白雲

夏目漱石が白雲という言葉を好んで使っていることについてすでに何度も書いてきたが、「吾輩は猫である」にも2箇所「白雲」が出てくる。

 床の間の前に碁盤を中にえて迷亭君と独仙君が対坐している。
「ただはやらない。負けた方が何かおごるんだぜ。いいかい」と迷亭君が念を押すと、独仙君は例のごとく山羊髯やぎひげを引っ張りながら、こうった。
「そんな事をすると、せっかくの清戯せいぎ俗了ぞくりょうしてしまう。かけなどで勝負に心を奪われては面白くない。成敗せいはいを度外において、白雲の自然にしゅうを出でて冉々ぜんぜんたるごとき心持ちで一局を了してこそ、個中こちゅうあじわいはわかるものだよ」
「また来たね。そんな仙骨を相手にしちゃ少々骨が折れ過ぎる。宛然えんぜんたる列仙伝中の人物だね」
無絃むげん素琴そきんを弾じさ」

「白雲の自然にしゅうを出でて冉々ぜんぜんたるごとき」というあたりはいかにも西行の

おしなべて花の盛りになりにけり 山の端ごとにかかる白雲

を連想させる。

「ああ、眠かった。山上の白雲わが
ものう
きに似たりか。ああ、いい心持ちに
たよ」

「山上白雲似我懶」どこかの漢詩にありそうだが、検索してもすぐには出てこない。「白雲」が出てくる作品が他にもあるかと思い青空文庫を検索してみるがなかなかでてこない。今のところ小説で「白雲」が出てくるのは「猫」の他には「草枕」しかない。

それはそうと黒澤明の『夢』、「こんな夢を見た」は明らかに夏目漱石の『夢十夜』をオマージュしているよな。

既に書いたつもりでいたがこのブログには書いてなかったらしい。他のところに書いていたので引用しておく。

漱石が好んで使う「白雲」という語(「白雲紅葉千山に満つ」「(ふ)して見る白雲の(うづたか)きを」「去路白雲悠たり」「此の去西天白雲多し」「窓外白雲帰る」「白雲(ゆ)きて(ま)た還る」「空中に独り唱ふ白雲の吟」「遊ぶに(まか)す碧水白雲の間」等々)

預言者は郷里に容れられず

ずいぶん前になんちゃら市民講座というようなところで話をしなくてはならないことがあった。私は私で自分の専門について話しの用意をしていた。私の専門というのはCGとかWebとかそんなやつだったのでそんな話をした。聞きに来たのは近所のおじいさんおばあさんばかりだった。

話し終えて、あるおじいさんが質問した。今お話しになったことは死んだ後にどう役にたつのですか、というような質問であったと思う。

それでまた私の番が回ってきて、その市民講座で何か話をしなくてはならなくなり、今度はおじいさんおばあさんが喜ぶような話を用意せねばなるまいな、と思っている。もともとそういう話が嫌いなわけではないが、専門とは何の関係もないし、人前で話したこともないから、適当に何か見繕って話そうとは思っているのだが、今思うにあのとき質問した人は近所のお寺から来た人であったかもしれない、あなたは何やら難しい、私たちには理解できない、偉そうな話をしているが、そんなものが私たちの人生にいったいどんな関係があるのか、何の意味があるのか、何の価値があるのか、死んだ後に何か役に立つのか、そういう批判めいたことを言いたかったのかもしれない。つまり、質問の形を取った私への抗議であったかもしれない、と思い始めた。

私の両親も祖父母も親戚もみな同じ種類の人間であった。私のやっていることは彼らにとってまったく無価値であった。私が出世して給料をもらうことには役立っているらしいが、彼らにとってはまったくどうでも良い、ある意味ばかげた遊びのようなものであった。

預言者は郷里に容れられずというが、まさに私は預言者のような心持ちでこれまで生きてきた。私ももう還暦で、いまさら自分の生き方を変えられないし変える必要もないと思っているのだけど、ますます私は世の中に対して仮面をかぶって生きて行かねばならないと思っている。ただ世の中には私を理解してくれる人はある一定数はいるはずだ。それらの人は世界中に散らばっていて直接会う機会はないけれども、本を書けば読んでもらえるかもしれない、死んだ後に私の本を読んで共感してもらえる人がいるかもしれないと思って私は本を書いているわけである。

「エウメネス」でカラノスというバラモン僧にそうした心境を語らせたこともある。

婆羅門教徒も、仏教徒も、ジャイナ教徒も、世俗の王に仕えることを拒む。しかし彼らもまた教団を作り、僧侶も寺を作り、富や名声を求め、結局は人間の社会を営む。人が集まるところ親があり子があり家がある。師があり弟子がある。因縁が複雑に絡まり合い、精神の自由を奪い、解脱を妨げる。それはワシにはもっとも耐えがたいものじゃ。

 たとえこの世に真理があったとしてもそれが沙門に受け入れられ、宗派に分かれる過程で、真理は人の世の道理によって遮られる。真理という本来純粋無垢なものが人の世に取り込まれた途端に、手垢が付き、ありふれた道具の一つに化してしまう。単なる日常の一部になってしまう。

人の世を離れずしてどうして真理の目が開かれよう。人の世のいさかいを離れ、ただ一人、精神の深奥へと向かわねば、悟りへ至ることはできまい。

 ワシは、これまでにワシと同じ結論に達して、誰にも知られず静かに死んでいった者たちがたくさんいるのであろうと思っている。また今も世界のどこかで、人の世を離れて、ワシと同じ考えに至った隠者がたくさん生きているのだろうと思う。彼らとつながれるのであれば、死ぬ前に会って話がしてみたい。ワシのような人間は世の中にちりぢりばらばらに散らばって生きている。ひとりひとりが天涯孤独であるが、しかし、その数は決して少なくないとワシには思える。彼らとつながりたい。それが、人の世に倦んだワシに残った、唯一の欲望、未練といってよいかもしれない。

 ワシが今日ここへ来たのは、王よ、あなたがワシを地の果ての友に会わせてやると言うたからじゃ。ただ己の師であるからとその教えに盲従したくない。ただ身近にいるというだけで友になりたくはない。ただ生まれた土地だからとそこに留まりたくはない。王よ、解ってもらえようか?

