アメリカ雇用統計

いつものように素人考えで書くんだけど、アメリカの雇用が良いわけがないよな。一部の企業と不労所得者が調子良いだけで、一般市民は相当苦しんでいるはず。だから物価を下げなきゃいけない。物価を下げるには金利を下げなきゃいけない。金利を下げるとドルの価値が下がるからアメリカの借金が増える。借金を増やしたくないから金利下げられない。そうすると物価がさらに上がる。物価を上げることで借金の増加を見た目少なく見せている。つまり借金を一般市民に押しつけている形だ。

要するにアメリカが借金しているから物価が上がってそのツケが庶民に回って、治安は悪化し、でもまだ民衆が暴動起こしたりしないから(いやもうしてるのかもしれないが)、なんとかもっている。

AIバブルそのものははじけないかもしれない。AIバブルを維持しているのは富裕層であり巨大企業で、彼等は別に困ってないからだ。

AIバブルを壊すとしたら銀行破綻か。銀行破綻はいつ起きる?雇用が悪化して庶民が借金を返せなくなったとき?

株も弱い、不動産価格も上がりすぎている、金利も下がるとなると、AIでいくら儲けても、金を待避させることができない。となるとさらにAIに投資するしかない。AI投資はまだあと2、3年はもつだろう。ほんとうならとっくにバブルがはじけているはずだがAI景気は続いているからなんとかもっている。というところか。

結論ありきな悩み

隣の家がまた外壁から車までご丁寧にケルヒャーで洗っててうるさいから耳栓していたら宅配便が来たのに気付かず再配達してもらうことになった。まったくケルヒャーというやつは大迷惑だ。あんなものでちょっとばかし車や壁がきれいになったからといって何の意味があるんだろう。隣の家は小うるさい犬も飼っていて毎朝散歩に出るとき吠えてうるさい。飼っている人間の自己満足のために私はいつもイライラさせられている。

犬もカラスも人間の子供もうるさいのは同じだがとりわけ犬には嫌な思いをさせられたから(深夜新聞配達が来るたびに一時間近く吠え続ける犬というのが昔住んでいた所の近所にいた)気に障る。

たった一軒の隣人のせいで隣人ガチャに失敗しているのが非常に悔しい。こいつのためにさっさと引っ越したくなる。ヘーベルハウスの営業をやっていた人の話をこないだ聞いたがヘーベルハウスは鉄骨で、鉄筋コンクリートではないが、特殊な壁を使って静かでエアコンの効きが良いそうだ。私が大金持ちなら隣人に煩わされることなく広い敷地のヘーベルハウスに住むんだがなあ。

ある店で串焼き屋をやっているという中国人経営者に会い、忘れないうちにとその人の店をたずねてみたのだが、この店主は、ゴルフ場もいくつも持ってる大金持ちらしく、なぜあなたはあの店を気に入っているんですか、と聞いてみると、いやあそこはタバコが吸えるから休憩に寄っているのだ、食事もせず酒も飲まず、ノンアルコールだけたのんでタバコだけ吸っている、などと言っていた。なるほど自分の店は禁煙なので、よそで吸ってくるしかない。私も昔からのお付き合いであの店の前を通りがかったら寄っていたけれども、煙いだけなのでもう行くのはやめようかと思った。

その店は中国風の味付けのラムの串焼きを出す。中国人は内陸にいくとみんな羊を食べているようだが、日本人はあまり好きじゃないだろうと言っておいた。私は好きだから行ってもよいのだが、はたして流行るかどうか。

アンパンマンで、何のために生まれてきて何のために生きるのか、などというシュールな問いかけをしているが、すぐにネタバレしてみんなのために生きるのだ、愛と勇気が友達だなどと言っているのだが、単なる誘導尋問に過ぎない。あんなもので大人が感動しているのがわからぬ。ああいう結果ありきの予定調和のシリーズものの子供向けのアニメや漫画でほんとうに何のために生まれてきて何のために生きるのかについて考えられるはずがないではないか。子供にみせるものであればよい。子供がサンタクロースを信じるようなものだ。しかし大人があれを面白いとか感動したというのがわけがわからない。

永井荷風は死ぬ日まで昼は近所の定食屋でカツカレーを食っていて、血を吐いて、胃潰瘍で死んだというがそんな死に方をしたいとは私はまったく思わない。晩年ずいぶん持病を抱えて衰弱していたようだが、私なら適当な段階で安楽死したい。そんな死ぬ間際までふらふら食い歩きしたいとは思わない。

