玉勝間

玉勝間を読んでいるのだが、
これはまあごくふつうの随筆、短文集。

「酒を酌みて飲む」とは唐国のしわざであって皇国にはいにしへも今もない、
古くは歌にも文にも「酒を酌む」とは言わなかった、と。ただ単に「酒を飲む」と言うべきだと書いてある。
まあ、それはそうかもしれんが。
たまには「酒を酌む」と言いたくなることもある。

堀川院百首にあるという歌

> あしがらの山の峠にけふきてぞふじの高根のほどは知らるる

まったく足柄峠から金時山に至る尾根道をたどると御殿場あたりの裾野の奥に、広々と富士山がよく見える。
箱根、芦ノ湖あたりは駒ヶ岳などがじゃまをしてあまり見えないのだ。

敷島のやまとごころ、の謎

岩波古語辞典を見ると、「やまとだましひ」「やまとごころ」の意味として 「(漢詩文の能力に対する)実務処理能力」のことと書いてある。敢えて意訳するとそうなるわけだが、今で言えば、いわば、学校で習う語学や数学などの学問としての知的能力に対して、学校では教わらないが、世の中をわたっていくうえで必要な、人が人としてそなわっているべき基礎的能力のことを言うわけだ。学習で獲得するリテラシー能力に対して、リテラシー以前の能力と言うべきか。「腹芸」とか「胆力」とか「人の器」とか「対人交渉力」とか「地頭(じあたま)」などと言うようなものに近い。それを具体的に「実務処理能力」と言えばそうなる。儒教で「仁」とか「徳」というのがそれだろう。それがかつては舶来のもの(漢才)と日本古来のもの(倭心)という対比でとらえられていたところがややこしいが、近代でも和魂洋才などと言ったわけでそれと同じとも言える。宣長の

敷島の やまとごころを 人とはば 朝日に匂ふ 山桜花

だが、宣長は近世において大和心を上記の意味で正確に理解した(というより発見した)最初の人だが、
この歌はそういう意味ではかなり謎だ。誤解に満ちている。なにしろ幕末の時代にすでに宣長のイメージはかなりゆがんでしまっている。

敷島の やまとごころを 人とはば 蒙古の使ひ 斬りし時宗

という替え歌まで出来ているくらいだから。戦後はなおさら戦時中のフィルターを通してしか宣長は見えない。そのフィルターを通すと、上の歌は「日本精神」とは「桜花」だとしか解釈できないが、そういう解釈は、宣長を知れば知るほど不可解だ。

ある人は、宣長は里桜よりも山桜が好きで、野性的で潔く清楚な桜が好きで、それが大和心に通じるのだと、解釈したがるだろうが、そういう人はイメージで、ステレオタイプで、自分を投影して宣長を解釈しているだけで、宣長って人は全然そんな人ではない。山桜の特徴は、山野に自生している野生種だということ。花の色はほとんど白く、花と芽が同時に出る。しかしそういう山桜の特徴が特に好きだと宣長が言っている歌はない。たぶん一つもないと思う。逆に葉桜が嫌いだとか花が散った後の葉だけになった桜が嫌いだとか、葉桜を見ると花の時期が待たれるとか、花が散って葉ばかりになるのが憎らしいとか、そんな歌ならいくらでもある。

散るべきときに清く散り御国に薫れ桜花

と歌う『戦陣訓』という軍歌があるが、宣長は散るべきときに清く散れなどとは一言も言ってない。まして特攻機に「桜花」などという名前をつけようという発想も絶対ない。

桜は咲いてすぐ散るので、武士道のように未練がなくて良いなどというのも、少なくとも宣長の趣味ではない。宣長は、一年中咲いている桜があれば常世の国にでも行って種を取ってきたい、などと言っている。

花咲きて 散らぬさくらの 種しあらば とこよの国も 行きてもとめむ

たづね見む 死なぬくすりの ありと聞く 島には散らぬ 花もあるやと

つまり、宣長にとって桜は咲いていることが一番重要であり、それが日本の山野に自生している必要など全くなく、外国産の種を栽培して育ててもよいとすら言っている。潔く散るすがたもあっぱれだなどと言ったことは無い。たぶん一度もない。