私の中に多分、世俗との関係性、社会への還元といったものを断ち切った先にこそ学問の価値がある、という考え方があるに違いない。そういう態度は話し方にも接し方にもすべてに現れているに違いない。高踏的というか超越的というかそういう学者バカみたいな鼻持ちならない人間なのだろうと思う。

ところで「吾輩は猫である」は猫が飼い主を観察してそれをそのまま写生文にして新聞に掲載した、という体裁でできている。写生とはおそらく正岡子規が流行らせた言葉で、世間では自然主義とか私小説と呼ばれていたと思う。そしてああいう小説がいきなり評判になるとは漱石も、彼の周りの人も、出版関係者もまったく予期していなかったに違いない。話の展開も場当たり的で、とってつけたようで、寝静まった夜中にいきなり泥棒が忍び込んでくるあたりなどは、たぶんどこかから取材した話なんだろうが、別段どうでも良いような、ページ数稼ぎだけの話にも見える。この「吾輩は猫である」というものがほとんど偶然の産物として出てきたせいで日本の小説というものは大きく変わってしまった。田山花袋の「蒲団」のような役割を果たしたと言える。

私は吉原あたりから大江戸線蔵前駅まで徒歩で通勤するなどというかなり無理矢理なことをやっているのだが、隅田川沿いに歩くと少し遠回りだがちょうど良い散歩になることに気付いた。川風は気持ち良いし、自転車や人混みにいらいらしなくて良いし、横断歩道で待たされたり排気ガスを吸わなくて良いだけでもずっとましだ。ところが吾妻橋の下をくぐるトンネルがなぜか朝6時から夜21時までしか開放されない。せめて朝5時に開けてはもらえぬものだろうか。朝6時に吾妻橋を通過したとしたら6時半くらいの電車にしか乗れない。まあそれでも十分と言えなくもないのだけど。

などやかく 楽しかるらむ

また久しぶりに浅草に戻ってきた。昨年末に部屋を借りたので四ヶ月弱が経った。今の気分はまさに

などやかく 楽しかるらむ 浅草は 生まれ育ちし 町にはあらねど

と言ったところであり、浅草は飽きたな嫌だなと思うこともあるが、しばらくぶりに訪れると何か言いようのない、自分の心のどこから湧いてくるのか、実にうきうきした気分になる。江戸時代から続くモメンタムとしか言いようがない。そういう町は今や東京には浅草以外にはないのである。

浅草に久しぶりに戻ってくるとついハシゴをしすぎてしまう。これがよろしくない。ハシゴはできれば二軒まで、三軒までを限度にしたい。四軒目には絶対行かないようにせねば。それで午前三時くらいにはアルコールが抜けきって、午前五時くらいからは普通に生活できる程度に留めるのが良い。

昨日も新御徒町の例の店に行ったのだが93才のおじいさんが地下鉄を乗り継いで新御徒町まで来て、日本酒を二杯も飲んで、周りが心配して、チェイサーで水も飲んだほうが良いですと水を飲ませてあげたりなどしていたのだが、本人はいたって丈夫で、持病もないという。都営にはシルバーパスというものがあって無料だが、営団は有料なので、都営だけ乗り継いでくるので遠回りだなどと言っていたが、ずいぶんと元気な人だ。その人が昔、上皇と友達で(友達の友達だったかもしれん)、昭和天皇の写真を撮ったことがあり、写真屋がそのネガを買い取りたいというので今の価値で20万円くらいで売って儲かった、などという話をしていたのだが、今もし昭和天皇が白馬にまたがった写真のネガがあったらどんだけ価値があるかしれない。20万円では絶対済まないだろう。

梅干しや沢庵を買うことは非常に難しい。昔ながらに漬けた梅干しというものにもいろんなものがあるが、塩の結晶が析出するくらい塩をぶちこんだものなどがあり、いくらなんでもこれでは嫌味である。梅と塩だけで昔ながらの製法で作った梅干しであって、かつ、現代風に多少塩分を少なくすることも十分できるだろうと思うのだ。古漬けとか浅漬けのような変化を持たせることもできると思う。

でこの嫌味なまでに塩辛い梅干しだが、納豆と混ぜて食べると適度においしいことがわかった。たとえばおかめ納豆などは納豆のたれが付いてくるがこのたれを使わずに、塩気は梅干しからとる、というような。

人工知能と和歌

chatGPTなどはすでにかなりまともな和歌を詠めるようになっているようだ。少なくともふだん歌に嗜みの無い一般人が詠むよりはずっとましな、素人に毛が生えた程度の歌は詠めるらしい。そして一般人はそもそも、(五七五七七に整えられぬというだけでなく)良い歌と悪い歌の見分けがつかないし(だから歌が詠めないのだが)、さらにいえば世の中には良い歌と悪い歌を判別する基準すらないから(それは世間の評論家や歌人らのご高説をみれば明らかで、人間の怠慢とも言えるし限界ともいえる)、和歌などというものはchatGPT に詠ませておけばそれでたいてい用は足りる、ということになる。作曲もそうだろう。ゲームのBGMに使うような、なんとなくそれっぽい歌ならもう人工知能に作曲させておけばことたりる。キャラクターデザインも。背景のマップも。

では人工知能はこれから自学自習して、良い歌とは何か悪い歌とは何かまで理解するようになって、人間を超えて、ますます良い歌を詠むようになるだろうか。これはわからない。

もし、良い歌を詠む人がさらに人工知能に教育を施し、または良い歌を詠む人を人工知能が自分で見分けてさらに学習したとしたら、もっと良い歌を詠むようになるだろう。しかしそれは可能だろうか。