他人というものは自分の思い通りにならない面倒なものだから、コミュ障になるのは当たり前だと思う。初めて会った人とは社交的に会話できるが、二度目に会うと何の話をしたらいいかわからずしゃべれない。何度も会っているうちにますますしゃべれなくなるという話をユーチューブか何かでみて、私も最近そういう傾向があるなと思う。もうこれ以上人間関係を増やすのがめんどくさい。もういいかげん年寄りで老い先短いのだからどんどん人間関係を狭めていって生きて行くのに必要な人たちだけと付き合うようにするのがよいのではないか。職場や住む場所が変わるたびに、世田谷や川越や厚木や中野や浅草で飲み歩いてきていろんな人と会ってきたが、今ではなにもかもがむなしい。若者は良く何のために生まれてきて何のために生きるのか悩んでみせるがあれはほんとうの悩みではなくて、結論ありきなところへ自分を誘導する作業過程に過ぎないのだろう。ほんとうなら今までの人生を顧みて、年寄りがそういうことを真剣に考えるべきだ。若者には悩むだけの人生経験がないのだから悩みようがない。悩みようがないことを悩んでいるのか。年寄りは自分がAをやればBになり、CをやればDになるというデータベースを豊富に持っている。それらの経験をいちいち思い出して次にどう行動すべきか真面目に考えていればきりがないし、手詰まりにもなる。年寄りの引っ込み思案。逆に若者にはそのデータベースがないからとりあえずでたらめな手を打ってみるかという話になる。

で、たいていの年寄りは、ただ長生きしよう、生きられるだけギリギリまで生きていたいと人生に執着ばかりしているようにみえる。要するに最初から人生について悩むなんてめんどくさすぎるのだ。

参院選

投票率が低いと何がいけないかという問題だが、従来は自民党に対して与党で言えば公明党、野党で言えば立憲民主党や共産党などのコバンザメみたいな政党がいて、組織票を動員して自民党にゆさぶりをかける、ということがあった。最近はれいわなどもそうだったかもしれない。投票率が高ければそうしたコバンザメ政党による組織票の影響が少なくなり、相対的に政府与党が助かる、という構図はあったかもしれない。これはつまり自民一強時代があまりにも長く続き過ぎたから一つの定説のようになっただけのものであり、今の時代には合ってない。

民主党時代に懲りたので自民党以外に入れるのをためらってきたが(私は一度も民主党に入れたことはない)、今は国民民主とか、維新とか、参政党なんかに分散して票がはいるようになってきた。自民党が公明党を切って国民民主、維新、参政と、いわば保守連合のような形の連立政権を作るということもあり得て、それは与党から公明党を排除するという意味では悪い話ではない。

造船太郎が博打に失敗したのはかわいそうではあるがこれを教訓にしてなんかまたやらかしてもらいたいものだ。こういう人が出てくるのは面白い。

もはや誰も再生の道の話をしなくなった。アレはいったいなんだったのか。平野雨龍なる人を擁立した人たちというのは何者なのだろうか。

それはそうと参政党のさやという人は何者なのだろうか。わけがわからない。

立花孝史は選挙に勝てないのではしょうがないので、本人が言っているように余生は自分のために楽しく暮らせば良いと思う。

ブログ回帰

最近のツイッターは急速に劣化し始めていると思う。昔はツイッターはツイッターであり、フェイスブックはフェイスブックだった。

ところが今はツイッターもtiktokもinstagramもみんな同じになってきている。昔はフォローしている人のツイートだけ読み、フォローされている人から読まれるのが普通だった。しかし今は誰彼かまわず読まされる。そうするとみんながそれに感化されて、誰彼かまわず読まれるようなツイートばかりするようになった。これは要するにツイッターの tiktok化であり、instagram化である。別にもうツイッターである必要はない。

instagramなどはもうどこに誰が何を書いているのかすらわからない。勝手に読みたくも無い記事をだらだらと読まされる。facebookも最近はそれに近い。勝手に見たくもないコンテンツが流されてくるのであればもはや地上波テレビと同じではないか。

