後鳥羽上皇

例によって wikipedia の「後鳥羽天皇」を読んでいたのだが、

> 伝統が重視される宮廷社会において、皇位の象徴である三種の神器が揃わないまま治世を過ごした後鳥羽天皇にとって、このことは一種の「コンプレックス」であり続けた[1]。 また、後鳥羽天皇の治世を批判する際に神器が揃っていないことと天皇の不徳が結び付けられる場合があった[2]。 後鳥羽天皇は、一連の「コンプレックス」を克服するために強力な王権の存在を内外に示す必要があり、それが内外に対する強硬的な政治姿勢、ひいては承久の乱の遠因になったとする見方もある[3]。

本気で言っているのか。
[1]はただの個人の感想ではないのか。
[2]は藤原定家ならそのくらいの悪口は言うだろう。ていうか定家が後鳥羽院に対してかなりネガティブなイメージを持っていた証拠にはなるだろう。それに定家が言いたいことは、即位のときに神器がなかった、という正統性の問題ではなく、神器のうちの宝剣が失われて戻ってこなかった、ということだけだ。三種の神器がそろってないから蹴鞠ばかりする、とまあその程度の意味だろう。
[3]だが、承久の乱の原因が、三種の神器を欠いて即位したコンプレックスによるものだとする、まあ、そんな意見もあるかもしれん、だが、戦前戦後のすべての学説を並べた中にこれがあるならともかく、こういう書き方は公平性を欠いているのではないか。かなり歪んだ記述だ。

丸谷才一は後鳥羽院が大好きだからたくさん書いている。
そのことは良い。ただの作家の一個人としての感想だからだ。
しかしおかげで丸谷才一史観みたいなものができてきて、それがまるでオーソリティのようになりつつあるのではないか。
極めて危険だ。司馬遼太郎くらいに危険だ。

後鳥羽院はものすごくたくさん和歌を詠んだ人だ。
そしてすごく優れた歌人だ。
ほんとうはもっとたくさん勅撰集に採られていてもおかしくない。
しかし承久の乱を起こしたので、のちの北条氏や足利氏には嫌がられただろう。
ごく一部の歌だけが知られている。
戦後はやはり、後鳥羽院の歌は半ば封じられた。
特に承久の乱の後、隠岐に流されたころの歌とか。
順徳院の歌も。

承久の乱がなんであったのかは今も良く理解されていないと思う。

白河院はものすごく勅撰集にコミットした。万葉集、古今集は必ずしも天皇の関心事ではなかった。
勅撰集というものは白河院が創始したと言っても良い。
だが、後鳥羽院という天才歌人天皇がいなければ、勅撰集は応仁の乱までもたず、
従って今日でははるかむかしに存在した文芸、ということになっていたはずだ。

コンプレックスだけで良い歌は詠めない。後鳥羽院はほんとうの天才だった。
むしろ何のコンプレックスもなく、王者としての万能感だけがあったのではないか。
だからつい承久の乱を起こしてしまったのだと思う。

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