人工知能はなんらかの評価関数が無くては学習できまい。

人工知能は和歌のルールとパターンはだいたい把握してきたようだ。五七五七七で詠む。大和言葉だけで詠む。古典文法に乗っ取って詠む。ここまでは教えることのできる人はいる。これが現在の評価関数だ。ある種の状況設定も追加することができる。これもまた別種の評価関数だ。複数の評価関数を組み合わせてそれらの総合点を最適化するような答えを出してくる。なんとなくちぐはぐな、どこかでみたようなみたことないような、適当に混ぜ合わせたコラージュのような歌を出してくる。

しかし世の中には人工知能に和歌を教えられる人間がそろそろいなくなるだろう。もしいたとして、その人の和歌がほんとうに優れていると誰が決められるのだ。新聞やテレビの歌壇で講師をしている人たちの歌がほんとうに優れているのか?(今の評論家や知識人のほとんどすべては大衆の無知故に存在し得ている。彼らがこれまで人類の進歩を阻害してきたように、人工知能の発展をもまた妨げることも十分あり得る)それとも過去の膨大な和歌のデータベースや、歌学に関する評論や論文があればそこから良い歌とは何かということを判定できるのか。さらにそれらから類推してもっと良い評価関数というものを獲得していけるのか。そしてその人工知能が自ら獲得した価値観を、人工知能は人間に対して納得させられるかどうか。

いやそもそも、人工知能が詠んだ歌を見て、良い歌だ悪い歌だと人間が判定できず、人工知能が良いと言い張ったとき、それは人間にとって適した回答と言えるのだろうか。

わからん。人間が無限に賢ければ人工知能も無限に賢くなっていくだろう。しかし人間の賢さは明らかに有限だ。人間はいつまでたっても進歩しない。いつも同じような過ちを繰り返す。それは歴史が証明している。天才はたまには現れるかもしれないが、天才を凡才から見分けることは難しい。その見分けられるということがそもそも人間の賢さの一部であり、限界でもあるのだ。

人工知能が人間を追い越して賢くなっていくということはあり得るのだろうか。ある種の分野、たとえばプログラミングなどではあり得るかもしれない。評価関数がきちんと決められていて、その評価関数にさえ従えば、人間に教わることなく、どんな複雑な解でも計算できるとすれば。

しかし和歌はどうだろうか。私自身どんな歌が面白い歌か、いまだに知らない。いままでにみたこともないような歌が良い歌だとしたら、いろんな条件でランダムに生成した歌を取捨選択するなどしなくてはなるまい(無限の計算量があればある程度成果を出すことは可能かもしれない)。ましかし人間と人工知能が互いに影響し合ってだんだんに新しい評価関数を作っていくという未来は予測可能だ。

俳句は難しいと思う。何しろ短すぎて良いか悪いかそもそも誰にもわからない。

和歌は研究対象にするにはちょうど良い短さだと思う。プログラミングのような明確な解もなければ評価関数もない。そういうものをどうやって人工知能で解くか。

和歌を生成する評価関数はもうほぼ完成している。というより、近々完成するだろう。そうして生成された和歌が良いか悪いかというのは別の評価関数が決めることだろう。しかし、良い人生と悪い人生が決められないように良い和歌と悪い和歌も決められないのではないか。そんな評価関数は無いのかもしれない。しかし良い歌と悪い歌の違いは明らかにあるのだが。

というわけでchatGPTに質問してみた。

三島由紀夫が割腹自殺するときに詠むような辞世の歌を詠んでください。

ChatGPT:

三島由紀夫の辞世の歌を詠むとなると、その激しい精神性や、彼が抱えていた美学や思想が色濃く反映されることになるでしょう。彼の作品には、死や美、そして日本文化に対する強い思いが込められており、辞世の歌もそれらを反映したものとなるはずです。

例えば、次のような歌がふさわしいかもしれません。


「天地(あめつち)の
運命(さだめ)を知りて
命尽きぬとも、
我は今日も
美しきものを見し」


この歌には、彼が抱いた運命観や死に対する覚悟、そして美へのこだわりを込めています。「命尽きぬとも」という部分は、死が訪れようとも、自らの美学や世界観を貫き通す覚悟を表しており、最後の瞬間においても美しいものを見続けようとする彼の意志を示しています。

三島由紀夫のような人物の辞世の歌は、しばしば哲学的であり、自己の死をただの終わりではなく、何か壮大な意味を持つものとして捉えていたように思います。

三島由紀夫が自殺したのは11月25日でした。季節に合わせてみてください。

ChatGPT:

なるほど、11月25日という日は、三島由紀夫の死に深い意味を持たせるためにも、その季節感を取り入れることが大切ですね。11月は晩秋、枯れ葉が舞い散り、冬の足音が近づく時期です。そんな季節に合わせて、三島由紀夫が詠むような辞世の歌を考えるならば、彼が生きた美学や、秋の切なさを感じさせる言葉がふさわしいでしょう。

例えば、こんな感じの歌が思い浮かびます:


「秋風の
吹く空に舞う
枯葉一枚
命もまた
風にゆらめけり」


この歌には、秋風に舞う枯葉のように、命が無常であることを示唆しています。三島由紀夫は、自らの死を「風にゆらめけり」と表現することで、自己の運命に対する覚悟を感じさせ、同時にその儚さと美しさも強調しています。秋の風に舞う枯葉は、彼の死を迎えるにあたっての心情にぴったりの象徴となるでしょう。

また、11月という季節の冷たさや、静かな死を暗示する要素も取り入れられています。三島由紀夫は、自然との一体感や、日本的な美を重んじる人物でしたから、こうした自然の中に自らの死を見出すことは、彼らしい表現と言えるでしょう。

どうかな。まだまだ全然ダメだけど、これから先どうなるかわからん感じはある。私も課金してみたくなってきた。

Grokにも同じ質問をしてみた。

三島由紀夫が割腹自殺するときに詠むような辞世の歌を詠んでください。

三島由紀夫の精神や美意識を汲み、武士道や日本の伝統に根ざした辞世の歌を以下に詠みます。彼の劇的で荘厳な世界観を反映し、短歌の形式で表現します。

辞世の歌
散る桜
剣に魂
宿しつつ
大和の空に
消ゆともよし

解説(ご参考までに):
この歌は、三島が愛した桜の美と刹那、武士の精神、そして祖国への深い思慕を象徴しています。「剣」は彼の武人としての理想、「大和の空」は日本の精神性を表し、命を捧げる覚悟と美学を込めました。三島の割腹自殺(1970年11月25日)の際、彼は具体的な辞世の歌を残しませんでしたが、その行動自体が彼の美意識の結晶でした。この歌は、彼の生き様を想像し、敬意を込めて創作したものです。

もし特定のトーンや追加の要素をご希望でしたら、お知らせください!