それで読みたい人の記事だけを読むというのであれば昔はブログだった。最近はnoteなどもそうかもしれない。twitter難民がnoteに流れているというのもなんとなくわかる。twitterでぶつ切れのツイートを読んだり書いたりするのが苦痛だったから、今私はブログに回帰してよかったとおもっている。twitterをやらずずっとブログだけやっていればよかったとさえ思う。わざわざレンタルサーバー借りて自分のブログだけ維持するのは面倒すぎるけれども、それ以外の雑用もあるからなんとか復帰できたのだ。昔からサーバーいじっていた私でさえそうなのだから、普通の人がわざわざ私と同じようなやり方でブログを書くはずがない。

では私がせっせとブログを書いたからと言って読みに来る人がいるだろうか。独立系ブログをやめてnoteで書けば読みにくるだろうか。そんなことがあるはずないってことはわかりきっている。以前booklogやカクヨムで書いていたことがあったが、何の効果もなかった。hatena には少し書きたい気持ちもあるが結局あのシステムとコミュニティが好きにはなれない。hatena やカクヨム、noteのシステムは悪くはないが、自分の好きなようにカスタマイズできるわけではないし、だんだん細かいところが気になってきて、結局自分で wordpress 立ててやるのが一番気楽ということになる。

いずれにせよ人に読んでもらいたいのならtwitterやnoteに書くしかない。私の場合当面読んでもらわなくてもけっこう。自分が現時点で書きたいことをリアルタイムで記録して公開できればそれでよい。

noteの投げ銭で儲けようという気持ちがまったく無いわけではないがたぶん儲からない。kindleのコンテンツでは『エウメネス』しか儲かってない。noteで何か自分の好きなことを書いてもkindleと同じことが起きるだけだ。自分が好きでもないことを書いて儲けようという気はないし、もし書いたとしても労力にはまったく見合わないと思う。

主権在金

「選挙は独裁よりも良い」という命題には、多少疑問の余地はあるものの、まあそれはそうなんだろうということにしておいてもよいが、「投票率は高ければ高いほど良い」に至ってはまったく何も立証されていないのに、そう信じ込んでいる人が多いのは非常に疑問だ。なぜ投票率が上がれば今まで選挙に行かなかった人たちが、自分が支持する人や政党に入れてくれるはずだと思えるのだろうか。

選挙に行かない人の心理は選挙に行く人には理解しようがないのであって、選挙に行く人、投票率が上がれば良いなと思っている人の心理も、そうでない人には理解できないのじゃないか。

戦後日本の選挙は一人一票でこれが主権在民、民主主義というものだと説明されてきた。税金を多く払おうが全然払ってなかろうが国民は一人一人投票する権利があるとされてきた。しかしながら今まで政党というものは、企業の政治献金で支えられてきたから、実は一人一人の主権が政治に反映されてきたというよりは、大企業が政治家を選んできただけだ。

では企業献金というものが裏金呼ばわりされて否定されたとして、しかしながら選挙に金がかかるのは変わりないのだから、結局金を持っているやつが候補者を立ててメディアを操作して自分が好きな候補を勝たせているだけではないか。最近では動画コンテンツで多少受けが良く、クラファンで金を集められるやつが選挙に当選しているだけではないか。

単なる主権在金、金主主義と呼ぶべきではないか。

なるほど確かに政治的にまともな発言をしている人もいないではないように見えるけれどもそれらの人に票が集まっているようには思えない。

政治献金というものがあったおかげで日本では日本という国をしょってたつ大企業が事実上の主権者となって国を運営し指導してきた。それはそれで、悪いところもあっただろうが良いところもあったに違いない。愚民が直接ああだこうだ政治に口出しするよりはずっとましだったに違いない。日本は誰がなんといおうと工業立国だ。電子立国だ。企業が国家経営を舵取りしたからこそ日本はここまで繁栄した。紛れもない事実だ。そのことによって日本国民がこれまでどれほど恩恵を受けてきたことか。これを善政と言わずしてなんといおうか。

