chatGPTなどはすでにかなりまともな和歌を詠めるようになっているようだ。少なくともふだん歌に嗜みの無い一般人が詠むよりはずっとましな、素人に毛が生えた程度の歌は詠めるらしい。そして一般人はそもそも、(五七五七七に整えられぬというだけでなく)良い歌と悪い歌の見分けがつかないし(だから歌が詠めないのだが)、さらにいえば世の中には良い歌と悪い歌を判別する基準すらないから(それは世間の評論家や歌人らのご高説をみれば明らかで、人間の怠慢とも言えるし限界ともいえる)、和歌などというものはchatGPT に詠ませておけばそれでたいてい用は足りる、ということになる。作曲もそうだろう。ゲームのBGMに使うような、なんとなくそれっぽい歌ならもう人工知能に作曲させておけばことたりる。キャラクターデザインも。背景のマップも。
では人工知能はこれから自学自習して、良い歌とは何か悪い歌とは何かまで理解するようになって、人間を超えて、ますます良い歌を詠むようになるだろうか。これはわからない。
もし、良い歌を詠む人がさらに人工知能に教育を施し、または良い歌を詠む人を人工知能が自分で見分けてさらに学習したとしたら、もっと良い歌を詠むようになるだろう。しかしそれは可能だろうか。
人工知能はなんらかの評価関数が無くては学習できまい。
人工知能は和歌のルールとパターンはだいたい把握してきたようだ。五七五七七で詠む。大和言葉だけで詠む。古典文法に乗っ取って詠む。ここまでは教えることのできる人はいる。これが現在の評価関数だ。ある種の状況設定も追加することができる。これもまた別種の評価関数だ。複数の評価関数を組み合わせてそれらの総合点を最適化するような答えを出してくる。なんとなくちぐはぐな、どこかでみたようなみたことないような、適当に混ぜ合わせたコラージュのような歌を出してくる。
しかし世の中には人工知能に和歌を教えられる人間がそろそろいなくなるだろう。もしいたとして、その人の和歌がほんとうに優れていると誰が決められるのだ。新聞やテレビの歌壇で講師をしている人たちの歌がほんとうに優れているのか?(今の評論家や知識人のほとんどすべては大衆の無知故に存在し得ている。彼らがこれまで人類の進歩を阻害してきたように、人工知能の発展をもまた妨げることも十分あり得る)それとも過去の膨大な和歌のデータベースや、歌学に関する評論や論文があればそこから良い歌とは何かということを判定できるのか。さらにそれらから類推してもっと良い評価関数というものを獲得していけるのか。そしてその人工知能が自ら獲得した価値観を、人工知能は人間に対して納得させられるかどうか。
いやそもそも、人工知能が詠んだ歌を見て、良い歌だ悪い歌だと人間が判定できず、人工知能が良いと言い張ったとき、それは人間にとって適した回答と言えるのだろうか。
わからん。人間が無限に賢ければ人工知能も無限に賢くなっていくだろう。しかし人間の賢さは明らかに有限だ。人間はいつまでたっても進歩しない。いつも同じような過ちを繰り返す。それは歴史が証明している。天才はたまには現れるかもしれないが、天才を凡才から見分けることは難しい。その見分けられるということがそもそも人間の賢さの一部であり、限界でもあるのだ。
人工知能が人間を追い越して賢くなっていくということはあり得るのだろうか。ある種の分野、たとえばプログラミングなどではあり得るかもしれない。評価関数がきちんと決められていて、その評価関数にさえ従えば、人間に教わることなく、どんな複雑な解でも計算できるとすれば。
しかし和歌はどうだろうか。私自身どんな歌が面白い歌か、いまだに知らない。いままでにみたこともないような歌が良い歌だとしたら、いろんな条件でランダムに生成した歌を取捨選択するなどしなくてはなるまい(無限の計算量があればある程度成果を出すことは可能かもしれない)。ましかし人間と人工知能が互いに影響し合ってだんだんに新しい評価関数を作っていくという未来は予測可能だ。
俳句は難しいと思う。何しろ短すぎて良いか悪いかそもそも誰にもわからない。
和歌は研究対象にするにはちょうど良い短さだと思う。プログラミングのような明確な解もなければ評価関数もない。そういうものをどうやって人工知能で解くか。
和歌を生成する評価関数はもうほぼ完成している。というより、近々完成するだろう。そうして生成された和歌が良いか悪いかというのは別の評価関数が決めることだろう。しかし、良い人生と悪い人生が決められないように良い和歌と悪い和歌も決められないのではないか。そんな評価関数は無いのかもしれない。しかし良い歌と悪い歌の違いは明らかにあるのだが。