三島由紀夫が自殺したのは11月25日でした。季節に合わせてみてください。

三島由紀夫が1970年11月25日に自殺した際の晩秋の情景を反映し、彼の美意識と武士道精神を込めた辞世の歌を短歌の形式で詠みます。

辞世の歌
散る紅葉
剣に魂
宿しつつ
大和の秋に
消ゆともよし

解説(ご参考までに):
11月25日は晩秋で、紅葉が散りゆく季節です。「散る紅葉」は三島が愛した美と儚さの象徴であり、彼の劇的な最期を映します。「剣」は武人としての誇り、「大和の秋」は日本の精神と季節感を表し、命を捧げる覚悟を表現しました。三島の行動に呼応する荘厳さと哀愁を意識しています。

ご希望のトーンや追加の調整があれば教えてください!

桜を紅葉に変えただけというのがGrokらしくてすがすがしい!あと三島由紀夫が辞世を詠まなかったというのは嘘だ。これまた実にすがすがしい!

どうもchatGPTは形式をないがしろにし内容にこだわる傾向があり(そして形式の間違いを指摘してもかたくなに直さない)、grokは形式さえ整っていればそれでよしとする傾向があるように思う。それにしてもchatGPTもgrokもいちいち和歌を改行するのはどういうわけか。

文法的語彙的に間違いなく和歌を詠めているかどうかを判定してくれるだけでかなり実用性はあると思うんだが、まだそこまで来ていない。

一夜

若い頃は昼夜逆転と言えば夜更かしをしすぎて昼間寝ているようなことであった。私が京都駿台予備校上賀茂寮に住んでいたときはまさにそれで、朝5時までゲーセンで遊び、6時まで喫茶店でだらだらして、寮に戻ってまかない飯も食わずに夜まで寝て、夜が更けたらまた烏丸鞍馬口のゲーセンまで遊びに行く、などという無茶なことをしていた。

今はまったく別の意味で昼夜逆転している。テレビ業界で夕方はゴールデンタイムというのかもしれないが、私にはまったく無価値な時間帯であって、さっさと酒を飲んで寝てしまいたい。朝は3時くらいに起きて風呂に入り5時の始発で移動して、夕方はできるだけはやく帰宅して寝る、というのが肉体的にも精神的にも一番楽な生き方なので今はそうしている。とにかく人間社会というものが嫌で嫌で仕方ない。年を取ったから早起きになるというのは実はそういうものであったかといまさら思い至った。

夏目漱石はいきなり長編小説を書いたと以前書いた。それで嘘ではないのだが、短編も書いてないわけではない。たとえば「倫敦塔」。しかしこれを短編小説といってよいのかどうか。小説というよりエッセイのようなものではなかろうか。

『猫』を読んでいたら、

せんだっても私の友人で送籍
そうせき
と云う男が一夜という短篇をかきましたが、誰が読んでも朦朧
もうろう
として取り
めがつかないので、当人に逢って
とく
と主意のあるところを
ただ
して見たのですが、当人もそんな事は知らないよと云って取り合わないのです。全くその辺が詩人の特色かと思います」「詩人かも知れないが随分妙な男ですね」と主人が云うと、迷亭が「馬鹿だよ」と単簡
たんかん
に送籍君を打ち留めた。

というくだりがあって、送籍とは漱石、つまり夏目漱石本人のことで、「一夜」という小説も青空文庫にあって読むことができる。

この「一夜」だが、誰も話題にもしないので私も今の今まで読んだこともなく、その存在も知らなかった。朦朧としてとりとめの無い話。まさにそうで、これに何か意味があって解読してみようと思った人もほとんどいないようだ。

普通小説家になろうという人はまず短編を書いてみてだんだん長くしていくものだ、と以前に書いた。その通りだと思う。夏目漱石はまず「猫」という長編小説を書いたように言われているが実はこの「一夜」が処女作なのではないかとまずは疑ってみた。

しかしたぶん違うだろう。では「猫」のあとに「一夜」を書いたのか。そうかもしれない。しかし思うに、漱石はたぶん誰か(子規であった可能性が高いがそうではないかもしれない)に、小説を書いたらホトトギス辺りに掲載しても良いよなどということを言われたに違いない。それで小説なんて書いたことないんだからどう書けば良いかわからない。適当に何本か、いろんな種類のものを書いてみた。漫談みたいなもの、留学の体験談みたいなもの、朦朧としたもの、などなど。それらが「猫」の第一話と「倫敦塔」、「幻影の盾」、「琴のそら音」「一夜」などの短編群だった。というあたりが当たりではないか。

それでそれらを読み比べてみて、とりあえず「猫」は一般受けしそうだからホトトギスに掲載してみたら非常に受けた。「猫」は連載が決まり、漱石は突然流行作家の道を歩き始めた。

朦朧としているあたりが詩人の特色である、などと書いているが、実際漱石は詩人、つまり漢詩人になりたかったのに違いなく、小説家なんぞになりたいわけではなかった。この「一夜」にも、「坑夫」にも、「草枕」にも、小説ではないという言い訳が書いてある。小説の書き方を知っていたわけでもなかった。ただ「猫」を書いたら偶然売れたのであとから小説というものはどう書いたら良いか試行錯誤したというのが当たっているのに違いない。