しかし企業献金を殺し、パーティー券を殺し、企業主権、企業独裁の時代はとうとう終わりに近づいたようだ。これからどうするのか。一般市民に政治なんてできるのか。

「選挙の正統性」というものに疑義を挟むつもりは今のところ私にはない。少なくとも日本国民は普通選挙という制度を承認しているし、選挙で決まったことだから仕方ないと諦めがついている。みんなが諦めのつかないやり方で為政者を決めるよりは諦めが付くやり方で決めたほうが良いに決まっている。別の言い方をすれば、選挙よりもすんなりと万人が諦めが付く方法がほかにあるのであればそっちのやり方で政治家を選んだ方が良いに決まっている。諦めが付かない人が多ければ暴力沙汰になり暴動になり内戦になり戦争になる。それは嫌だからみんなしぶしぶ諦めが一番つきやすいやり方を模索した結果、西洋から輸入した選挙という制度を今は使っているのだ。もし人々が選挙という制度を疑いだして諦めが悪くなってしまえばおおごとである。選挙結果に誰も納得しなければいわゆる民主主義なんてものが機能するわけがない。だからみんなが「選挙に行きましょう」とか「投票率を上げましょう」と言っている間はなんとか平和なわけだから、そうみんなが思い込んでいるほうが安全なわけだ。選挙制度なんて結局おおぜいのひとが現状正しいと信じている虚構に過ぎない。便利な虚構であれば信じておいたほうが無難なだけだ。科学では「信じる」ことはタブーで「疑う」ことが正しい。しかし政治ではみんなが信じていることが正しいことであって、論理的に科学的に間違っていようが虚構であろうがかまわない、ということになる。それは、みんなが信じているという状態が維持されている間だけ正しい。アメリカに押しつけられた「日本国憲法」というものも便利な虚構なわけだ。

追記。やっぱりこれはアレだよな。新しく正しく良い思いつきをした人がまあ、仮にいたとして、その人が誰よりも先にちょっと突破口を作ったとして、その後は、その人に直接票が集まるのではなくて、後出しじゃんけんで、それを横から見てて、もっと顔の良い人が、もっとそれっぽく、正確さとか根拠にはロジックにはあまりこだわらず(というよりもともと理解できず)ただ勢いと受け狙いでしゃべれる人のところに、金が集まり、票が集まり、人が集まり、一大勢力になるんだろうな。

近況

楽天マート(旧西友ネットスーパー)で政府備蓄米(古古米)5kg が 1980円(税込み2138円)で売られていたので買って食べてみた(【数量限定】楽天生活応援米(備蓄米))のだが、普通にうまかった。これで全然アリだと思う。スーパーやドラッグストアやディスカウントストアで備蓄米売っているところはほとんど見当たらない。どういうことなんだろう。政府から備蓄米を仕入れて、自分のところで精米して、パッケージ化してと一連の過程を独自でこなせるところとなると楽天とかイオンなどの大手にならざるを得ず、従来の流通を通して売っているところは大して値下がりしてないということだろうか。数量限定とあるがあとどのくらい買えるのだろうか。イオンのカルローズ米は売っているところではまだまだ在庫はありそうだ。

最近の楽天は良く頑張ってると思う。昔マイクロソフトは嫌いだったが今はまあぎりぎり我慢できるようになってきた。楽天も昔は嫌いだったが、今はけっこう好きになってきた(昔の楽天が好きなわけではない。今の楽天が許容範囲になってきたというだけ)。

最近は古い映画も(サスペリア2とか雲のように風のようにとか)オンライン配信で見れるようになって、しかしながら、ブルーレイも同時に発売されていて、値段も非常に安い。ほんとうになんども繰り返しみたいものはブルーレイで買っておく価値はあると思うのだ。

セブンイレブンは自分たちがコンビニという社会システムを作ってきたという驕りがある。自分たちが勝手にコンビニというものを定義して良いのだと思っている。イトーヨーカドーにも同じ匂いを感じるが、接客マニュアルが私にはまったく合わない。同じことは吉野家にも言える。こっちが接客を決めて客はそれに従えという態度が気に入らない。何が接客かということは客の側が決めるものだろう。あるいは、客の側が何を望んでいるかを予測してそれに合わせたものを提供するものだろう。客がどう感じているかなんてまるで無視して自分らの都合を最優先して、嫌なら来るな、と言っているように見える。

立花孝史が街頭演説で「NHKをぶっこわせ」と言っているのをNHKがニュースで流しているのをみて、政見放送ならともかく、ニュースでこれを流すとはずいぶん時代も変わってきたんだなと思った。NHK自身が変わらねばならんということを十分自覚しているのだと思う。それでも、今回の選挙の主たる争点は「外国人問題」とはNHKは口が裂けても言わない。いったい何を信じて何を参考にすれば良いのか。やはりオールドメディアは亡びるしかない。テレビなんて早く死ねばいいのにとしか思えない。

