年寄りのメディア離れしなさすぎ

私は高校生の頃から新聞を読まない人だった。というより、某新聞が大嫌いだった。大学生になるとテレビもほぼ見なくなった。最後まで見ていたのは俺たちひょうきん族くらいだった。

町で指のない男が某大手新聞を取れと脅してきたのでその新聞も二度と取るまいと思った。しかしながら、比較的嫌いではない新聞は取って読んでいたのだが、日経もまたいやになってやめ、最後はしばらく、消去法で残った産経新聞を取っていたが(主に折り込みチラシ目当てで)、それももういいかげん要らんだろと思ってだいぶ前にやめた。

今の若者は新聞もテレビもみないと、私の同世代の人たちは嘆く。ツイッターとかユーチューブばかりみていて「一次ソース」をみて確かめないと(笑)。

なるほど。新聞は一応一次ソースであろう。週刊文春も、時事通信も、共同通信も、テレビ番組も、一次ソースかと言われれば一応、マスメディアなので一次ソースなのであろう。その一次ソースが信用できないんだから、その信用できない一次ソースで確かめたって意味ないだろという問題なわけじゃないですか。

マスメディアだろうと個人配信だろうと一次メディアは一次メディアであって、個人配信でもきちんと自分で裏を取って配信している人はいる。マスメディアだっていわゆるこたつ記事というやつで、実際に取材しないで勝手に書いてる記事もある。現場に赴いて、もしくは現地の人と接触して、独自取材しているものが一次ソースであり、マスメディアか個人かということは関係ない、個人メディアもマスメディアもスポンサー、或いはSNSの運営会社の顔色をうかがって記事を書いているから大差ないってのが、今のメディアリテラシーであろう。それを判断するのはニュースを取捨選択する個人しかない。株を買って儲けるか損するかも自己責任だし、どのニュースを信用するかも自己責任。何を信用するか見誤れば陰謀論にはまってしまうかもしれないがそれも自己責任。誰も信用できない。AIも、自分自身さえも信用はできない。

そもそも「一次ソース」というのは生のデータのことだ。嘘も本当もゴミも宝石もまぜこぜになっている。一般人にはそのままではわからん。だから選別して加工する。マスメディアがいう一次ソースというのは一般人向けに調理加工されたものであってすでに一次でもなんでもない。報道する側の意図で方向づけされ味付けされてしまっている。

研究の世界だって同じで、論文がたくさん書けそうな新しい研究テーマがみつかるとイナゴのように群がり集まって、人の論文を適当に見繕って、先行研究をちょこっと手直ししただけの薄っぺらい論文を通して業績を稼ぐ。そんなの民間企業の営業や開発と同じだろ。何がしたくて研究者になったんだよ、研究がしたくて研究者になったんじゃないの、って思うことが多々ある。商売で取材しているメディアだってまったく同じことだ。ツイッターがインプレッションで、ユーチューブが再生回数や再生時間で(つまり広告収入で)コンテンツを最適化させるのと何も違わない。そんなソースが信用できるはずがないだろ。そんなことは当たり前じゃないか。そういう事実に目をつぶっているのか、それともほんとうにわからないのだろうか。

そういうことをおそらくまったくわからず、テレビ離れ、新聞離れしている若者もそりゃいるだろう。大半はそうかもしれない。が、十分わかったうえでテレビ離れ、新聞離れしている若者はけっこういるはずだ。テレビはしょせん洗脳装置だ。新聞はしょせんプロパガンダだ。今の若者は幸せなことに昔と違って選択肢の幅がある。選ぼうという意思があれば選ぶことができる。昔はそれすら容易ではなかった。

年寄りと話をしていると、メディアに対する考え方、信頼性が何十年も前からまったくアップデートされていないことを感じる。実に嘆かわしい。10年前のOSや言語やデータベースを未だに使い続けているようなものでセキュリティ上危なくて仕方ない。

そういう私だって昔からテレビや新聞が嫌いだったから、今も同じように嫌いなだけかもしれんが。人は変われない。年をとったら若者の感性からどんどん離れていく。年寄りたちが若者にあいそをつかされるのも無理はない。年寄りには若者が間違っているように見える。しかし歴史的にみれば間違っているのはどちらかと言えば年寄りのほうであった。もちろんナチスや学生運動、オウム、コロナ騒ぎ、ポリコレのように若者が過激思想にかぶれて暴走することもある。しかし年寄りもまた自分の価値観を更新できない。若者が間違っている、SNSが間違っていると決めつけてそれ以上疑わない。思考停止。老害。死による以外その弊害からまぬがれることはできない。だから私たち老人は若者の迷惑にならぬよう、後進に道を譲り、静かに世の中から退場するしかない。

これさあ。まず、アインシュタインを使って説得力を増そうとするところが姑息だよな。それにこれ見る限り、歴史はユーチューブ動画見ていれば小学生でもわかっちゃうわけだからわざわざ大学で学ぶまでもないって結論にならないか(笑)。

科学は哲学じゃないんだろ?じゃあ、科学者に哲学を語らせてはいけないんじゃないのかな?科学者はただ単に科学的真理を追究することに長けた人に過ぎないのに、どうして哲学的考察ができると考えるのかな?そこ、めちゃくちゃ安直すぎじゃね?戦争が得意な将軍においしいコーンポタージュの作り方を教わろうとするようなものじゃね?たまたま偶然軍人に料理人としての才能があるかもしれない。しかし、全然畑違いでそんな知識もスキルもないのが普通じゃないの。アインシュタインは別だって?それってあなたの感想ですよね?

少なくとも科学者がいうことが哲学になってるかどうか疑う必要があるんじゃないの?さらに言えば、何が哲学で誰が哲学者なんてことは誰にもわからないし決められないし、哲学を学ぶとは何かってことさえ哲学に決められないとしたらそもそも大学で哲学を学ぶ必要はないんじゃない?

科学は道具で、大学は道具の使い方を学ぶところ、生き方は人それぞれなんだから、それぞれが考えれば良くて、人生の目的はそれぞれがユーチューブ動画でも見て見つければ良い話で、大学の大講義室で一斉授業するのには適してないんじゃないの?

芸術や芸能、文芸などはスキルを学ぶ側面があるし、その習得に4年間必要だというなら大学という機関で学べばよい、ただそれだけじゃないかな。哲学にも思考訓練が必要でまた一般知識を身につけるだけの時間が必要だから大学で学ぶ。それでいいんじゃないの。

科学は道具であり、使い方を間違えれば危険であり、科学はその危険性を教えてはくれない。科学は何物かによって制御されねばならない。その通り。では哲学はほんとうにその方法を教えてくれるのかな。哲学で科学を制御しようとするからフランス革命とか文化大革命みたいなことがおきるんじゃないの?科学にできないことを哲学ならできる、みたいな言い方をするのはよろしくないよね。どっちもどっちだろ。科学同様哲学も十分危険なんだよ。それを哲学自身が解決できると考えること自体単なる思い込みだろ。

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