夏目漱石『草枕』の冒頭は有名な
山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
であるがその数パラグラフ後に
あらゆる芸術の士は人の世を長閑
にし、人の心を豊かにするが故
に尊
とい。
住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である。こまかに云えば写さないでもよい。ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧く。着想を紙に落さぬとも璆鏘の音は胸裏に起る。丹青は画架に向って塗抹せんでも五彩の絢爛は自から心眼に映る。ただおのが住む世を、かく観じ得て、霊台方寸のカメラに澆季溷濁の俗界を清くうららかに収め得れば足る。この故に無声の詩人には一句なく、無色の画家には尺縑なきも、かく人世を観じ得るの点において、かく煩悩を解脱するの点において、かく清浄界に出入し得るの点において、またこの不同不二の乾坤を建立し得るの点において、我利私慾の覊絆を掃蕩するの点において、―― 千金の子よりも、万乗の君よりも、あらゆる俗界の寵児よりも幸福である。
などと芸術論を語っているかのごとき部分がある。
人の世は住みにくい。その住みにくさを少しでもやわらげて住みよくするものが芸術である、芸術とはたとえば詩であり、絵画であり、音楽であり、彫刻である、などと言っている。
しかし漱石は決して、一般論としての芸術のことをここで論じたかったのではあるまい。まして西洋美術、西洋音楽などのことを言いたかったわけではあるまい。詩とはすなわち漱石が愛した漢詩のことであり、自ら作詩することであったに違いない。そうしてみると絵というものも実は漱石はプライベートに描いていたのではないかと調べてみると、けっこう描いていたということがすぐにわかるのである。
漱石の絵というものはしかしおそらくなにかの模写のようなものではなかったか。絵を描くのはもちろん難しい。しかしながら模写は割と誰でもできる。模写した絵は元絵があるのだが、その元絵から模写された絵というものはたいてい、構図とか画題は優れていても、なんとなくふんにゃりとしていてしまりがない。
画家が自分で描いた絵というものは、構図というか構成に主張があるし、何を描きたいかという画家の意思が見える。目の前の世界に対する感性がそこには表れている。模写にはしかしその意志がない。感性が鈍い。何を描きたいのか、その主張が弱い。個性が無い。そもそもこの人はなぜこの絵を描いたのか、描かねばならなかったのか、その必然性が伝わってこない。
写真もそうだが絵はまず世界から描きたい矩形を切り取らねばならぬ。写真と違い絵はその矩形を絵の具と筆で埋めねばならぬ。そうやって世界を解釈した結果が絵だ。その絵をみて感動した人がそれを模写する。漱石もそういうタイプの、絵を愛好する人だったはずだ。時間をかけて絵の修業をした人ではない。だからああいう、目力の無い、穴が空いただけのような目になったのだと思う。そう、人真似をして「絵」を描くことはできても「目」を描くのはむずかしい。
模写というのはつまり、私も画家のような絵が描きたいという願望だけがあって、絵そのものを描いているわけではないからだ。だから人物画でも目に力が無かったり、風景画でも配列が直線的であったりする。
漱石に画家の素養を求めるのは酷であろうが、詩は違う。漱石はかなり本気で詩を作っていた。自分の才能に密かに自信を持っていた。音楽と彫刻というのは単なる付け足し、目くらましであろう。要は、漱石は自分が漢詩を作る意味、意義というものをここで熱く語っているのである。漱石はイギリスで西洋文学を学び、それを日本に輸入し、それに基づいて小説を書く人だ、その規範となる人だと思われている。しかし漱石は江戸時代の荻生徂徠のような詩を作るのが好きであった。洋行するよりも作家になるよりもずっと前、子供の頃からそういう趣味があった。しかし漱石の詩を褒める人も、愛好する人もいなかった。漱石の描いた絵を珍重する人はいたが、漱石の詩は古めかしく退屈なもので、いわゆる旧時代の遺物のたぐいであって、何の価値もないものだとみなされていた。
