土日浅草は日本人だけでなく外国人もなぜか多くて、旅行中の外国人なら平日にくりゃいいじゃんと思うのだけども、ともかく土日は浅草の喧噪を避けて向島辺りを散策すると良いのではないかと思っている。
「天下の糸平」の話が内村鑑三の「後世への最大遺物」に載っていて、
有名な天下の糸平が死ぬときの遺言
は「己れのために絶大の墓を立てろ」ということであったそうだ。そうしてその墓には天下の糸平と誰か日本の有名なる人に書いてもらえと遺言した。それで諸君が東京の牛
の御前
に往
ってごらんなさると立派な花崗石
で伊藤博文さんが書いた「天下之糸平」という碑が建っております。それは、その千載にまで天下の糸平をこの世の中に伝えよというた糸平の考えは、私はクリスチャン的の考えではなかろうと思います。
なんてことが書かれているのだが、「牛の御前」とはおそらく牛嶋神社のことであろう。糸平の石碑があるのは牛嶋神社よりずっと川上にある木母寺である。ウィキペディアなど見ると天下の糸平こと田中平八(屋号が「糸屋」、糸屋の平八で糸平と呼ばれたらしい)の次男が成島柳北の娘と結婚したなどと書かれていてへえっと思う。ともあれ明治の頃には有名な大富豪だったのだろう。以前この辺りは散歩に行って隅田川神社などは見たことがあったが木母寺には行ったことないんで今度行ってみよう。
クリスチャン的であるかどうかなんてことはともかくこうした馬鹿でかい墓を作りたがった人は他にもおおぜいいたらしく、そうした墓石を谷中霊園にいくといくらでも見ることができる。
正岡子規は20才の頃に長命寺桜餅山本屋に下宿していたことがあるから、この辺りの地名をいくつも歌に詠み込んでいる。以下は全部子規が詠んだ歌。
雪の中に 咲くも操や 梅若は 名のみ桜を 君や恋ふらむ (梅若寺。木母寺の別名)
木母寺は梅若丸が死んだ場所だとされて梅若寺ともいう。梅若丸って誰かというと、室町時代に「隅田川」という猿楽が作られてその主人公が梅若。彼は京都の公家の子で人買いにさらわれてあちこちに連れ回されたあげく隅田川のほとりで死んだ。そこにある僧侶が塚を作り柳を植えたというただそれだけの何が面白いのかさっぱりわからぬ話だが、ウィキペディアを読むと、家康が「梅柳山」という山号を与えたとか、近衛信尹が「梅」を「木」と「母」に分けて木母寺という今の名前にしたとか、ほんとかうそかわからぬが昔はそれなりに有名だったらしい。
受けぬとは 知れども祈る 三めぐりや めぐり会ひたし 別れにし君 (向島三囲社)
三囲社は墨田郷土文化資料館の近くにあるので、こないだ前をよぎった。
人の目に かかるも憂しや 牛嶋に 妹と我との すみか定めむ (向島牛嶋神社)
向島は濹東綺譚の舞台で、料亭や小料理屋などが点在していて浅草の観音裏に似た雰囲気もあり、昔はそれなりに栄えたのだろうけど、今は鳩の街通りなども閑散としているが、その分曳舟駅前がやや栄えている。向島の繁盛はすべてここ曳舟に吸い寄せられているように見える。浅草のように観光客でごった返すわけでもなくほどよく栄えていて良い感じがする。
吉川英治旧宅跡は今は墨田区立寺島保育園というものが建っている。
いづ方も くもりなき日は 寺島に 晴れ間だになき 我が思ひかな (向島寺島町)
幸田露伴旧宅(蝸牛庵)跡は露伴児童遊園という公園になっていた。
浅草は上野や御徒町、鶯谷あたりとひとくくりにされることが今は多いようだが、どうせ繰り出すなら反対の向島、曳舟へ行ったほうが楽しいと思う。押上やスカイツリーはどうしようもない。松屋浅草をエキミセ、スカイツリーをソラマチと言わせたがっているのは東武であろうが、こないだ初めて人がソラマチと言っているのを聞いた。調べてみるとほかにも東京ミズマチなるところがあるらしい。隅田川に架かる東武伊勢崎線(スカイツリーライン笑)の陸橋に沿って遊歩道(すみだリバーウォーク)が設けられており、そこからスカイツリーに続く北十間堀沿いの道のことをミズマチと言いたいらしい。
曳舟で飲み歩くのは楽しいが、結局、浅草に戻ってきても酔った勢いで何軒かハシゴしてしまい、おかげで二日酔いになってしまうのは非常にマズいのでなんとかしたい。