宣長は、桜は、日本にしか咲かないと思っている。それはある意味真実で、日本以外の野生種は日本の桜とはかなり異なっているし、さほど多くも見られず、さらに山桜と言っているものもおそらくは栽培によって人為的に繁殖しまた改良したものであり、さらには日本固有の野生種から派生した数多くの里桜があり、このような現象は決して日本以外ではあり得なかったのであり、また桜に対する熱狂も日本にしかない。宣長が桜を好むというのもおそらくはその辺りにあるのかと思う。宣長はつまり江戸時代の桜好みの日本人のやや人なみ外れた典型であり、宣長がいようがいまいが江戸時代までにすでに日本人は桜が大好きで、それは日本人が和歌などの公家文化を好んだこととだいたい同じようなことだっただろうと思う。

「敷島のやまとごころ」と言っているところがやはりヒントであり、これはつまり「やまとうたを詠む心」と解釈すべきで、宣長は桜とともに和歌が大好きで、従って敢えて意訳すれば「敷島の道の心を人に問われたら、私にとってそれはたとえば、朝日に匂う山桜花を詠むことだ、と答える」と解釈すべきではなかろうか。いや、すなおに解釈すればこうとしかとりようがない。これが自画像に対して自ら冠したタイトルだと考えれば、「「敷島のやまとごころ」を問われれば「朝日に匂ふ山桜花」だねと答える私」と解釈すべきで、するともっと具体的に「歌と桜を愛する私」と超訳してもよい。これこそまさに宣長という人を一言で言い表した言葉だと言える。宣長が大好きで、人にも繰り返し勧めた「桜の花」と「大和心」と「敷島の道」がこの歌には同時にこめられていると考えたい。あるいは、歌から離れたとしても、「日本人固有の心とは、桜をめでることだ」とでもなろうか。

そもそも、「大和心」が「桜花」だというような禅問答的な返答を宣長がするわけがない。宣長にとって「大和心」は儒学や仏教などと離れた日本固有のものの考え方とらえ方処し方のこと、「桜花」とは宣長にとってはこよなくいとしいもの、めでるものであり、ときとしては「心なく散る」ものであり、自分の意思ではどうにもできないものである。「桜花」に人間同様の「心」があるなどという思想が宣長から(或いは伝統的公家文化から、といっても良い)出てくるとはちと考えにくい。「心あらば」「心あれや」などとは言うかもしれんが。さらに「敷島の大和心」を「和歌を嗜む心」ととれば、もはや上記の解釈以外にはありえない。思うに「敷島」を単なる枕詞として使っていた古代はともかくとして、南北朝以後、江戸時代ともなると歌に詠み込まれた「敷島」はずばり「敷島の道」「歌道」を指していると言って良いと思う。そういう用例がほとんどだ。

そして傍証として、宣長には、圧倒的な数の桜の詠歌がある。あわせて「うひやまぶみ」を見よ。きっとそう確信できる。また、この歌は、宣長の自画像に付けた歌、しかも自画像にしか書かれなかった歌である。だから、「私という人間は」「あなたがどう思うか知らないが、私は・・・」という言外の意味があると思う。私はそういう趣味の人間なのですよ、と少しはにかみながら告白している歌なんだよ。ちょうど漫画に吹き出しを付けるようにね。

小林秀雄も宣長の自画像は自分を聖人化するための宗教画のような意味で描いたものでは決してないと言っている (後世の国学者や神道家ならともかく)。逆に、自分とはこういう人間なんですよと告白している気持ちで書いたものだと思う。宣長という人は、いろんな人が自分の思想を補強するのに使いたがる、そのため勝手に拡大解釈され、結局意味を欠落させた普遍化された聖人としての像だけが利用されるが、その実体は純朴で等身大の学者なのだ。

しづのをだまき

新古今恋五辺りを読んでいると、

忍びて語らひける女の親、聞きていさめ侍りければ 参議篁(小野篁)

