退屈なのは仕方ない

若い頃は10年後20年後30年後世の中がどのように変化していくかわからないから、windows、mac、linux など複数のOSを並行して使ってみる、などということをすることに意味があるかもしれない。ブラウザーも firefox、chrome、brave なんかいろんなものを試しに使ってみる。いろんな可能性を試し、いろんなことに保険をかけるという意味もあり、また柔軟にものごとに適用できるようになったほうがよい。

しかしながら、老い先短くなると、そんなにいろいろやっても仕方ない。自分が死ぬまでの間、一番慣れているものを使えば良い、ということになる。

定年退職するとヒマになるから linux をメインにして windows もサブで使う、みたいなことを考えていて、ubuntu を試しに割と使ってみたんだけど、結局いろんなところにいろんな不満が残る。microsoft にしても apple にしても世界中に多くの顧客がいて、ものすごい金と人が動いていて、それに比べれば linux のコミュニティは明らかに貧弱で、サービスを受けられないのは仕方ないとして、不具合を解決できないというのはもうどうしようもない。なので観念して windows だけ使うようにしようかと思っている。

ubuntu を使うならブラウザは firefox をメインにしようかとも思ったが、やはり firefox はかなりもっさりしている。特に youtube。firefox で youtube を見ているとときどきサムネイルの読み込みが止まったりする。やはり youtube は chrome と一番相性が良い。それはもう仕方のないことなのだ。

また brave も暫く使ってみて、結局 chrome と大差はない。少なくとも brave と chrome を両方並行して使う意味はあんまりない。だから、職場用のアカウントと個人用のアカウントを chrome で使い分けていればそれでいいじゃんという気になってきた。

やってみてわかったのは、ubuntu と windows を並べて2画面で使うよりも、windows 一つでデュアルディスプレイで使ったほうが、ずっと使いやすいってことだった。あたり前のことなんだがデュアルディスプレイだとウィンドウを片方にどかしたりもってきたりできる。別々のOSで使っているとそもそもマウスをOS間で動かすこともできない。マウスとキーボードが2つ必要になる。いろいろと面倒だ。

で、話は戻るが定年後ヒマになるから趣味を増やしたりOSやブラウザを複数使った方がよいのではないかとも思っていたが、それは逆で、やはりそこらあたりは極力シンプルに、断捨離したほうがよい。ヒマをもてあますくらいでちょうどよいのだと思う。一度、ヒマでヒマで死にそうになるくらいヒマになってみたほうが良い。それで、あれこれ手を広げて趣味を増やそうなんてしないほうが良い。ただもう、ほんとうにやりたいことだけを、毎日繰り返しながら死を待つというのが良い気がする。いろいろと貪欲にあれこれやってみるというのはやはり若者には有効でも、年寄にはなんの意味もない気がする。意味のないことをあれこれやっても仕方ない。

何もすることがないときは何もしない。ただ雑念がわいてくるのに任せてぼーっとしている。それが年寄の生き方というものではなかろうか。

サンテFX Vプラス

サンテFX Vプラスっていう目薬をさしてみたら、これがオレの目か、っていうくらい白目が白くなった。

最初から目薬させよって思った。

だがしかし今度から血管収縮剤の入ってない目薬にしようとは思った。見た目だけ充血が消えてもしかたない。

よく見たら使用期限2015年だった。今ではもうこの目薬ふつうに売ってない。

サンテPCなど買えばよかろうか。

カルト

白目が充血しているのは、手で目を無意識のうちにこすっているからではないかという仮説を立てて、意識して目をこすらないようにしてみたのだが、あまり効果はみられなかった。また、夕方よりも、朝起きたすぐのほうが充血が少なかった。

目が充血しているのはパソコンの画面の見過ぎ、目を酷使しすぎているせいだろうと思われる。右目より左目が充血しているのは左目を余計に酷使しているのかと思う。目が疲労して、栄養や酸素が足りなくなり、酸素や栄養を目にどんどん送り込まなくてはならないので、血量が増えその結果白目が充血するのだろうと思われた。

なので、暇な時間にはyoutubeを見るのではなくaudibleを聞くことにしてみた。ところが困ったことにaudible よりもyoutubeのほうが朗読にせよ講演にせよ音源がたくさんある。それでyoutubeで小林秀雄や渡辺昇一などを聞き始めた。

