創世記25:8
アブラハム遐齡に及び老人となり年滿て氣たえ死て其民に加はる
明治元訳聖書
アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。
共同訳
「年満ちて」もしくは「満ち足りて死に」と訳されることが多いようだが、「生きるに飽きて」と訳されることもある。マックスウェーバー著、岩波文庫版『職業としての学問』など。
アブラハムは、あるいは昔の名もなき農民は、「年老い人生に満足して」死をむかえた。
と訳している。この箇所、原文は
Abraham oder irgendein Bauer der alten Zeit starb »alt und lebensgesättigt«, weil er im organischen Kreislauf des Lebens stand, weil sein Leben auch seinem Sinn nach ihm am Abend seiner Tage gebracht hatte, was es bieten konnte, weil für ihn keine Rätsel, die er zu lösen wünschte, übrig blieben und er deshalb »genug« daran haben konnte. Ein Kulturmensch aber, hineingestellt in die fortwährende Anreicherung der Zivilisation mit Gedanken, Wissen, Problemen, der kann »lebensmüde« werden, aber nicht: lebensgesättigt.
となっている。旧約聖書はヘブライ語で書かれているからヘブライ語まで遡ってもともとのニュアンスを調べるべきかもしれないが、それは私には不可能だし、私にとっては、マックスウェーバーがどういう意図でこの言葉(ルター訳か)を引用したか知れば十分である。
lebensgesättigt は leben に gesättigt したということだ。gesättigt は wiktionary では nicht mehr hungrig 「もはや飢えていない」「おなかいっぱい」という意味であると記述している。英語では saturated という。語源となっている sat はおそらくラテン語由来であろう。
「おなかいっぱい」は満ち足りている、満足している、と解釈もできるが、飽き飽きしている、もうこりごりだ、という意味にもとれる。両方だとしてではどちらの意味に近いか。
マックスウェーバーは lebensgesättigt を lebensmüde と対比させて使っている。müdeは飽きたという意味もあるかもしれないが疲れた、眠い、だるいなどとという意味だ。昔の人は十分に長く生きて、つまり天寿を全うして死ぬことができた。しかし現代人は、人生に疲れることはできても、やることがもう無い、すべてやり尽くして死ぬことはできない、とマックスウェーバーは言っている。
なるほど彼が生きた20世紀前半はそうだったかもしれない。世の中には未解決の問題が山積みしていて、自分の一生では、自分の能力では、とうていそれらのすべてに手を付けることもできないし、すべてを解決することもできないし、結論を見てから死ぬこともできない。そもそもすべての事象を把握することすらできない。自分の周りのごく狭い領域の問題を認識できるに過ぎない。
マックスウェーバーは56才で死んだ。まだまだやり残したことがたくさんあっただろう。
しかるに現代に生きる私はどうだろうか。もう60才になったが、まだ今のところ死にそうにもない。
80才まで生きられるとしてあと20年間でいったい私に何ができるというのか、今までの60年間の人生と比べてこれからの20年間にどれほどの意味があるのか、いったいどんな未知の可能性が残されているのか、残されているとしても、それをやり遂げる気力が残っているのか、と思う。死ぬのは嫌だから生きてはいるけどそのことに積極的な意味が見いだせない。
若者が良く、20年間生きてみたがもう人生に飽きた、などと良く言うのだが、年寄りが、60年間生きてみたがもう人生に飽きたというのとは少し違う。というより、若い頃は人生に飽き、年を取ると人生に終着するのが人間の性質のように思える。