今と同じく当時も小説家になりたい人はたくさんいた。樋口一葉も生活の足しにするために半井なんとかという新聞作家の弟子になって小説の書き方を学んだ。漱石はそれすらしていない。いきなり小説を書き始めた。今の人は小説家の型というものがあってそれを学ばなくては小説家にはなれないと思っている。ほとんどの人はそう思っているだろうが、夏目漱石はそうではなかった。小説のようなものを書いてみたら売れたから小説家になったのだ。出版社の編集者はああ書けこう書けという。それはただライターの都合だから、ほんとうに小説家になれるか、書いた物が小説になるか、書きたいものが書けるかということとはあんまり関係ないと思う。

「一夜」「二百十日」「草枕」はよく似ている。これらは実は三つとも同じモチーフから出てきたものではなかろうか、「一夜」をリライトしたものが「二百十日」「草枕」となったのではないか、という仮説を立ててみる。

となると「一夜」に出てくる二人の男と一人の女は、夏目漱石、山川信次郎、そして前田卓だったのではなかろうか。漱石にとってこの一夜のことは一生の思い出となるような興味深いものだったのではないか。しかし漱石は当時すでに結婚していたし、体験をそのまま書いては小説にもならないし、プライバシーもへったくれもない。しかし小説を書いた経験もほとんどない漱石としてはどう脚色すれば小説になるかもわからない(漱石は絵の描き方も知らずに水彩画を描き始めたり、バイオリンをいきなり弾き始める人だった)。そんなテクニックはまだ身につけていないのだ。だから詩人か画家の書いた朦朧とした小説、ということにした。漱石としてはもう少しまともな作品に書き直そうと思って、「二百十日」「草枕」ができたんだけど、この二つもなにやら怪しげな、小説らしからぬ小説になってしまった。というあたりが真相なのではなかろうか。

「一夜」にも漱石の詩が出てくるのだがこれは「草枕」にも出てくる。

春日静座
青春二三月 愁随芳草長
閑花落空庭 素琴横虚空
蟰蛸挂不動 篆烟繞竹梁
独坐無隻語 方寸認微光
人間徒多事 此境孰可忘
会得一日静 正知百年忙
遐懐寄何処 緬邈白雲郷

よほど好きな詩なのだろう。白雲という語は漱石や徂徠の詩にしばしば出る。荒井健・田口一郎 訳注『荻生徂徠全詩』によれば白雲は清浄な隠棲の象徴であるというが、漱石の場合それは具体的には熊本県天水町のことである、ということになる。遐懐、緬邈とは遠い熊本時代の思い出ということになる。独坐隻語無く、方寸微光を認むとあるが、必ずしもこれを信じる理由もない。彼の傍らには二人の友がいたはずだ。

人生は徒らに忙しい、山の中でたまたま一日静かに過ごすことができたがまた人の世界へ戻って行かなくてはならぬ。三十才頃の漱石の述懐だ。

蟰蛸挂りて動かずとは「一夜」に出てくる蜘蛛のことであろう。

「蓮の葉に蜘蛛くだりけり香をく」と吟じながら女一度に数弁すうべんつかんで香炉のうちになげ込む。「蟰蛸かかって不揺、篆煙てんえん遶竹梁ちくりょうをめぐる」とじゅしてひげある男も、見ているままで払わんともせぬ。蜘蛛も動かぬ。ただ風吹く毎に少しくゆれるのみである。
「夢の話しを蜘蛛もききに来たのだろ」と丸い男が笑うと、「そうじゃ夢にかす話しじゃ。ききたくば蜘蛛も聞け」と膝の上なる詩集を読む気もなしに開く。

私の本業は一応CGということになっている。世間一般が言うCGとは少し違うかもしれないが、CGを仕事にして生きている人の一人であるには違いない。私が若い頃CGはまだ未発達で、個人レベルでも新しい仕事が出来もしたのだが、今は何もかも発達してしまって、私一人いようがいまいが、CG業界には何の影響もない。私がやるよりもうまくできる人がいくらでもいるのに老い先短い私がわざわざやる必然性はまったくない。私は私にしかできない仕事がしたい。だからはやくCGの仕事なんてやめてしまって執筆活動に専念したいのだが(笑)、あいにく売文では食っていけないから仕方なく昔覚えた仕事を続けている。

私もまた小説でも書いて生活の足しにしようとかつて考えた一人であったから、漱石の気持ちを詮索したりしている。たぶんだいたい当たっているだろうと思う。こういう考察をした人はあまりいない、というか、全然いないのではないか。ちょっと調べれば「一夜」と「草枕」がこれほどまで類似していることはすぐに知れる。

こないだ書いたけどいつ出版されるかわからない本、というものがあって、もうこれ以上書くこともないのだが、書いたことが間違ってちゃいけないから出版されるまでにいろいろ調べているところだ。今の所大して訂正することはないと思っている。

八畳の座敷に髯のある人と、髯のない人と、涼しき眼の女が会して、かくのごとく一夜いちやを過した。彼らの一夜をえがいたのは彼らの生涯しょうがいを描いたのである。
 なぜ三人が落ち合った? それは知らぬ。三人はいかなる身分と素性すじょうと性格を有する? それも分らぬ。三人の言語動作を通じて一貫した事件が発展せぬ? 人生を書いたので小説をかいたのでないから仕方がない。なぜ三人とも一時に寝た? 三人とも一時に眠くなったからである。

髭のある人というのは明らかに漱石だ。

小説家が初期作品をリライトして長編に仕立て直す、ということはよくあることのように思われる。ヨハンナ・シュピリも「フローニの墓に一言」をリライトして「ハイディ」を書いたのだと私は思っている。

吾輩は猫である

仕方ないので『吾輩は猫である』を頭から通して読み始めた。

つい最近草枕4というものを書いたが、『草枕』が温泉旅館の女将を画工の目から見て描いた、当時流行っていた一種の暴露小説というか、自然主義小説というか、私小説の類いであって、また画工も漱石自身のカリカチュアであって、要するに『草枕』は漱石の自分語りというか、自分の実生活から取材してそれをそのまんまネタにした(当時の)現代小説である。