というわけでchatGPTに質問してみた。
三島由紀夫が割腹自殺するときに詠むような辞世の歌を詠んでください。
ChatGPT:
三島由紀夫の辞世の歌を詠むとなると、その激しい精神性や、彼が抱えていた美学や思想が色濃く反映されることになるでしょう。彼の作品には、死や美、そして日本文化に対する強い思いが込められており、辞世の歌もそれらを反映したものとなるはずです。
例えば、次のような歌がふさわしいかもしれません。
「天地(あめつち)の
運命(さだめ)を知りて
命尽きぬとも、
我は今日も
美しきものを見し」
この歌には、彼が抱いた運命観や死に対する覚悟、そして美へのこだわりを込めています。「命尽きぬとも」という部分は、死が訪れようとも、自らの美学や世界観を貫き通す覚悟を表しており、最後の瞬間においても美しいものを見続けようとする彼の意志を示しています。
三島由紀夫のような人物の辞世の歌は、しばしば哲学的であり、自己の死をただの終わりではなく、何か壮大な意味を持つものとして捉えていたように思います。
三島由紀夫が自殺したのは11月25日でした。季節に合わせてみてください。
ChatGPT:
なるほど、11月25日という日は、三島由紀夫の死に深い意味を持たせるためにも、その季節感を取り入れることが大切ですね。11月は晩秋、枯れ葉が舞い散り、冬の足音が近づく時期です。そんな季節に合わせて、三島由紀夫が詠むような辞世の歌を考えるならば、彼が生きた美学や、秋の切なさを感じさせる言葉がふさわしいでしょう。
例えば、こんな感じの歌が思い浮かびます:
「秋風の
吹く空に舞う
枯葉一枚
命もまた
風にゆらめけり」
この歌には、秋風に舞う枯葉のように、命が無常であることを示唆しています。三島由紀夫は、自らの死を「風にゆらめけり」と表現することで、自己の運命に対する覚悟を感じさせ、同時にその儚さと美しさも強調しています。秋の風に舞う枯葉は、彼の死を迎えるにあたっての心情にぴったりの象徴となるでしょう。
また、11月という季節の冷たさや、静かな死を暗示する要素も取り入れられています。三島由紀夫は、自然との一体感や、日本的な美を重んじる人物でしたから、こうした自然の中に自らの死を見出すことは、彼らしい表現と言えるでしょう。
どうかな。まだまだ全然ダメだけど、これから先どうなるかわからん感じはある。私も課金してみたくなってきた。
Grokにも同じ質問をしてみた。
三島由紀夫が割腹自殺するときに詠むような辞世の歌を詠んでください。
三島由紀夫の精神や美意識を汲み、武士道や日本の伝統に根ざした辞世の歌を以下に詠みます。彼の劇的で荘厳な世界観を反映し、短歌の形式で表現します。
辞世の歌
散る桜
剣に魂
宿しつつ
大和の空に
消ゆともよし
解説(ご参考までに):
この歌は、三島が愛した桜の美と刹那、武士の精神、そして祖国への深い思慕を象徴しています。「剣」は彼の武人としての理想、「大和の空」は日本の精神性を表し、命を捧げる覚悟と美学を込めました。三島の割腹自殺(1970年11月25日)の際、彼は具体的な辞世の歌を残しませんでしたが、その行動自体が彼の美意識の結晶でした。この歌は、彼の生き様を想像し、敬意を込めて創作したものです。
もし特定のトーンや追加の要素をご希望でしたら、お知らせください!
三島由紀夫が自殺したのは11月25日でした。季節に合わせてみてください。
三島由紀夫が1970年11月25日に自殺した際の晩秋の情景を反映し、彼の美意識と武士道精神を込めた辞世の歌を短歌の形式で詠みます。
辞世の歌
散る紅葉
剣に魂
宿しつつ
大和の秋に
消ゆともよし
解説(ご参考までに):
11月25日は晩秋で、紅葉が散りゆく季節です。「散る紅葉」は三島が愛した美と儚さの象徴であり、彼の劇的な最期を映します。「剣」は武人としての誇り、「大和の秋」は日本の精神と季節感を表し、命を捧げる覚悟を表現しました。三島の行動に呼応する荘厳さと哀愁を意識しています。
ご希望のトーンや追加の調整があれば教えてください!
桜を紅葉に変えただけというのがGrokらしくてすがすがしい!あと三島由紀夫が辞世を詠まなかったというのは嘘だ。これまた実にすがすがしい!
どうもchatGPTは形式をないがしろにし内容にこだわる傾向があり(そして形式の間違いを指摘してもかたくなに直さない)、grokは形式さえ整っていればそれでよしとする傾向があるように思う。それにしてもchatGPTもgrokもいちいち和歌を改行するのはどういうわけか。
文法的語彙的に間違いなく和歌を詠めているかどうかを判定してくれるだけでかなり実用性はあると思うんだが、まだそこまで来ていない。