夏目漱石が白雲という言葉を好んで使っていることについてすでに何度も書いてきたが、「吾輩は猫である」にも2箇所「白雲」が出てくる。
床の間の前に碁盤を中に据えて迷亭君と独仙君が対坐している。
「ただはやらない。負けた方が何か奢るんだぜ。いいかい」と迷亭君が念を押すと、独仙君は例のごとく山羊髯を引っ張りながら、こう云った。
「そんな事をすると、せっかくの清戯を俗了してしまう。かけなどで勝負に心を奪われては面白くない。成敗を度外において、白雲の自然に岫を出でて冉々たるごとき心持ちで一局を了してこそ、個中の味はわかるものだよ」
「また来たね。そんな仙骨を相手にしちゃ少々骨が折れ過ぎる。宛然たる列仙伝中の人物だね」
「無絃の素琴を弾じさ」
「白雲の自然に岫を出でて冉々たるごとき」というあたりはいかにも西行の
おしなべて花の盛りになりにけり 山の端ごとにかかる白雲
を連想させる。
「ああ、眠かった。山上の白雲わが懶
きに似たりか。ああ、いい心持ちに寝
たよ」
「山上白雲似我懶」どこかの漢詩にありそうだが、検索してもすぐには出てこない。「白雲」が出てくる作品が他にもあるかと思い青空文庫を検索してみるがなかなかでてこない。今のところ小説で「白雲」が出てくるのは「猫」の他には「草枕」しかない。
それはそうと黒澤明の『夢』、「こんな夢を見た」は明らかに夏目漱石の『夢十夜』をオマージュしているよな。
既に書いたつもりでいたがこのブログには書いてなかったらしい。他のところに書いていたので引用しておく。
漱石が好んで使う「白雲」という語(「白雲紅葉千山に満つ」「臥して見る白雲の堆きを」「去路白雲悠たり」「此の去西天白雲多し」「窓外白雲帰る」「白雲往きて也た還る」「空中に独り唱ふ白雲の吟」「遊ぶに儘す碧水白雲の間」等々)