数ならば かからましやは 世の中に いとかなしきは しづのをだまき

あるいは

藤原惟成

人ならば 思ふ心を いひてまし よしやさこそは しづのをだまき

などと出てくるので、ここでは「しづのをだまき」は単に「賤の男(しづのを)」として使われているように見える。身分が低いので相手の親に諫められたとか、告白できなかったとか。

伊勢物語32段

むかし、物いひける女に、年ごろありて、

いにしへの しづのをだまき 繰りかへし 昔を今に なすよしもがな

といへりけれど、何とも思はずやありけん。

ここでは「倭文の苧環」という意味で、「いにしへのしづのをだまき」までがひとつながりの意味になっていて、しづは唐衣に使われる漢綾に対する昔ながらの麻などで織られた大和綾というもの。なので「いにしへのしづ」となる。古くは濁らず「しつ」「しつおり」「しつり」などと言ったらしい。「をだまき」は「緒手巻」か「麻手巻」か。紡いだ麻の糸を巻いたもので、糸から綾を編むときに使う。
機織りの動作から「くりかへし」となった。ましかし、「いにしへのしづのを」というのがつまり「昔おまえとつきあってたこの身分の低い男がよぉ」というへりくだった意味も含むのだろう。となるとかなり滑稽な雰囲気の歌となる。

古今集雑題しらずよみひとしらずに

いにしへの しづのをだまき いやしきも よきもさかりは ありしものなり

という歌があり、おそらくはこれが「しづのをだまき」いちばん古い形で、 やはりこれも「賤の男」にかけた意味に使われている。「いやしき」も「よき」もという辺りがわかりやすい。

千載集、源師時

恋をのみ しつのをたまき くるしきは あはで年ふる 思ひなりけり

ここでは「恋をのみしつ」と「賤の男」と二つの意味に使われている。

新古今、式子内親王

それながら 昔にもあらぬ 秋風に いとどながめを しつのをだまき

ここでは「ながめをしつ」と「しづのをだまき」に「くりかへし」を連想させて、昔ながらのようでそうでもない秋風にいつまでも長々とながめをしてしまった、の意味か。女が詠んだ歌としては初出か?それに式子は決して賤しい身分ではない。ちょっと不思議だ。どうしても「しづのをだまき」を詠んでみたくなったのかな。ここから静御前の歌が生まれてきたか。

もっとあるがだいたいこのくらいで全パターン網羅か。

五月やみ

岩波古語辞典には「さみだれが降って暗い空」のことだとあるが、
思うに、ちょうど夏至の一番夜が短い頃の夜を言うのではあるまいか。
夜が短いのでほととぎすが鳴く時間も少ないとか。
寝覚めしたりうたたねしたりするとあっという間に朝になってしまうとか。
そういう意味ではないか。