これに対して森鴎外の『阿部一族』などは全く別種の、純粋な歴史小説であり、ある対象を客観的に(あたかも医者が患者を観察するかのような視点で)記録したドキュメンタリーである。

『猫』は『草枕』とまったく同じで、猫の視点から描いた漱石そのものだ。漱石は教師をやったり、正岡子規と一緒に俳句を詠んだり、水彩画に凝ったり、新体詩を作ったり、バイオリンを弾いたりと、いろんなことを試してみるがどれも世間で評判になることはない、要するに世間によくいる、人よりもちょっとばかり高級な教育を受けたおっさんの一人、教養人の一人であった(そういう人を高等遊民というのはちょっと間違っていると思う)。それで、世間ではやはり小説を書くのが流行っていたので、ホトトギスを主宰している子規から勧められて小説を書いてみることになった。そしたら非常に好評だったので八話まで連載することになった。『猫』はただそれだけのものだ。

『猫』を読めば漱石が常日頃持病の胃弱に苦しめられており、知人にいろいろ勧められて試してみてもどれも効果がなかったことなど、彼の日常がそのまま書かれている。彼の妻、子供たち、使用人ら、付き合いのある友人ら、彼の仕事、日露戦争当時の世情などが、多少おもしろおかしく改変されてそのまま出てくる。なんのことはない、これは田山花袋の『蒲団』と同じでただの私小説だ。むしろエッセイに近い。ホトトギスという雑誌は新聞のように一般大衆が読むものではなかったのに違いない。それでも当時文芸に携わっている人はほとんどもれなく読んで、それでやっと漱石が世間に知られたというわけだ。そのことまでが全部第二話には書かれている。

国会図書館デジタルライブラリでホトトギスの誌面も見てみたのだが、筆名は「漱石」とだけ書かれていて、これが子規の友人である夏目金之助という人だとはすぐにはわからない、最初はほとんど匿名に近い投稿だったと思われる。挿絵が入っているのだが、これがまた話とは何の関係もない、日露戦争とか朝鮮の絵なのがおかしい。この挿絵、とっくに著作権保護期間は過ぎているはずだが、公開範囲は「送信サービスで閲覧可能」になっているからここに貼ることはできない。

漱石は私小説『猫』を書いてそれがたまたま当たったので『坊っちゃん』を書いた。『坊っちゃん』もまた私小説ではあるが、だいぶ脚色されている。それで『坊っちゃん』も当たったので今度は少しひねって『草枕』を書いたがこれまた一種の私小説であった(『草枕』はモデルとなった女性については漱石の妻が詳しく記述しているし、漱石が温泉を訪れた時のことも詳しく調べられているから、どういう素材をどういうふうに加工してああなったのか、分析するのにちょうど良い)。『草枕』も、評判は悪くはなかったがそれほど当たらなかった。自分自身のネタがだんだん尽きてきたので今度は他人を取材して『坑夫』を書いた。しかし『坑夫』にもある程度漱石自身が投影されているように思える。たぶん自己の体験と取材対象からの聞き取りを適当に混ぜ合わせて話を作ったのだろう(私が一番しっかりと、たびたび読み返したのは漱石の作品は『坑夫』である。だから『坑夫』のことは漱石の作品の中では一番良く知っている)。

でまあこのあたりで教員をやめて朝日新聞専属の作家になったりしたもんだから、まじめに(?)小説を書き始めた結果が『こころ』などになった。夏目漱石という人はただそれだけの人だったように思う。

それで、普通の人は、高校生くらいで教科書で『こころ』を読まされて、それで『猫』の冒頭部分やら『坊っちゃん』などをちょろっと読んで、あー俺も夏目漱石わかるわかると思って、夏目漱石という人は偉い人だな、俺にもわかるわーとか思って、それ以上漱石とはどんな人だったかなんてことは深くは考えない。『猫』にしても全部を通して読んだりしない。読んだとしてもさらっと流し読みしてそのまんま忘れている。要するに社会的に記号化された、記号としての漱石は知っているが、漱石とは何かというところまでは考えたりしない。試験に出るから覚えているだけのことだ。小林秀雄にしてもそうだ。世間で偉い文芸評論家だというから、ちらりと読んでみて、記号としての小林秀雄を知っているだけで、なぜこの人はこんなことを書こうと思ったんだろうというところまでは考えない。小林秀雄は漱石ほど頻繁に名前が挙がることはなく試験に出る頻度も少ないから知らない人は知らない。逆に漱石はみんなが知っている。ただそれだけのことなのではないか。

ほとんど無名時代の漱石が、ほとんど匿名で寄稿したこの一話読み切りの『猫』を当時の感覚で読んでみないことには『猫』を玩味することはできないと思うのだ。予備知識や先入観をできるだけ捨てて。そうしないと漱石という人がわかってこない。

『猫』で、猫の絵を描いているのだが目が描かれてないとか、猫なのか熊なのかわからないとか、色も全然違うとか、人の描いた絵を見ても何が描かれているか察することができないとか、そういうのは漱石が自分の絵を人に見せて言われたことをそのまま書いているのだろう。実際漱石は目を描くのが下手だと思う。目を描けない、顔や表情を描けないのでは絵描きになることはできまい。

インターネット即時投票会員

新御徒町、というより、佐竹商店街に、「佐竹や」という店があって、私はあまりブログでお店の紹介はしないのだが、どうもこの店は情報が少なすぎる。何曜日何時に開店するということがどこにも書いてないし、店の前までいくと確かに何時から開くと張り紙がしてあるのだが、現地にいかねばわからぬのでは意味が無い。しかもその張り紙どおりに開店しないこともある。

それで最近は開店中は instagram でライブ配信するようにしたという。これならインスタグラムを見れば店をやっているかどうか、誰が店に立ってやってるかがわかるというわけだ。

この店は鹿児島出身の「社長」と呼ばれている人がやっていて、鹿や熊、アナグマなどのジビエ肉を中心に、いろんなメニューが張り出されているのだが、仕入れが少なくて今年の分は今日で終わりみたいな、すぐに売り切れそうなものははじっこの目立たないところに貼ってある。ゼンマイの酢味噌和えとかセリの白和えとか。それがまたうまい。それでここは油断のならぬ店である、と思った。