ちまちました研究

例によって吉原ビッグエー。イオンのカルローズ米「かろやか」4kg 2680円と、あかふじ「いつものお米」5kg 3480円の選択肢があり、今回は「いつものお米」にしておいた。普通の「こしひかり」が 5kg 3980円で売ってあったんだが、まあずいぶん安くなっては来たけれど、銘柄米とミックス米食べ比べても私は大した違いはわからない。今後は押し麦なんかを混ぜて食べようかとも思っていてそれだとなおさら違いはわかるまい。なんならオートミールを食べても良い。世の中の人はまだまだ旨い国産米というものにこだわり続けるらしく見える。しかしなぜ?

Youtube や twitter を読むのも無駄だが、このブログを書くのも時間の無駄には違いない。このところちと久しぶりに研究というものをやってみたが、論文書いたり実験したりしているとあっという間に時間が過ぎていき、おかけで youtube や twitter なんぞをだらだらみたり書き込んだりしなくて良い。

テレビに比べれば youtube はまだましだが youtube もみすぎるともう見たくなくなる。たぶん1週間に1度くらい、あるいは移動中にスマホかなんかで見る程度にしたほうが良い。部屋の中にいてだらだらみてるのはよろしくない。

都議選とか参院選とかみてると、NHK党が一番まともな政党に見えてくる。ましかしこの年になって政治に何か期待してもそれもまた時間の無駄だ。無駄をなくして時間を節約したからといって定年過ぎればその時間も持て余すのだろうが、死ぬ日が来るまで何もしないのが一番良い生き方な気がする(時間があるからと無理に何かしようとするのが良くない)。

住んでみてわかったが吉原のあたりはほんとうに交通が不便だ。雷門か蔵前、新御徒町あたりに住むべきだった。家賃も大した違いはない。新御徒町はつくばエクスプレスにも乗れるし、大江戸線にも乗れるし、御徒町か上野まででればどこへでもいけるし、とにかく便利だ。ただ定年後まで東京に住む気はまったくないが。

都会はなんだかんだでうるさくて困る。人も車もビルも多すぎる。ビルは建て替えたり修繕したりでうるさい。車はうるさい。普通の家とみせかけてときどき工務店みたいに騒音を出す家がある。自転車も多い。ランニンガーも多い。ほんとうに邪魔で危険だ。マフラーを改造した原付が真夜中走り散らかしたりする。とにかくいちいち気に障る。便利なのは良いが不快でもある。そんなわかりきったことを言っても仕方ないが。実は、新しい建物も立たず、新しい人も入ってこず、しかし昔作られた社会的インフラがまだ機能している地方都市なんかが一番快適に住めるのではないか。いや絶対そうに違いない。仕事をしているときは東京の引力に負けて都心に引き寄せられてしまうが、定年後はわざわざ東京に住む必要はない。今のうちせいぜい東京の娯楽を楽しんでおき、東京を離れよう。

私はもう30才くらいに自分の研究者としての才能を見切ってしまった。私は研究者としてアカデミズムの世界で一定の地位を保てる程度の研究はできる人間だろうと思う。ここはまあまあ居心地の良い世界だから、定年まではここに居続けるだけの努力はしてもよい。しかしそれ以上の努力をしたとしても、私の研究が世の中を変えたりすることはまずない。特に私の専門分野はCGなので、CGなんてものは個人の研究者がああだこうだする時代はとっくに過ぎてしまい、GAFAMみたいな大企業が、日本でいえば任天堂とかソニーなんかが大金を投資してよってたかって研究する時代になってしまった。恐竜が闊歩する時代に蟻ごときが何をしても無駄だ。企業にはできぬ、個人にしかできぬような基礎研究をやる才能が私にあるかといえば微妙だ。そういう研究は、もしかしたらできるかもしれないが、成果が出る保証がまるでない。

たとえばアインシュタインみたいな天才的な科学者がいたとしよう。しかし1年間南の島にバカンスにでかけて、再び研究の世界に戻ってきた頃にはもうとっくに別の誰かが相対性理論を発表し、別の誰かが「アインシュタイン」というアイコンになって世の中でもてはやされていたはずだ。アインシュタインという人がもしいなかったとしても、1年かそこらで同じようなことを思いつく人はいたはずだ。あの天才数学者ガウスにしても、せいぜい10年も待てば彼と同じことを思いつく人は出たはずだ。