> さつきやみみじかき夜半のうたたねに花橘のそでに涼しき

> さつきやみ倉橋山のほととぎすおぼつかなくも鳴きわたるかな

> さつきやみ子恋ひの森のほととぎす人知れずのみ鳴きわたるかな

伊豆山神社の杜にはいまもほととぎすが鳴いているのだろうか。

春の良き日に

ホワイトデーとて

> あな憂しやもらへどかへすものもなし家にこもりてけふは過ぐべき

なんとなく。

> 飲めや酒憂さを忘れむ浮かれ世の春は楽しきことのみならず

海鮮バーベキューの店で。

> かぶと焼きまぐろの目玉くじりつつ生ける我が身のはかなさを思ふ

> わたつみのいそのあはびのあぶり焼き魂は消えにき身もだえもせず

または

> 活きあはび身はこがれつつもだえして魂の緒絶えてバターを乗せつ

ひどい歌だなこりゃ。
春の晴れし日に客の来るとて家を出れば

> 雲もなき春のひよりにあてどなくひとり歩けどゐどころもなし

> 春されば出でて遊べどあてもなしさりとて家居すべきにもあらず

> あぢきなし春のやすみに昼間から酒を飲むとて店も少なし

> あてどなくしこのしづをのうろつけばそのふの母子あやしとや見む

述懐

> 夢に見てうれしと思ふはかなさよ今ひとたびの会ふこともなし

> 夢にだに見ばやと思ふ荒小田をかへすがへすも頼むこころは

> 今さらに思ひ出づるも憂かりけりおぼろに残る名もおもかげも

新葉和歌集

新葉和歌集は准勅撰とあるが、序を読んでみると、

> そもそもかくてえらびあつむる事も、ただこころのうちのわづかなることわざなれば、あめのしたひろきもてあそびものとならむ事は、
おもひもよるべきにもあらぬを、はからざるに、いま勅撰になぞらふべきよしみことのりをかうむりて、老いのさいはひのぞみにこえ、
よろこびのなみだ、袂にあまれり。

とあるように、はじめは宗良親王の私撰集のようなものだったのが、
長慶天皇の意図によって「准勅撰」と位置づけられたことがわかる。

選者である宗良親王は後村上天皇の兄にあたるが、「後村上院」と追号で呼ばれているように、
宗良親王より先に死去している。
当時の天皇は長慶天皇で後村上天皇の子、総覧時1381年には38才でもちろん存命中。
後村上天皇の歌がちょうど100首で形式的には最多。
しかし、宗良親王の歌が99首と、詠み人知らず64首もまた実際は宗良親王の歌なので、
合わせると163首と圧倒的に多くなる。
選者自身の歌が多すぎるし、しかも一番多いというのは勅撰集としてははなはだ不都合であるし、
また採られた人の絶対数が少なく偏りすぎている。
南朝方の人材がどうしても少なかったからだろうし、
かと言って古歌を多く採用して勅撰集の体裁をなんとしてもとろうとはしなかった、
そこでみずから「准」と断ったということだろう。
また後村上天皇の歌の数がきりの良い百首なことから、
自選百首とか秀歌百首とかそんなようなものがあった可能性もあるわな。

編纂の勅命を出した長慶天皇の歌は52首であり、これもわりと多い。
後村上天皇の先代、南朝最初の後醍醐天皇は46首でやはり多い。
新田義貞と南朝軍として転戦した宗良親王の兄・尊良親王は44首、
後村上天皇の生母である新待賢門院は20首、
長慶天皇の生母である嘉喜門院は17首、
そのほか、北畠親房は中院入道一品として27首採られている。

岩波文庫版の岩佐正校注「新葉和歌集」の解題で、
後村上天皇も「(二条)為正に師事し給うた」とあるが、
二条為正が後醍醐天皇に近侍していたのは、隠岐に流される前までのことで、
となると1331年以前ということになり、
1328年生まれの後村上天皇が為正に師事したというのはほぼあり得ないのではないか。
1339年11才の時に譲位されるまで、宗良親王や北畠親房らと奥州などを転戦しており、
この時期までに和歌を学び詠んだとはとても思えない。
二条為忠(1136年没の藤原為忠という人がいて紛らわしい)という人が、
1351年から1359年まで南朝に出仕しており、新葉集にも42首採られている。
後村上天皇20代半ばの頃なので、もしかすると為忠から歌を学んだのかもしれない。
後村上天皇が盛んに歌を詠んだのもちょうどこの頃にあたるようだ。
[千人万首](http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/gomurakami.html)によれば、
後村上天皇が為正に歌を贈ったりしているので、
後村上天皇は為正に師事した、などと言われているのかもしれん。
しかし、それではかなり不自然だ。
定家と実朝の師弟関係のようなものも否定はできないが。

為定と為忠は同じく為世の孫で、いとこどうしにあたる。
為正によって為忠は南朝に一時的に派遣されたのかもしれないし、
もしかすると北朝と南朝の間の交渉役だったのかもしれんが、ほんとのことはわからない。

新葉集には「後村上院」とあるが、後村上天皇が長慶天皇に譲位して上皇になったという記録はないようだ。
そもそも明治になっても長慶天皇が即位したかどうかというのは謎だったようである。
ともかくもよくわからないことが多いのだが、
しかし新葉集で「後村上院」と呼ばれていることを尊重するとして、
後村上天皇は1368年に死去しており、
その当時長慶天皇は25才だったから、
それよりもう少々前に譲位されてたということもあり得るだろう。
しかしそんな記録もまったく残ってないようだ。