漱石は漢詩はともかくとして自分の小説は誰もが注目していることを知っていた。その小説の中に、「草枕」の冒頭から少しずらして、読者がふと気を抜くあたりに、さりげなく、自分の熱い主張を埋め込んだのだ。漱石はさすがに自分の詩をそのまま小説に埋め込むことは控えた。しかし自分が詠んだ俳句はたくさんちりばめた。おそらく目くらましのためであろう、英語の詩さえ引用した。編集者に見せて、これは小説ではないと怒られただろうから、仕方なくストーリー性のある話にしたてて小説仕立てにして渡した。新聞社としては漱石先生が書いた紛れもない小説であるから掲載した。そんないきさつであったのではないか。
漱石にとって小説というものは世渡りのために書かねばならぬものであった。世の中は無理解なものであった。越すことのできぬもので、それを越してしまえば人でなしの国に行くばかりであって、人でなしの国は住みにくい今の世の中よりさらに住みにくいだろう。その住みにくい世の中で、自分にとって息抜きとなり、くつろぎとなるのが詩である。
明らかに漱石はそう主張している。
しかも、漱石はおそらく自分を芸術家だと思っている。小説家としてではない。詩人だと思っている。それが自分の天職だと思っている。人の心を豊かにするが故に尊いとまで言っている。なんという悲しい詩人ではないか。私たちは漱石のその悲しみを知っていただろうか。誰かそれを指摘した人が今までにいただろうか。
漱石は自分は王維や陶淵明のような詩人ではないと言っているがそんなことは当たり前で、どんな偉い詩人だって敢えて自分を王維や陶淵明と比較したり、まして張り合ったりしない。それ未満の、例えば日本の漢詩人とは比べようがあるくらいの詩人ではあるというプライドを持っていた。もしそんなプライドがなければ、自分の詩を自分の小説の中に入れて抱き合わせにして人に見せたりすることもできたろう。編集者に頼んで新聞に載せてもらうこともできただろうし、無理強いすれば詩壇の講師にもなれたかもしれない。しかし彼はそうはしなかった。誰かが彼の詩を評価してくれるのを待っていた。小説家としてではなく、詩人として評価されるのでなければ詩を人に見せたくはないと思っていた。詩とは違い俳句は漱石にとって単なる遊び、日々の座興に過ぎなかったから、自分の俳句を小説に載せることにはなんの抵抗もなかったようにみえる。
西洋の詩は無論の事、支那の詩にも、よく万斛
の愁
などと云う字がある。詩人だから万斛で素人
なら一合
で済むかも知れぬ。して見ると詩人は常の人よりも苦労性で、凡骨
の倍以上に神経が鋭敏なのかも知れん。超俗の喜びもあろうが、無量の悲
も多かろう。そんならば詩人になるのも考え物だ。
ことに西洋の詩になると、人事が根本になるからいわゆる詩歌
の純粋なるものもこの境
を解脱
する事を知らぬ。どこまでも同情だとか、愛だとか、正義だとか、自由だとか、浮世
の勧工場
にあるものだけで用を弁
じている。いくら詩的になっても地面の上を馳
けてあるいて、銭
の勘定を忘れるひまがない。
うれしい事に東洋の詩歌はそこを解脱したのがある。採菊東籬下、悠然見南山。ただそれぎりの裏に暑苦しい世の中をまるで忘れた光景が出てくる。垣の向うに隣りの娘が覗いてる訳でもなければ、南山に親友が奉職している次第でもない。超然と出世間的に利害損得の汗を流し去った心持ちになれる。独坐幽篁裏、弾琴復長嘯、深林人不知、明月来相照。ただ二十字のうちに優に別乾坤を建立している。この乾坤の功徳は「不如帰」や「金色夜叉」の功徳ではない。汽船、汽車、権利、義務、道徳、礼義で疲れ果てた後に、すべてを忘却してぐっすり寝込むような功徳である。
