぐさむるかなと聞くからに恨みの底ぞなほ深くなる
> それまでは思ひ入れずやと思ふ人の恨むるふしぞさてはうれしき
> 憂きに耐へず恨むればまた人も恨む契りの果てよたゞかくしこそ
> 憂しと捨つる身を思ふにも更になほあはれなりける人に契りよ
寒いんです。
> 起きてみねど霜深からし人の声の寒してふ聞くも寒き朝々
> 寒からし民の藁屋を思ふにはふすまの中の我もはづかし
犬やカラスの声、ツバメなどを歌に詠むのはこのころからか。
> 霜のおくねぐらの梢さむからしそともの森に夜がらすの鳴く
> 月に鳴くやもめがらすは我がごとく独り寝がたみ妻や恋しき
> 夜がらすはたかき梢に鳴きおちて月しづかなる暁の山
> 里の犬のこゑを聞くにも人知れずつゝみし道の夜半ぞ恋しき
> 起きいでぬねやながらきく犬のこゑのゆきにおぼゆる雪のあさあけ
> つばくらめすだれの外にあまたみえて春日のどけみ人影もせず
鐘の音。
> 明かしかぬる時雨のねやのいく寝覚めさすがに鐘の音ぞきこゆる
> 鐘の音に夢は覚めぬる後にしもさらに久しきあかつきの床
> この夜半や更けやしぬらむ霜深き鐘の音して床さえまさる
> 霜にくもるありあけがたの月影にとほちの鐘もこゑしづむ也
> 霜にとほる鐘のひゞきを聞くなへにねざめの枕さえまさるなり
くにたみを思う。
> 正しきを受け伝ふべき跡にしもうたても迷ふ敷島の道
> 祈ることわたくしにてはいはし水にごりゆく世を澄ませとぞ思ふ
> 照りくもり寒き暑きも時として民に心の休む間もなし
> 十年あまり世をたすくべき名はふりて民をしすくふ一事もなし
面白い。
> 野山皆草木もわかず花の咲く雪こそ冬の飾りなりけれ
> わかれましつらからましと聞くもつらし八こゑの鳥の明方のこゑ
> ときは木のその色となき雪の中も松は松なる姿ぞ見ゆる
> 飛ぶ螢ともし火のごと燃ゆれども光を見れば涼しくもあるか
> とほつ空にゆふだつ雲を見るなへにはや此の里も風きほふなり
> 夜を寒み寝ねずてあれば月影のくだれるかべにきりぎりす鳴く
> 夜は寒み嵐の音はせぬにしもかくてや雪の降らむとすらむ
> 夜もすがら雪やと思ふ風の音に霜だに降らぬ今朝の寒けさ
> 年くると世はいそぎたつ今夜しものどかにもののあはれなるかな
> 冬をあさみまだこほらねど風さえてさゞ波寒き池の面かな
> 濡れて落つる桐の枯れ葉は音重み嵐はかろき秋のむらさめ
桐の葉は大きいので枯れ葉の落ちる音が重いが秋の嵐は軽いというのが面白いよなあ。
> 夕暮れの春風ゆるみしだりそむる柳がすゑは動くともなし
この自然観察はすばらしいなあ。
めでたいという人が多いので、敢えて言っておくが、
別に何もめでたくはない。
かもめがとんだ日
かもめはかもめ
> 雲沈む谷の軒ばの雨の暮れ聞きなれぬ鳥のこゑも寂しき(進子内親王)
少し面白い。
まあ、昔はちょっと市街地を離れればもう深山幽谷みたいなもんだったろうから、
寂しいよねぇ。
> 霜寒き難波の葦の冬枯れに風もたまらぬ小屋の八重葺き (伏見天皇)
伏見天皇は歴代天皇の中でも自分的には御製がつまらないベスト1くらいです。
歌は多くて何か風景を詠んでいるらしいけどどれもこれもなんか夢想の中にいるようで。
もしかして実際の景色を写生するのでなくて、
古典を引用しつつ空想の世界を詠むのが高級だとかそんな時代だったのかな。
それはそうと上の「霜寒き難波の葦の冬枯れに風もたまらぬ小屋の八重葺き」
だが珍しく自然描写が迫真のリアリティというか、なんでまたこんな寒そうな歌を詠んだのだろうか。
ていうか、伏見天皇はいろいろ旅行でもしたらさぞかし面白い歌を詠んだのではなかろうか、
などと考えてしまう。