渡辺昇一が騎馬民族征服王朝説はおかしい、江上波夫が文化勲章を受けたのはおかしいと言っていて、その根拠としては古事記をはじめとする日本神話には馬が全然でてこない。出てくるのはスサノオノミコトが天照大御神の家に野生の馬の生皮を剥いで放り込んだという話だけだ、それに比べて神様が海からやってきたとか海の神様の娘と結婚したとか、陸を迂回して海を経由して攻め入ったなどという話はいくらでもある。

そもそも騎馬民族が大陸から渡ってきたのであれば、日本列島が島国であることすらわからなかったはずだ。なぜなら、本州の最北端まで騎馬民族が攻め入るまでは、日本が島でできていることはわからないはずだと。

そりゃまあそうなので、縄文時代からずっと日本は島国だってことは日本人は知っていたはずなので、その後に稲作が入ってきて、かなり短い期間で、稲作が広がっていって、その勢力がじわじわ東を圧倒していったということはあったかもしれないが、日本人というものは基本的には縄文時代と弥生時代では違いがないはずだ。

あと渡辺昇一は、小林秀雄という人は、ボードレールがポーなんかを批評していたのを真似して日本語で批評を始めた最初の人だなどと言っていた。なるほどそれ以前の例えば夏目漱石や正岡子規などの批評というのは荻生徂徠や頼山陽などの論説とほとんど連続していて、その根底には漢文の素養があるわけだ。小林秀雄が面白がられた理由は漢文ではなくフランス語の、当時のフランスの文芸批評の口ぶりをそのままそっくり輸入したからなのだ。

その小林秀雄が戦後敢えて本居宣長を書いた。誰も小林秀雄の「本居宣長」を理解できなかった。その理由の第一は小林秀雄自身にある。彼はもともと洋物の文芸批評をするはずの人だったのにそれがこてこての和物の評論を始めたのだ。しかも、敗戦後、国学などが徹底的に批判されていたときに。どうも小林秀雄という人は周りとことさら違うことがやりたい人らしい。戦前には、漢文調の論評が主流な中で欧文調の批評をやって読書人らに大いに受けた。戦後はその真逆をやってみたが、今度はさっぱり当たらなかった。そりゃそうで小林秀雄のファンというものはみな基本的に西洋かぶれで、和風な評論が嫌いなのだ。なのに、小林秀雄がまじめ腐って宣長を論じた。おもしろいはずがない。ただそれだけのことかもしれない。

それで、連載中は誰も話題にもしなかった『本居宣長』が単行本で出ると書いた小林秀雄本人がびっくりするくらいに売れた。これまたわけわからない。戦後しばらくたって、みんな宣長がわからなくなっていたころ合いに出たから、みんな読んでみようかと買ってみた。買ってはみたものの、結局読まず、まともに論評もされず、みんな書斎の飾りにしてしまった。実にばかげている。

それでも小林秀雄という人は恐るべき人で、本居宣長のかなり本質まで見抜いていた。見抜いていたけれどそれをおフランスの文芸批評の文体と論調で書いたものだから、とてつもなくちぐはぐなものができてしまった。小林秀雄はたぶん、ものすごく地頭(じあたま)の良いひとなのだろう。なんでも直感的に一瞬で見抜いてしまう。しかしそれを論理的に説明できる人では必ずしもない。だから彼の文章は悪文と呼ばれる。論理的に破綻している、または、何を言いたいのかわからない、ただのきどった美文だなどと言われ、私もほとんどの文章はそのたぐいだろうと思う。

江戸天保時代に宣長はあれほどの高さまで到達していたのに、今の人は全然宣長を理解できていないと思う。戦前の国粋主義者らもわかったようで何も理解してなかった。まして戦後の左翼には危険思想としか認識できなかった。小林秀雄はかなりのところまで肉薄していたが、しかしまだまだよくはわかっていなかったと思う。

渡辺昇一は宣長というひとはオカルティズムの人、スピリチュアルな人、精神主義な人であるという。小林秀雄が宣長は精神主義と言ったせいで国粋主義と誤解された、宣長や小林秀雄が言いたかったことはようするにスピリチュアリズムのことだ、などと言っていたがそれはそうだと思う。

宣長がカルトだったことはもちろん事実に相違あるまい。子供のころから仏教や儒教にはまり和歌を詠んだりするのはもともとそういう素養があったからだし、自分は親が神にお祈りして生まれた子だと宣長は生涯信じていた。この信仰心というものは、真正のものであれば仏教でも儒教でも神道でもなんでもよかったのだろう。