社長の他にもう一人、トリトン海野さんという芸人さんがいることがある。ラッパ漫談というものをやる人で、落語家の名は愛国亭日の丸という。話をするととても楽しいが、話芸を商売にする人であるから、タダで聞くのは気が引ける。こないだは競輪や競艇なんかのオンラインの賭け事の話をしていた。自分では誰が当たるかわからんので良く当たっている人に乗っかってその人が賭けるとおりに自分も賭けるのだそうだ。その乗っかられる人は、競馬の予想屋のように儲かる仕組みになっているのですかと聞くと、いやそうではない。ただ大勢に乗っかられるのが好きでやってるだけだという。

競馬も今はそうやってスマホアプリで賭けられるという。スマホで賭けると儲かってもすべて税務署に収入を知られてしまうので面白くないんじゃないか、みたいな話をしたのだが、いや、一度に100円とか200円くらいしか賭けないから儲かったところで大したことはないという。確かにそういう遊び方もあり得る。競馬だと土日しかやってないが、競輪競艇だと毎日平日でも日本のどこかしらでやっているから、いつでも賭けられるんだそうだ。まあそういう遊びもやってみたら面白いのかもしれん。

違法なオンラインカジノとかオンライン賭博というものではなくて、「インターネット即時投票会員」というものになってスマホで舟券を買ったりするのだという。こういう遊びが流行るとますますわざわざパチンコ屋に行く客は減るよな。自宅でだらだら酒飲みながらスマホで賭ける。楽で良い。或いは仕事の合間にチョコチョコ賭けられる。むしろ楽過ぎて便利すぎて大丈夫なのかとも思う。大阪万博跡地にカジノを含めたIR (integrated resort) を作るって話があるけど、スマホで合法的に博打ができるんじゃ、みんなスマホで済ませるんじゃないのかなあ。

まあしかし株もあれはあれで立派な賭博だとは思うのだが。

岩の井

某房総料理の店で千葉の地酒というので銘柄を聞いたら「岩の井」という、その酒を飲んだのだが、私が飲んだのはラインナップの中でも一番安い、山廃仕込辛口、一升瓶で2000円くらいのものであったと思う。

岩瀬酒造のサイトによれば

カルシウムやマグネシウムが多いと養分が多く発酵が旺盛します。硬度の高い水を使用し「山廃酛」で仕込みをすることで旨味のある、濃醇で酸味のしっかりしたお酒になります。

とのことで、確かに、熱燗にしても甘みをほとんど感じず、しかしきちんと味はあって、しかもなんだかピリピリ刺激がするのは酸味であったのかもしれない。

この酒はたぶん特に極端なのだろうが、この酒を飲んでしまうと菊正宗ですら甘く感じてしまう。もう少し高い酒を頼めばもっとまろやかなのだろう、と思った。

それで小林秀雄は毎晩、菊正宗の熱燗を二合しか飲まなかった、

家にいて、客のない日は、夕方六時からが晩酌である。一日二合と決めていて、その二合を李朝の刷目(はけめ)徳利や日本の桃山時代の備前徳利、李朝の井戸盃や桃山時代の黄瀬戸盃など、何百年にもわたって使いこまれてきた古い器でゆっくりと飲む。(小林先生の酒 著者: 池田雅延

というような話をいろんな人にしたのだが、いや、したかったのだが、誰も小林秀雄を知らない。それあなたの友達ですか、と言われた。だからそれ以上話が続かなかった。

小林秀雄って誰かということをどう説明して良いか迷ったのだが、彼は結局、それまで、ものを書くついでに文芸批評もしたというような作家はいたかもしれないが、日本で作品を書かずに批評だけで飯を食っていけた最初の人であり、昭和の終わりくらいまでは生きていた人だから、誰もが知っているものだと思っていたが、今の令和になってみれば、ほとんどの人が最初から知らないか、忘れてしまっているのだ。

岡田斗司夫やひろゆきなんか今の評論家などは元をたどればみんな小林秀雄にたどりつくと思うのだが、その大元の小林秀雄をみんな知らない。いや、ひろゆきはともかく岡田斗司夫を知っているのは一部の人だけだろうか。

日本文化の恣意的な切り取り

ドナルド・キーンに「三島由紀夫」という文があり、その中で彼は三島が自決に際して詠んだ辞世の歌2首を紹介している。

散るをいとふ 世にも人にも さきがけて 散るこそ花と 吹く小夜嵐

益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜

キーンは

この二首は彼の最後の短歌であると同時に、昭和十七年(一九四二)、十七歳の吟以来、最初の短歌でもある。

と言う。この十七歳の吟とは「大詔」という詩のことであろう。

やすみししわご大皇(おほきみ)の
おほみことのり宣へりし日
もろ鳥は啼きの音をやめ
もろ草はそよぐすべなみ
あめつちは涙せきあへず
寂としてこゑだにもなし
朗々とみことのりはも
葦はらのみづほ国原
みなぎれり げにみちみてり
時しもや南(みんなみ)の海 言挙(ことあげ)の国の首(かうべ)に、
高照らす日の御子の国 流涕の剣は落ちぬ
時しもや声放たれぬ 敵共(あだどち)の船人
玉藻刈る沖にしづめぬ、
かちどきは今しとよめど
吉事(よごと)はもいよゝ重(し)けども
むらぎものわれのこころは いかにせむ
よろこびの声もえあげずたゞ涙すも

祝詞かなにかのように、古語で、大和言葉だけで詠まれているようにみせて実は「寂として」「朗々と」「流涕」は漢語である。

三島が割腹自殺したのは11月25日である。しかし「散るこそ花」とは桜であろう。季節があってない。またキーンによれば「今日の初霜」と詠んだのは3ヶ月前の7月であったらしい。要するに三島はその場で歌を詠んだのではなくて、かなり久しい以前からこれらの辞世の句を準備していた、ということになろう。長い時間をかけて巧んだ結果がこれだ、ということだ。