> 冬の日ははや暮れはててサッシより夜風吹き込む小屋の立ち飲み
ちょっと寒そうな歌を詠んでみた。
亀山天皇は生きているうちに「法皇」と呼ばれていたらしい。
新後撰和歌集によれば「太上天皇」が後宇多天皇、「院」が伏見天皇、「法皇」が亀山天皇となっている。
しかし実際には、この三人の院はどう区別されていたのだろうか。
> 鶴がをかの神のおしへしよろいこそ家のゆみやのまもりなりけれ
おそらくこれは後世の偽作だろう。
あまりに武張っている。
金槐和歌集に収められた歌とはあまりにも違いすぎる。
金槐和歌集は実朝の私家集、おそらく成立は、実朝が定家に献じて定家が編纂したか。
これに漏れている歌は偽作である可能性がかなり高い。
> 出でていなば主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春を忘るな
これも金塊にない。
こんな暗殺を預言するような予定調和な歌を実朝が自ら詠むとは思えない。
似たような歌ならあるのだが(浅茅原主無き宿の庭のおもにあはれ幾夜の月かすみけむ、
藤袴着て脱ぎかけし主や誰問へど答へず野辺の秋風)。
ていうか菅原道真の歌に似すぎている。出来過ぎ。
> 東路の関守る神の手向とて杉に矢たつる足柄の山
これは、実朝の歌として鶴ヶ丘八幡宮に伝わるものだと言うが、
金塊になく、やはりやや武張っている。
足柄山は、実朝がときどき二所詣した伊豆や箱根からは、かなり離れていて、
そもそも当時足柄山に関所があって関守が居たのかどうか、
そこをわざわざ実朝が実地に視察したかどうか、
かなりあやしい。
> もののふの矢並つくろふ籠手のうへに霰たばしる那須の篠原
> 宮柱ふとしきたててよろづよに今ぞ栄えむ鎌倉の里
これらは金塊になく実朝歌拾遺というものにあるらしい。
まず、「那須の篠原」だが、
頼朝が何度か那須野で狩をしたという記録が吾妻鏡にあるが、実朝が行った記録はないはず。
ていうか、武士の歌として、かっこ良すぎるんだよね。
弓矢とか籠手とかもののふとか鎧などといったいかにも武家を連想させる歌は、
もしかすると全部偽作なのかもしれん。
この種の歌があと五つや六つ、金塊集の中に確かにあればまだわからんでもないが、
金塊集には皆無
(「もののふの」「あづさゆみ」など万葉時代から使われる枕詞としてならばいくつかある)。
金塊和歌集をざっと読んでみるとわかるが、明らかに他の歌の中から浮いている。
はっきり言って、とてもよく出来た偽作、というところだろう。
「宮柱ふとしきたてて」だが、これも勇ましすぎる。神道的過ぎると言ってもよい。
まあ、偽作だろうな。
[追記](/?p=2082)参照。
天才歌人にして、若くして暗殺された悲劇の将軍、源氏の最後の嫡子、
となると、後世の人がいろいろな自分のイメージを投影したがるのだと思う。
良くできた歌、大したことのない歌などが、そのイメージを補完するために、
つぎつぎに実朝の歌として作られていったのだろう。
あるいは、実朝自身の歌にも後付けの伝説や解釈が加えられていった。
偶像の完成。
あたかも仏陀入滅後にも大量の仏典が作られ続けたように。
八幡太郎義家や鎮西八郎為朝が伝説化したように。
義経の戦績が誇張されたように。
そして現在進行しつつあるガンダムシリーズのように。
> とびかける八幡の山の山ばとの鳴くなるこゑは宮もとどろに
斉藤茂吉「実朝の歌七十首講」というものにあるそうだが、
「山鳩」の声が「宮もとどろに」という辺りがどうも現実離れしている。
斎藤茂吉の時代までは、真作と偽作の考証がそれほど厳密でなかったのではないか。
なので、勇ましい武士的な実朝像と、女々しい実朝像があい矛盾する感じで混じり合っていたのではないか。