自然科学にはそうしたむなしさがある。芥川龍之介もなんか同じようなことを言っていたような気がする。自分が書かなくても近い将来同じようなことを書くやつは出てくるに違いないと。

ま、ともかく今回、ちょっとばかしの業績が業務上必要になったので研究をやってみたけど、さらにその研究を進めるつもりはない。私がやらなくても誰かがいずれはやるに違いないからだ。そんなちまちました重箱の隅ほじるような研究に時間を費やすくらいなら、何もせずぼーっとしていたほうがいさぎよい。科研費当てたとか外部資金とか助成金をいくらもらったとか。そういうのは所属している機関には評価されるかもしれないが、自分にとっては別段面白くもなんともない。そういうのが面白いと思う人は単に自分が属している組織や学会や世間に評価されるのがうれしくてたまらないのだろうけど、私は全然うれしくない。

今の生成AIとか暗号資産とか、ビッグデータというのはみんな同じで、ただひたすら金をかけて計算力を消費すればするほどもうかるからやっているに過ぎない。資本をもっていればいるほど結果が出せる。そんなことやって何が面白いのかと思う。昔のアポロ計画の頃はいくら国家予算がでかくてもAIに予算をかけることができなかった。かけたとしても成果がでなかった。今はやっとその社会的環境が整った。

今のアメリカは明らかにAIバブルなのだが、このバブルがいつはじけるか。AI技術は結局大企業や資産家にしか利益をもたらさず、経済格差が広がり、治安は悪化し続ける。だがアメリカ経済というかアメリカの国力にはまだ余裕があるから、それがただちに社会不安にはつながらない。アメリカ社会がフェンタニルで崩壊していくのを、アヘン戦争で煮え湯を飲まされた中国はざまあみろという気持ちで見ているだろう。

中国も(おそらくインドも)アメリカと同じ道をたどり、それでも国力に余裕があるうちは今のバブルははじけない。だが私はそんな世界に住みたくはない。そんなに儲かってはいないが、世界から隔絶した日本に住んでいるのが結局一番楽だという時代に入りつつあるのは確実で、そうなった先にどういうカタストロフィが待っているのか。

天長節

天皇も庶民も江戸時代までは数え年で、正月をもって誕生日としていたのだから、明治より前に天長節などというものがあったはずがない。太陰太陽暦で閏月があり、月の長さも一定ではなかったのに誕生日などというものが重視されたはずがない。閏月に生まれた人はいったい何年に一回誕生日が来るのだろうか(笑)。

今の右翼はただ明治政府が西洋の猿真似で始めたことを伝統とか保守とか言っているだけで、ほんとうの保守を知らぬ。夫婦同姓しかり(左翼は左翼で、関東大震災の後に植えた、たかだか100年ばかりしか立たない神宮外苑の銀杏並木を切るのが環境破壊だのなんだのと騒いでいる。中野サンプラザに至っては何が気に入らないのかさっぱりわからん)。

まず、明治政府がやったことで良かったことを復活させ、まずかったことを廃止する。

次に徳川幕府がやってよかったことを復活させ、悪かったことを廃止する。

足利幕府がやってよかったことを復活させ、悪かったことを廃止する。

鎌倉北条氏がやってよかったことを復活させ、悪かったことを廃止する。

摂家がやってよかったことは律令であろうと復活させ、悪かったことは廃止する。

それでやっとなんとかまともな保守と言える。

そこから先は記録が残っていないか曖昧だから、だんだんに手を付けていけばよかろう。

大和言葉だけで日常会話ができるくらいでなければ真の保守とは言えない。

今の右翼の(左翼も)知能はAIレベル。何が正しくて何が間違っているかなんてまるでわかってない。世間一般で信じられていることを事実だと思い込んでいるだけ。

沢庵

沢庵にカビが生えた。冷蔵庫に入れておいたのにカビるとは思わなかった。大根に生える青カビじゃなくてなんか気持ちの悪い白っぽいぶつぶつの吹き出物みたいなカビだった(最初は塩がふいたのかと思ったが違った)。カビが生えたのは一種類だけでほかのは無事だったようだ。どこのメーカーのがカビたのだろうか。今となってはわからない。