三島はたぶん居合刀のことを言っているのだと思うが、私は、そんな鞘鳴りするような刀を見たことがない。居合の演武で、刀が鞘とぶつかってカタカタ音がするなどというぶざまなことはほぼあり得ないと思うのだ。けなしているというより、違和感を感じるというか、何かぎこちない、ちぐはぐな、作り事めいたものをこれらの歌から感じるのである(おそらくそれは三島作品すべてに言えることだろう)。

歌の嗜みがない人が辞世の歌だけはあらかじめ用意しておく。さいとうたかをの『鬼平犯科帳』には磔になる罪人が辞世を代詠してもらう話があるけれども、そういうことはあっても良いと思う。その上で敢えて言わせてもらうが、和歌というものは、無意識のうちにその場ですっと出てきたものが良いのである。巧んで時間をかけた作り事はすぐに見破られる。異臭がするのだ。作為の後が残る歌はダメだ。そのため歌人はふだんから歌を詠みならして、口慣らしをして、自然と歌が出てくるようにしておく。そうしていくつもいくつも歌を詠んでいって詠草がたまっていって、その中にたまたま良い歌が混じる。歌とはそうしたもののはずだ。

三島はおそらく居合を習ったのだろう。腰に刀をさすようになった。試し斬りもしたであろう。鞘が鳴るたびに(おそらくそれは幻聴であろうが)、自決を、あるいは蹶起をうながされているような気持ちになる。その誘惑に、その衝動に、もう何年も耐えてきた。そしてついに今日自決するのだ。今朝、目の前には白い霜がおりている。もちろん腹を切るのも日本刀。介錯で首を落とすのも日本刀。私には戯画としか思えない。

三島由紀夫という人は歌人ではなかった、彼が生涯で詠んだわずか2首の歌、それも辞世の歌をドナルド・キーンがわざわざ取り上げるということに私は嫌な気分がしてならない。世の中にはいろんな歌人がいていろんな歌がある。ドナルド・キーンは日本文学の研究者だ。その彼がなぜこんな特殊で奇妙な歌をわざわざ論じなくてはならないのか。たまたま目に付いたからか。たまたま気になったからか。違うだろう。ある種の悪意、あざとさ、とでもいえそうなものを私は感じる。そこに私は恣意的な切り取りを感じざるを得ないのだ。

この世に存在したすべての日本人のうち、三島由紀夫はおそらく世界で最も有名な日本人であろう。

三島由紀夫はネイティブ並に英語が話せたのでそりゃあ外国人には受けが良かったであったろう。しかもハラキリ自殺までしたのだ。それがキーンの執筆動機か?

キーンは石川啄木についても書いている。キーンが歌人について一番まとまった文章を書いているのは啄木だ。なぜ啄木だったのだろう。啄木は日本を代表する歌人であろうか。最も偉大な歌人であろうか?

啄木は大和歌の破壊者であった。彼は最初まともな古語で和歌を詠んでいたのだが、途中から疑似文語とでもいおうか、へんてこりんな言葉で歌を詠むようになった。彼がきっぱりと因習を離れ、すなおに現代口語で歌を詠むならそれはそれでよかったのだが、大和言葉を変に改造した、気持ちの悪い人工言語を発明した。それは大和言葉をゆがめ、その血に毒を流し、死に至らしめる作用をする。啄木は意図的に大和言葉を殺そうとしてああいう歌を詠んだし、だからこそ啄木は名声を博したのである。おそらくドナルド・キーンはそのことを十分に察知していた。啄木という腹黒い男のことを熟知していたからこそ、ほかの歌人はほっといて、この明治の文明開化期に出てきた旧時代の破壊者啄木を取り上げたのだ。啄木だけを取り上げるということは啄木と対極にいる保守的な歌人らを暗に否定しているのだ。キーンもまた啄木の一味だということだ。

世間ではメディアの切り取りということがしばしば問題視されるが、ドナルド・キーンが、さまざまな日本の文物を見渡した上で、三島由紀夫とか、足利義政とか、石川啄木のような、尋常ではない部分を敢えてピックアップして蒸し返し、さも普遍的な日本文化であるかのように紹介することは、日本文化というものを奇形たらしむることになりはしないか。

東京

小林秀雄に、昭和35年に書いた「東京」という短文があるが、そこに

独酌に好都合な飲み屋は、戦前までは、東京の何処にでもあつたのだ。料理も出ないし、女もゐないが、酒だけは滅法いい。さういふところには、期せずして独酌組が集まるものらしく、めいめい徳利をかかへて空想したり、考へ事をしたりしてゐた。ああいふ安くて極めて高級な飲み屋が広い東京のことだ、まだ一軒くらゐありはしないか、と時々思ふ。

などと書かれていて、料理が出ないというのはつまり、乾き物くらいは出たのだろうし、女はいないと言っても酌婦の婆さんくらいはいたのだろう。つまり今で言う、しゃれた小料理屋というのではない、普通の居酒屋のことを言うのだろう。

戦前の「滅法いい」「極めて高級な酒」というのがどういうものだったか。まったく見当もつかない。ただ酒を飲みながら一人で考え事をしているというのも、今の雰囲気とはだいぶ違うように思える。

似たようなことを書いている記事をみつけた。もひとつ。菊正宗のようなものであろうか。

晩酌の酒は、ふだんは灘の「菊正宗」だったが、これも、「菊正宗」であればよいというものではなかった。今では造り酒屋の蔵から町の酒屋の売場まで、輸送や保管にあたっての品質管理もすこしはマメに行なわれるようになったらしいが、先生がお元気だった昭和四十年代、五十年代はその方面の意識そのものが低かった。

先生は、家で飲む「菊正宗」は、そのあたりのことをよく知っている酒屋から買っていた。

なるほど、菊正宗の中でも上等で、しかもよく管理されたものを好んでいたということか。

菊正宗は確かに甘ったるくなく、燗に適している。温めるとそれでもそれなりに甘くはなるが、味けない端麗辛口などよりは良い。