宣長に古事記伝が書けたのは、また、古事記を研究したいと思った動機は、彼がカルトだったせいではある。しかし、宣長も古事記もカルトであり、カルトとは古事記時代の原始神道、アミニズムでありシャーマニズムである、ということにはならない。

宣長は、いわゆる霊感の強い人、オカルティズムな人。古代日本のアミニズムのビジョンを見て、共感できる能力がある人だっただろう。しかし宣長の場合はそこで終わりではない。

宣長はもともと仏教にも儒教にもものすごく詳しい人だった。その彼が古事記を読んでいるうちに、さまざまな疑問がわいてきただろう。だから宣長はまず、日本古来の神道というものは本来どういうものであったかを再構築し、アミニズム、シャーマニズム時代の神道というものを仮定し、そこから、外来宗教の影響を受けずに自国内だけで純粋培養したらこうなったであろうという、本来あるべき、ピュアな、理想の神道を作ろうとした。つまり、キリスト教やイスラム教や儒教や仏教のような普遍性のある世界宗教を、それらとはまったく別にもう一つ、純粋に日本由来の素材から作ろうとした。そのためには理論武装しなくてはならない。理論武装した宗教とはすなわちカルトである。

宣長は、ナイーブな、外来思想と簡単に混淆し、免疫を持たなかった神道を作り直して、外来思想と簡単には混ざらない歯止めのある、理論武装した普遍宗教にしようとした。特に仏教やキリスト教に対抗しうる神学を構築しようとした。世界の原始宗教は、ギリシャローマの神話にしても、キリスト教やイスラム教などの普遍宗教によって駆逐されていった。同じことが日本でも、仏教や儒教の伝来によって起こっていた。宣長はそこに危機感をおぼえて、いつ外来宗教に浸食され滅ぼされるかもしれない弱い宗教である神道を鍛えて強い宗教にしようとした。彼はだから、不本意ながら、無理にカルトへ舵を切らざるを得なかったのである。彼はだから、上田秋成のナイーブさ、寛容さが我慢ならなかった。宗教とは不寛容でなくてはならない、さもなくばもっとものわかりの悪い不寛容な宗教、もっと排他的な宗教が現れたときに、おおらかで物わかりの良い寛容な宗教は一方的に浸食され、駆逐され、いつの間にか淘汰されてしまうからだ。つまり、神道もまた、世界の他の宗教と同じ程度には不寛容で排他的にならねばならない。日本人であるからには日本固有の宗教を最も尊び、他の宗教から守らねばならない。そのためには神道にも独自の神学が必要だ。宣長はそのロジックに初めて気づいた日本人であったかもしれない。逆の言い方をすれば宣長という天才が現れるまで、日本人は世界から隔絶していたおかげでそうした危機感をまったくもっていなかったということになる。今、川口市や蕨市で起きているようなことを宣長は天保時代に予見していたのである。宗教マニアの宣長だったからこそ、いちはやく、誰よりも先にそこに気付いた。

宣長が偉かったのはここまで完成度の高い神学理論を創始しておきながら、自分自身が教祖様になろうとは決してしなかったことだ。マルチン・ルターに似ているともいえる。

ところが、宣長の理論は彼の死後いろんな教祖様に利用され、あまたの新興宗教が生まれることになる。宣長にはそこまで制御することはできなかった。そしていまなお宣長は誤解されたままなのである。もし宣長がみずから新興宗教の教祖になっていたらこんな混乱と無理解は生じなかったかもしれない。

アルコールは怖い

気分が落ち込んでいるときに強い酒を数滴飲むと気持ちがすごく前向きになる。

しかし20〜30分もすれば血液の中からアルコールが代謝されてなくなり、気分が元に戻る、というか、反動でよけいおちこんだりする。

そもそもやる気ってなんなんだろうね。常に気持ちよく、前向きな状態を維持すると、気分は楽だよね。だから薬を飲む人もいるんだろうけど。

前向きな気持ちってそもそもなんなんだろうね。実はあやしげなものかもしれないし。

はてなブログ

朝食事して夜はできるだけ食べない、というのはある程度理に適っているな、とこの年になって思うようになった。若い頃は別にいつ食べようが、逆にしばらく食べてなかろうが、少なくとも体感的な違いがなかったが、最近は朝何かを食べないと頭に血が回らない(血糖値が低い?)気がする。