沢庵は難しい。真ん中あたりはうまくても端のほうがまずい沢庵もある。試しながらだんだんに商品を絞り込んでいくしかないのか。東京はものがあふれているがまともな沢庵やまともな梅干しを買うのは難しいところだ。

alt und lebensgesättigt

創世記25:8

アブラハム遐齡に及び老人となり年滿て氣たえ死て其民に加はる

明治元訳聖書

アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。

共同訳

「年満ちて」もしくは「満ち足りて死に」と訳されることが多いようだが、「生きるに飽きて」と訳されることもある。マックスウェーバー著、岩波文庫版『職業としての学問』など。

『職業としての科学』

アブラハムは、あるいは昔の名もなき農民は、「年老い人生に満足して」死をむかえた。

と訳している。この箇所、原文は

Abraham oder irgendein Bauer der alten Zeit starb »alt und lebensgesättigt«, weil er im organischen Kreislauf des Lebens stand, weil sein Leben auch seinem Sinn nach ihm am Abend seiner Tage gebracht hatte, was es bieten konnte, weil für ihn keine Rätsel, die er zu lösen wünschte, übrig blieben und er deshalb »genug« daran haben konnte. Ein Kulturmensch aber, hineingestellt in die fortwährende Anreicherung der Zivilisation mit Gedanken, Wissen, Problemen, der kann »lebensmüde« werden, aber nicht: lebensgesättigt.

となっている。旧約聖書はヘブライ語で書かれているからヘブライ語まで遡ってもともとのニュアンスを調べるべきかもしれないが、それは私には不可能だし、私にとっては、マックスウェーバーがどういう意図でこの言葉(ルター訳か)を引用したか知れば十分である。

lebensgesättigt は leben に gesättigt したということだ。gesättigt は wiktionary では nicht mehr hungrig 「もはや飢えていない」「おなかいっぱい」という意味であると記述している。英語では saturated という。語源となっている sat はおそらくラテン語由来であろう。

「おなかいっぱい」は満ち足りている、満足している、と解釈もできるが、飽き飽きしている、もうこりごりだ、という意味にもとれる。両方だとしてではどちらの意味に近いか。

マックスウェーバーは lebensgesättigt を lebensmüde と対比させて使っている。müdeは飽きたという意味もあるかもしれないが疲れた、眠い、だるいなどとという意味だ。昔の人は十分に長く生きて、つまり天寿を全うして死ぬことができた。しかし現代人は、人生に疲れることはできても、やることがもう無い、すべてやり尽くして死ぬことはできない、とマックスウェーバーは言っている。

なるほど彼が生きた20世紀前半はそうだったかもしれない。世の中には未解決の問題が山積みしていて、自分の一生では、自分の能力では、とうていそれらのすべてに手を付けることもできないし、すべてを解決することもできないし、結論を見てから死ぬこともできない。そもそもすべての事象を把握することすらできない。自分の周りのごく狭い領域の問題を認識できるに過ぎない。

マックスウェーバーは56才で死んだ。まだまだやり残したことがたくさんあっただろう。

しかるに現代に生きる私はどうだろうか。もう60才になったが、まだ今のところ死にそうにもない。

80才まで生きられるとしてあと20年間でいったい私に何ができるというのか、今までの60年間の人生と比べてこれからの20年間にどれほどの意味があるのか、いったいどんな未知の可能性が残されているのか、残されているとしても、それをやり遂げる気力が残っているのか、と思う。死ぬのは嫌だから生きてはいるけどそのことに積極的な意味が見いだせない。

若者が良く、20年間生きてみたがもう人生に飽きた、などと良く言うのだが、年寄りが、60年間生きてみたがもう人生に飽きたというのとは少し違う。というより、若い頃は人生に飽き、年を取ると人生に未練がましく執着するのが人間の習性のように思える。

或る人が1回目の還暦を迎えた。3回目の還暦まで生きたい、などといっていたが、180才まで生きて何が面白いのだろう。実に不思議だ。

ところでアブラハムはユダヤ人の始祖であるはずが、どうして民に加わるとか先祖の列に加えられる、などと言うのだろうか。アブラハムが最初のユダヤ人であるなら加わるというよりは最初にユダヤの民になった、というべきではなかろうか。違うのだろうか。

ユダヤ教では死後霊魂は復活の日まで封印されることになっている。天国も地獄もない。民に加わるとはそのことをいうか。