歌だけは残ってほしい

実際私は哲学とか思想というものにまったくなんの価値も認め得ない。ただのたわごとだと思っている。「寝ぼけた人が見間違えた」ものだと思っている。それゆえ当然哲学者というものになんら存在価値も認めないし敬意を払う気持ちもない。宗教に対しても同じだ。

宗教や思想などというものがすべて失せてホモ・サピエンスが登場した時代にさかのぼってもなんら惜しいとかもったいないとは思わない。むしろそのほうがずっとさっぱりしてすがすがしいと思う。私はコロナ騒ぎを見て、人類の進歩というものに対する一切の幻想を失った。人類(の精神)はまったく進歩していないし、今後も進歩することはない。人間社会を進化させようとするのはまったく無駄な努力だ。

人類が滅亡することにもなんら惜しいという気持ちはないしまして悲しいとか哀れを感じることもない。人類はこれまで当然滅びてしかるべきことばかりしてきた。報いをうけてしかるべきだとは思うが、それ以上何も人類に期待するものはない。人類は単に不完全な、偶然、自然発生的にうまれた種に過ぎず、それ以上の、なにか崇高で特別な存在ではないし、これから完全になることもなければ、完全に近づき得る存在でもない。

しかしながら私は、人類が滅びることによって私が詠んだ歌が失われることは、もったいないと感じている。人類があとかたもなく滅んでしまっても別になんとも思わない。そんなことは私にとって痛くもかゆくもない。もし人類に代わる何かの知的存在が私の歌を記憶していてくれればそれで十分だ、と思える。

私が書いた小説などみな消え失せてもかまわない。私が書いた論文など紙屑になってもかまわない。しかし私の歌は何とか残ってほしい。日本人とか日本とか人類とか芸術とか真理とか、そんなものにはまったく興味はない。

ただ私の歌だけは残ってほしいと思う。

私には昔からそうした傾向があったと思う。私はいつも、研究するときには、自分が人類であるからこの研究をしたのか、それとも私の研究は人類以外にも理解されるものであろうか、人類以外の存在にとっても価値があるだろうか。そういうことを考えていた。もし人類にしか価値の無い研究であればそんなものはもともとなんの価値もないと思っていた。自然科学の研究をしていても歌を詠んでいても、結局私は人類というものをまったく信用してはいなかった。人類ではなくもっと、なにかもっとアブストラクトな存在のために仕事がしたいのだと思う。

であればこそ、周りの人や、職場の同僚や、雇用主や、国や地方自治体や民間企業に認められようという気にはまったくならなかったのだ。それではいっこう、良い気持ちにはなれなかった。承認欲求も満たされなかったのだ。

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