夜中に食っても寝るだけなのでそれは脂肪として貯めとくしかないわな。

そりゃそうと、こないだAIに面白いブログを探してくれと聞いてみて、あまりおもしろい答えを教えてはくれなかったのだが、結局はてなブログを丹念に探してみることにした。

はてなブックマーク開発者ブログに掲載されるランキングには匿名ダイアリーが多く含まれており、面白いっちゃ面白いのだが、特定の著者を追跡するのが難しい。アマゾンの匿名レビューと同じ。私は誰かの読者になりたいんだよ。togetter とかまとめ記事にもあまり興味はない。

はてなブログ週間ランキングはなかなか良い。とりあえず数十人読者になっておいた。これで購読リストを充実させると、「おとなり日記」で私が読みたい日記を探してくれるかもしれない。などという機能がはてなにあることはずっと前から知っていたのだが、結局このやり方が一番効率的で効果的かもしれない。

不確定申告(私のはてなブログ)を見に来る人もいくらかはいるようだ。久しぶりに使ってみたがあまり使いやすいとは言えない。これにも、一括選択して下書きに戻す、というような機能が無い。無料なので勝手に広告は付くし、レイアウトをいじるのも今更めんどくさい。やはり勝手知ったるwordpressだなと思う。

「はてなブログ」は昔は「はてなダイアリー」と呼ばれていて、「朝比奈アンテナ」の関係者が起業したのだったと思うが、その時代のことをリアルタイムに知っている人はほとんどいないだろうな。そう。朝比奈アンテナよりも先に「べんりくん」というのがあってこれが元祖だった。

はてなブログのアーカイブもとりあえず人気記事を探すには便利。

朝、血糖値が下がっているときに何か食べると胃に血が集まって余計に頭に血が行かなくなるような気がする(笑)。

退屈に耐える

ときどきSNSに振り回されている自分に気付き、嫌な気分になる。

飲食や旅行は楽しい。退屈も紛れるし、時間が有意義に過ごせたようにも思う。しかし年寄りにとっては必ずしもそうではない。いまさら娯楽に金を使ってもそれで経験値が上がったり何かいままでにない新たな出会いがあったり、人生に転換点が訪れたりするわけではない。年寄りにはなんの未来の希望もない。年寄りがやるべきことは諦めることしかない。悲しい言い方かもしれないが、年を取るということは実際悲しいことだし、それを認めなくてはならない。

食うほどに醜く太り、健康を害していく。酒を飲んで酔って良い気持ちになっても、それがなんの足しになるわけでもない。金持ちがやりがちなクルーズ船みたいな時間つぶしも、金さえあれば誰にでもできることで世の中に何も貢献することはない。

無駄に食わず、飲まず、旅行もせず、死ぬまでの空虚な孤独な時間を過ごすことこそが、年寄りにとって最も良いことだ。時間が余ると最初はやることがなく時間を持て余すかもしれないが、すぐに慣れる(理論上は)。退屈だからと何かをやるのが良くない。退屈に耐えた先に平安があるのではないか。退屈だからと貯金を崩して贅沢をしても虚しさが後に残るだけだ。良いメガネを買う、良い服を買う、良い時計を買う、ペットを飼ってペットと過ごす。そんなことになんの意味があろうか。

中年や老年の旅行系ユーチューバーとか。趣味系ユーチューバーとか。ああいうことをしていったいなんの意味があろうか。

自分を直視することは難しい。誰にでもできることではない。誰もが現実から逃げる。しかし逃げたからといって何も良いことはない。

と、言いながら。

これまでコツコツと老後楽しめるような趣味を模索してきたのだった。

仕事をこなした日の夕暮れくらいは、節度をもって飲み歩くくらいはよかろうと思う。飲みすぎて良いことは何もない。

蒙を啓く

啓蒙、蒙を啓く、という言葉がある。文明人の俺様がおまえら未開人に教えてやるよ、というようなニュアンスがある。

蒙だが、もともとは高木や藪に覆われた、昼なお暗い森林、というようなイメージらしい。

啓は、口に、手で戸を開くという意味が組み合わさった字であり、未開の地を開いて言葉で教え諭す、という意味があるらしい。

つまりこれはまさしく、縄文人に対して弥生人がやったような、あるいはギルガメッシュがフンババにしたような、源頼光が土蜘蛛にしたようなことを言うわけだ。同様の文明開化の体験を日本は幕末維新に追体験した。