尊良親王:

> 鳥のねのおどろかさずば夜とともに思ふさまなる夢もみてまし

後村上天皇:

> とりのねにおどろかされて暁の寝覚めしづかに世を思ふかな

> 忘ればや忍ぶも苦しかずかずに思ひ出でてもかへりこぬ世を

> 聞くたびにおどろかされてねぬる夜の夢をはかなみふる時雨かな

> 山人の跡さへ見えずなりにけり木の葉ふりしく谷の下道

> 花に見し野辺の千種は霜おきておなじ枯れ葉となりにけらしも

長慶天皇:

> いかにせむ時雨てわたる冬の日のみじかきこころくもりやすさを

> なにとかく濁り行く世ぞ石清水人の国とは神も思はじ

後村上天皇、おなじ心を:

> 神もまたあはれと思へ石清水木がくれてわがすめる心を

後醍醐天皇:

> かきながすわがたまづさの言の葉にあらそふものは涙なりけり

言葉を書き流しつつ涙も流している、という意味だわな。

北畠親房:

> いかにせむさらでもかすむ月かげの老いの涙の袖にくもらば

> 咲きそむる花に知らせじ世の中の人の心のうつりやすさを

良い歌だな。

> を山田の苗代水のひきひきに人の心のにごる世ぞ憂し

> 忘れずばいざ語らはむほととぎす雲井になれし代々のむかしを

> 山深く結ぶ庵も荒れぬべし身のうきよりは世を嘆くまに

右近大将長親母(誰?):

> 数ならぬ身をおく山の埋もれ水すむもすまぬも知る人ぞなき

よみひとしらず

> かひなしな人にしられぬ塵の身の山としたかくつもるよはひは

宗良親王:

> あづまのかたに、ひさしく侍りて、ひたすらもののふの道にのみたづさはりつつ、征東将軍の宣旨など下されしも、
おもひのほかなるやうにおぼえて、よみ侍りし

> 思ひきや手もふれざりし梓弓起き伏しわが身慣れむものとは

> おなじ頃、武蔵国へうちこえて、小手指原といふ所におりゐて、手分などし侍りし時、いさみあるべきよしつはものどもに、
めし仰せ侍りしついでに、思ひつづけ侍りし

> 君のため世のためなにか惜しからむ捨ててかひある命なりせば

新宣陽門院:

> あらましのこころのままにみる夢の覚めてかはらぬうつつともがな

これは良い歌。

新待賢門院:

> みよし野は見しにもあらず荒れにけりあだなる花はなほ残れども

定家ジェネレータ

五つの句のうち、初句と二句は華やかな描写、三句は否定(かげもなし、色もなし、なかりけり、etc)、四句五句は侘びしい描写。
特に五句目は「秋の夕暮れ」「雪の夕暮れ」「横雲の空」などとすれば良い。
これ名付けて「定家ジェネレータ」。
自動的にぽこぽこ定家風の歌が詠める。
たとえば

> キャバクラでシャンパンタワーのかげもなし場末酒場の雪の夕暮れ

あるいは

> ドンペリに葉巻くゆらす色もなし木賃宿の春の夜の月

あるいは

> 美しき秘書のすがたもなかりけり個人会社の横雲のそら

など。
ほらぁ。定家っぽい。
基本は、持ち上げて落とす、です。

思うに。
俳句というやつは、和歌より短い。
必ず季語を入れなくてはならない。
季語は名詞。
かつ、助動詞よりは助詞が使用されやすく、
結局は名詞と助詞、あとはちょこっと動詞だけでできてることが多い。
「荒海や佐渡によこたふ天の川」「古池やかはづ飛び込む水の音」など。
それにくらべると、和歌は長く、
助動詞などを複雑に組み合わせて完全な構造のある文章を作らなくてはならない。
名詞をぽこぽこ並べても和歌らしくならない。
助動詞と助詞を複雑に長く組み合わせる、しかも古典文法に則って、雅語だけをつかってそれをやるというのはやはり難しく、
逆に俳句は文法的にはかなり楽。
現代語や口語や俗語を入れてもあまり違和感無い。
だからこそ季語を入れるなどの定型を余計に必要とするのだろうと思う。