実朝については太宰治、小林秀雄、吉本隆明らも評論を書いていると言う。
ふーん。
実朝が海を詠んだ歌は多いが、
だいたいは難波潟がどうのこうのと、
古典文学の影響を受けて詠んだものが多い。
鎌倉や伊豆の景色を詠んだものはオリジナリティが極めて高く、
実に大胆だ。
鎌倉や伊豆が歴史の舞台に現れたのは頼朝以来で当時としては極めて新しく、
すべて一から創作しなくてはならなかっただろう。
これに対して箱根の歌は万葉集からあったから、割と参考にしやすかっただろう。
実朝は鎌倉生まれの鎌倉育ち、おそらく鎌倉伊豆箱根くらいしか行動範囲はない。
ほとんど鎌倉幕府によって監禁されていたようなもので、
古今集や万葉集などの空想の世界に遊んでいたものと思われる。
1209年に初めて定家に自作を批評してもらい、
1213年に定家から万葉集をもらっている。
1219年正月には暗殺されているのだが、
実朝の歌には万葉集の影響が極めて強くまたその歌の数もおびただしい。
何百とある。1、2年で詠める分量ではない。
定家に万葉集をもらう前は断片的にしか万葉集の歌は知らなかっただろう。
となると、金槐和歌集に採録されている多くの歌は、
1213年から1218年の間にかなり長期間かけて詠まれたと解釈するのが自然ではなかろうか。
なぜwikipediaには1213年にすでに成立したなどと書かれているのだろう。
吾妻鏡によれば実朝は二所詣に1212年年初、1213年年初、1214年年初と九月、
1215年二月、
1216年冬、1217年冬、1218年二月に行ったらしい。
つまり毎年、主に年明けに行っている。
> 二所詣下向にはまべの宿の前に前川と言ふ川あり。
雨降りて水まさりにしかば日暮れて渡り侍りし時よめる:
> はまべなる前の川瀬をゆく水のはやくも今日の暮れにけるかな
> 二所詣下向後朝に侍ども見えざりしかば:
> 旅を行きしあとの宿守をのをのにわたくしあれや今朝は未だ来ぬ
> 又のとし二所へまいりたりし時、箱根のみうみを見てよみ侍る哥:
> たまくしげはこねのみうみけゝれあれやふた国かけて中にたゆたふ
> 二所へまうでたりし下向に春雨いたく降れりしかばよめる:
> はるさめはいたくなふりそ旅人のみちゆき衣ぬれもこそすれ
> 春さめにうちそぼちつゝあしびきの山ぢゆくらむやま人やだれ
> 二所詣し侍し時:
> ちはやぶる伊豆のお山の玉椿やをよろづ世も色はかはらじ
玉椿というのは、やはり、伊豆に自生するという、
天然のヤブツバキであろうか。
> 山は裂け海はあせなむ世なりとも君にふたごころわがあらめやも
これは金塊和歌集の定家版の最後に掲載された、
れっきとした実作。
新勅撰集にもある。
ということは定家もそうとう気に入った歌ということ。
もしかするとかなり後期の作で、
実朝の自薦集成立後、あるいは死後に定家によって追加されたのかもしれない。
「君」とは後鳥羽上皇を差すらしい。
定家は後鳥羽上皇にとっては実朝との良いパイプ役だったに違いない。
> 箱根路を我越え来れば伊豆の海や沖の小島に浪の寄る見ゆ
> たまくしげ箱根の山のほととぎすむかふの里に朝な朝な啼く
> たまくしげ箱根の湖心あれや二国かけて中にたゆたふ (たまくしげはこねのみうみけけれあれやふたくにかけてなかにたゆたふ)
> ちはやぶる伊豆の小山の玉椿やほよろづ世も色は変はらじ
> 足柄の箱根飛び越え行くたづのともしき見ればやまとしおもほゆ 萬葉集
> たまくしげはこねのやまをいそげどもなほ明けがたき横雲の空 十六夜日記
> ゆかしさよそなたの雲をそばたてゝてよそになしぬる足柄の山 十六夜日記