二十世紀に睡眠が必要ならば、二十世紀にこの出世間的の詩味は大切である。惜しい事に今の詩を作る人も、詩を読む人もみんな、西洋人にかぶれているから、わざわざ呑気な扁舟を泛べてこの桃源に溯るものはないようだ。余は固より詩人を職業にしておらんから、王維や淵明の境界を今の世に布教して広げようと云う心掛も何もない。ただ自分にはこう云う感興が演芸会よりも舞踏会よりも薬になるように思われる。ファウストよりも、ハムレットよりもありがたく考えられる。こうやって、ただ一人絵の具箱と三脚几を担いで春の山路をのそのそあるくのも全くこれがためである。淵明、王維の詩境を直接に自然から吸収して、すこしの間でも非人情の天地に逍遥したいからの願。一つの酔興だ。
芭蕉と云う男は枕元へ馬が尿するのをさえ雅な事と見立てて発句にした。余もこれから逢う人物を――百姓も、町人も、村役場の書記も、爺さんも婆さんも――ことごとく大自然の点景として描き出されたものと仮定して取こなして見よう。
今の人は西洋の詩にかぶれている。西洋の詩は住みにくい世の中から解脱することができない。しかし東洋の詩は幸いなことに住みにくい人の世を解脱している。自分は詩人ではないけれども、すこしの間でも、非人間的な天地に逍遙したいから、絵を描いたり、詩を作ったりするのであると。馬がしょんべんするのを芭蕉が俳句にしたように私はありとあらゆるものを大自然の点景として詩にしてみよう。これが漱石の信仰告白でないとしてなんであろうか。
現代において詩作は睡眠と同じくらいに必要であると漱石は言う。
漱石はたぶん新聞社の編集者から、或いは読者から、或いは弟子から、徳冨蘆花の不如帰や尾崎紅葉の金色夜叉みたいな通俗小説を書いてくれとか、ファウストを書いたゲーテやハムレットを書いたシェークスピアのような文豪になってくれと言われた。あるいはそんな小説の書き方を教えてくれと頼まれたのだろう。そうじゃないんだよ、自分はそういうものが書きたいんじゃない。詩人になりたいんだ、俗世間から解脱したいんだ、そんな自分は常の人よりも苦労性で、神経が鋭敏なんだよ。漱石は明らかにそう言っているではないか。だからこんな「草枕」みたいなへんてこな文芸論のような芸術論のような小説を書いてみせたのだろう。
そういえば「坑夫」でも
自分が坑夫についての経験はこれだけである。そうしてみんな事実である。その証拠には小説になっていないんでも分る。
などと最後の最後に余計な言い訳を付け足している。編集者は漱石がなかなか(幸田露伴や尾崎紅葉のような)小説らしい小説を書かないのでじれていたに違いない。漱石はいつも小説ばかり書け書けと言われて困惑していたに違いない。そして漱石が書いた小説はなぜかいつもよく読まれた。読者がついた。当代一の売れっ子作家であった。なぜなのだろうか。小説の終わりに「これは小説ではない」と言われると小説のつもりで楽しく読んだ読者(私を含む)は困ってしまう。いったいそれはどういう意味なのかと。
ウィキペディア「草枕」を見ると、「草枕」は芸術論、西洋芸術と東洋芸術の比較であると言っているが、それには違いないが、もっと端的に、詩人になりたかったのにどういうわけか小説家として名を成してしまい、詩人としてはまったく評価されなかった漱石という人の憤懣をぶちまけたものだと考えるのが正解だと思う。
松岡正剛の千夜千冊 『草枕』夏目漱石。なるほど。小説として読めばそういうことになろうが、漱石が言いたかったこと(というか訴えたかったこと)は私の解釈でほぼ間違いないと思う。
『猫』『坊っちゃん』のソフィスティケーションの奥の奥には、もとから『草枕』の俳諧漢文めいた雅趣低徊が鳴っていた。「深淵」とはそのことだ。
そんなもって回った言い方をしなくても良い。漱石は通俗小説より漢詩が好きだった。それがそのものズバリなのだ。