和歌は長い分、いろんな技巧、文芸的なありとあらゆる技巧を取り入れやすい。
枕詞や序詞もある意味そうだが、
本歌取りとか返歌というのはつまり原作へのオマージュなわけだが(笑)、
俳句ではそもそもオマージュなどかましているほどの文字数の余裕がない。
本歌取りとわかるほど本歌取りしたら元の句とほとんど同じになってしまう。
オマージュが作品に重層したイメージを与えてくれる。
また、五句あれば倒置・反語・リフレイン・押韻などの技巧を駆使できる。
否定を初句に入れるか最後に入れるかで雰囲気も変わってくる。
或いは二重否定とか。
定家のようなダダ風な不協和なコラージュとか。
ほぼなんでもできる。
構造も上の句下の句をほぼ分離させることもできるし、全体を囲むような構造にもできる。
ボレロのようにだんだん盛り上がるようにもできる。
「逝く秋の大和の国の薬師寺の塔の上なるひとひらの雲」とか「くれなゐの二尺のびたるばらの芽の針やはらかに春雨の降る」とか、
徐々に視線を移しつつもりあげてるわな。ま、近代短歌なのであまり好きではないが。

そういう技巧を駆使できる最短の詩形が和歌であり、さらにそれらを一切捨ててより短くしたのが俳句。
俳句はだから文法的技巧的には極めてシンプル。
一瞬を切り取った写真的な作品になりがちだよな。

で、和歌というのは過去の作品へのオマージュでできているところが大きい。
だんだんそう思えてきた。
過去の遺産を引き継ぎ再利用し重層化していく形態なんだよな。
早くは貫之がそれをやり、後に定家が流行らせた。
新古今ってやつ。

ほら試験問題にも暗記物と考える問題がある。
オマージュってのは暗記物なんだよな。
ていうか単なる暗記物というか考える問題と組み合わせた応用問題というか。

和歌の定型は過去の作品を参照しやすいようにモジュール化されてる。
基本的に文字数そろってるから、本歌取りしやすい。
どんくらい切り出すかとかどのくらい改変するか、どこに配置するか、いくつ組み合わせるかなどの自由度も大きい。
しかしそれは俳句には無理。
短すぎるから。
和歌にはその長さがある。
となった場合に、過去の資産を完全に引き継ぐにはやはり古典文法に則った古語を使うのが便利なわけよ。
今の口語をベースに過去作品をオマージュしても簡単にはつながんないべ。
ぴったりシームレスにつなげるには平安王朝辺りの古典文法をベースにするのが一番しっくりくる。
そこに多少のアレンジはあって良い。
実朝の万葉調が決まったのも、そこにあると思う。

ところで岩波文庫の新葉和歌集の解題を読んでいたら、後村上天皇を評して

> 情緒の世界に生き、時代の実相に対してともすれば目を閉ぢた二条派の歌人と䡄を同じうする平坦な格調の低い一般的な歌も多い。

などと書いてあり、ひどい言われよう。戦前も二条派の評価がめちゃくちゃ低いらしいことがわかる。
後村上天皇の歌は面白いのが多いのになあ。
まったく評価されてないんだな。
料理にもアピタイザーとメインディッシュがあるように、
二条派風にさらっと詠んだアピタイザーと、
こってり練りにねったメインディッシュがあって良い訳よ。
もしメインディッシュだらけだとくどいだろ。
そうは思わんのかなあ。
私はあの勅撰集に採られた圧倒的に退屈な歌群はそういう前菜的つなぎ的に使われているのだと思うよ。
なんちゅうか、時代の実相に目を見開いてどろどろの現実をそのままキャンバスに塗ったくったような歌が良いとでも言うのだろうか。
プロレタリア文学だな。

後村上天皇御製:

> かつ消えて庭には跡もなかりけり空にみだるる春のあは雪

ほらあ。なかなか良い雰囲気でしょ。
「かつ消え」という辺りが伊東静雄の「春の雪」の

> なく声のけさはきこえず / まなこ閉じ百ゐむ鳥の / しづかなるはねにかつ消え

を思わせる。
まさに「心象風景」だわな。
ここで「かつ」というのは「積もると同時に消えて」とか「地面に落ちるとすぐに消えて」という意味だな。

> おのづから長き日影もくれ竹のねぐらにうつるうぐひすの声

自然と長くなっていく春の日影もとうとう暮れて(「暮れ」と「呉竹」がかけてある)、鴬が竹藪に帰って行くと。
やはり鴬は竹藪に居るものだよな。
さらっと詠んだ良い歌だよな。

述懐

> ひととせか三とせばかりも世を捨てていづこともなくさすらはまほし

> はるあきは住みこそ憂けれなりはひのことしげきのみうれしくもなし

> もしわれに死ぬまで足れる金あらば明日よりつとめやめましものを

> わがつとめおこたらむとは思はねどしづのをだまき飽きもこそすれ

> のがればやしづのをだまきくりかへし昔も今も同じなりはひ

酒の次は仕事の愚痴か。
中年親父臭きつすぎではあるな。
しかし現代日本に中年親父の歌詠みが居ないのは不自然だし、
といって別に自分がなる必然性もないが、
積極的に先駆けとなるという道もあるわな。

しかし上のやつの最後のは「しづのをだまきくりかへし昔」までが本歌取り(笑)。取り過ぎ。
しかも結構決まってる。
鶴岡八幡宮で頼朝政子の前で、義経を慕って静御前が舞をまってるイメージがオーバーラップして良い感じだろ。
下の句は契沖の「難波がた霧間の小船こぎかへり今日も昨日も同じ夕暮」という本歌があってだな。
あまり本歌らしくないが。
真ん中のやつは「もし我に死ぬまで足れる富しあらば」でも良いか。
そっちの方がやや風流か。
「ましものを」を[和歌語句検索](http://tois.nichibun.ac.jp/database/html/waka/waka_kigo_search.html)したら339件もあったすごい。
いやしかし便利だわこのサービス。

宣長に返す

> 花を見て憂き世忘るる人もあれど我はただ憂しこころせかれて

高杉晋作に返す

> おもしろきこともなき世はいかさまに暮らせどやはりおもしろからず

五月病の事を

> さつきには心わづらふ人もあれどわれはやよひの今こそ憂けれ

> 春を待つ浮かれをのことならまほしつとめの重荷みな片付けて

今日は冴えてるな。

> 春の日ものどけかるらむ年老いてうなゐ心に戻りてのちは

> いとけなきころは来る春来る夏も秋冬もみな楽しかりけり

草庵集玉箒

宣長による頓阿の歌の解説。

山深く わくればいとど 風さえて いづくも花の 遅き春かな

歌の意は、まず奥山ほど寒さの強き故に、花の咲くこといよいよ遅きが実の理なり。しかるを作者の心は、その道理を知らぬものになりて、里にこそまだ咲かずとも、山の奥には早く咲きそめたる花もあらむかと思ひて、山深くたづねつつ、分け入れば入るほど余寒強く、いよいよ風さえて、まだ花の咲くべきけしきも見えぬ故に、さては里のみならず、山の奥までいづくもいづくも花の遅き春とかなと思へるなり。「春かな」ととどまりたるところ、花を待ちかねたる心深し。

丁寧な解釈。

一木まづ 咲きそめしより なべて世の 人の心ぞ 花になりゆく

一首の心は、かつかづただ一木まず咲きそむれば、いまだなべての桜の梢は花にならざるさきに、はや世の人の心がまず花になりゆくといふ趣旨なり。「心ぞ」の「ぞ」をよく見るべし。「心の花になる」とは、花のことのみを思ふなり。

宣長の桜の歌によく似ている。

おのづから 散るはいづれの こずゑとも 知られぬ宿の 花ざかりかな

まだどのこずえも自然と散るようすも見えない、満開の宿の花盛り、という意味。

つれもなく けふまで人の とはぬかな 年にまれなる 花のさかりを