古今夷曲集

一休の和歌は「古今夷曲集」などにかなりの数採られているのだが、真作なのか。
これに採られている西行、慈円、道元、沢庵の和歌というのも同様だ。
中には松永貞徳や木下長嘯子のような普通に有名な歌人も混ざっている。
鎌倉時代の西行や道元や慈円、室町時代の一休の真偽はあやしいとして、
貞徳、長嘯子、沢庵は同世代の人だから真作かもしれん。
うーん、油断がならん。

「古今夷曲集」は生白庵行風という僧が編んだ日本初の狂歌集だということで、
それはそれなりに貴重なものだ。
行風は後水尾天皇とだいたい同世代、江戸初期の人。
「後撰夷曲集」「銀葉夷歌集」などの歌集も選んだようだ。

> 和歌は情淳にして風情をかざり、夷歌は俗語をもきらはず、心ただしく理にかなふをもはらとせり

なかなか良いことを言っている。
もともとは狂歌とは言わず、夷歌と言ってたというところが興味深い。
一休の号が狂雲であるので、もしかするとその影響で狂歌と呼ばれるようになった可能性もあるわな。

少なくとも行風自身の名がついている歌は真作だと考えてよかろう。
貞徳の歌が割と多いのは直接の知り合いだったからかもしれん。

一休

> 餅つかず しめかざりせず 松たてず かかる家にも 正月は来つ

うーん。
どうなのかこれは。

行風

> ともすれば 花の顔さへ 打ちちらす 風の手ぐせを 直してしがな

これは、たしかに狂歌ではあるが、ぎりぎり和歌と言えなくもない。
できも悪くない。

行風

> 野にたてる 夜風ひきてや 撫子の はなたれたりと 見ゆる朝露

これも斬新で良い。
風邪引いてはなを垂れるとかけているわけだ。

長嘯子

> 人ごとに 腰折れ歌を 詠みおきて あたら桜を 杖にこそつけ

ひどい歌だな。

宗祇

> ものごとに たらぬたらぬと 思ふこそ まよふ心の 作りやまひよ

本物なのか。

海老の絵に詠める
沢庵

> いかばかり えびを取り食ふ 報いあらば つひには老いの 腰やかがまん

ばかばかしいな。

布袋絵の賛に
沢庵

> この袋 あけてみたれば 何もなし 何もないこそ 何もありけれ

法然

> 口にある 南無阿弥陀仏の 味はひを 自力の人は 食ひ知らぬなり

法然

> ありがたや 障りのおほき 女人をば 弥陀ひとりこそ たすけましませ

本物なのか。

弘法大師

> 今ははや 後世の勤めも せざりけり 阿吽の二字の あるにまかせて

良く出来た偽物だな。

一休

> 作りおく 罪の須弥ほど あるなれば 閻魔の帳に 付けどころなし

一休

> 嘘をつき 地獄に落つる ものならば 無き事作る 釈迦いかがせん

一休

> すぐなるも ゆがめる川も 川は川 仏も下駄も 同じ木の切れ

一休

> たぞにたぞ たぞたぞにたぞ たぞにたぞ たぞにたぞとて 何もなきかな

おまえは誰だといろんな人に問い詰めた結果何もなかったということか。

うーん。釈教歌がやたらと多いな。
ありがたく使わせてもらうか。

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