なんでそんなことをいまさらいうかといえば、もののけ姫の本来のテーマはこの蒙を啓くということにあったはずだと思ったからだ。蒙を啓くとはつまり神を殺すことだ。神とは原始の森、蒙である。その蒙を開拓する。文明の光が差し込んで、タブーや呪術がなくなり、誰もが安心して合理的な社会に共存共栄できるようにする。神を殺したのは天朝様だ。日本の歴史というものはごくおおざっぱに言えば天皇が土着の神を殺した歴史であった。

というテーマというかコンセプトがもののけ姫には明らかに掲げられているのだが、おそらくジブリ自身がそのテーマについてあまり興味がなかったと見える。

設定がややこしすぎる映画

地上波は見たくないので、夕方飯を食う時などにてっとりばやくブルーレイとかネットに落ちている動画をみようということになる。

そんなわけで netflix だと私はもう「テキサスレンジャー」を何度みたかしれないが、私はこれが割と好きだ。

「もののけ姫」と「千と千尋」を比べたときに、ちひろに感情移入できる人はかなりたくさんいるのだろう。小さな女の子が突然世知辛い世の中に放り込まれ複雑な人間関係にもまれて、次第に仕事を覚え世渡りに慣れて行き、問題を解決して、聡明な女性に育っていく。運命的な彼氏もいれば、いじわるばあさんもいれば親切なお姉さんもいる。だから「千と千尋」がヒットするのはまあわかる。というか、宮崎駿は、モデルとなった少女にかんでふくめるようにわかりやすく、世の中の仕組みとか仕事とのかかわり方を教えようとしたわけだから、わかりやすくて当たり前なのだ。

いっぽう「もののけ姫」の主人公アシタカに感情移入できる人はほとんどいないだろう(アシタカは若いイケメンで戦闘能力高いという意味でファンになる人はいるかもしれないが、自分の境遇と重ね合わせられるキャラではないということ)。彼はエミシの族長となるべく生まれた男子だが、タタリ神の呪いを受けて、たった一人で郷関を出る。こんな境遇の人は世の中にはほとんどいない。大企業の社長の息子のようなもので、日本人の0.001%くらいしかいないだろう。

山犬に育てられた娘サンにしても、普通の女子がこの子に感情移入できるはずもない。

脇役のエボシ、ジコ坊にしても設定がややこしすぎて、こんな人たちの行動や思考をすんなり理解できるはずがない。

なんかよくわからない、破綻した話のように見えるのだが、しかし何度も見ているうちにこれらの人物やシナリオがすべてすっきりと説明できるように作られていて、おもしろいのである。だけどもののけ姫のほうが千と千尋より面白いと思う人は少ないだろう。

ラストも、あの時首をダイダラボッチに返していなければみんな死んでいたはずだが、ジコ坊はそのことに気づいていたかどうかはともかく、首をアシタカに手渡し、アシタカとサンは、まるでラピュタのパズーとシータのように二人でその首を差し出してダイダラボッチに返す。生と死をつかさどるダイダラボッチ(シシ神)が死んだことによってみな死なずに済み、アシタカの呪いも解ける。シシ神がいなくなることでタタリ神も存在しなくなり、呪いもなくなる。すべては丸く収まって(少なくとも人間にとっては)、ジコ坊もエボシもその結末に納得せざるを得ない。

そして天朝様にしても、不老不死の薬シシ神の首が欲しかったというよりは、シシ神という生死を操る制御不能な存在を地上から抹消し、人々が安心して住める土地を作ることが、シシ神退治の本当の目的であったかもしれない。古来、天皇がやってきたことというのは、縄文時代から続くわけのわからない呪術とか怨霊といったものを人間によってコントロールできるようにし、世の中というものを合理化して説明のつくものにしていくことであったともいえる。何もかも一応説明が付くように作られている話なので、たぶんもともと根底にはそういう設定があったように思われる。

今でも人間は宗教というわけのわからないものに脳を支配される存在であるが、一方で、理性と制度によってそうしたわけのわからないものができるだけすくなくなり、最終的になくしてしまうように努力している。そうしたものをもののけ姫はテーマにしているはずだが、となると、このもののけ姫というものは、あまり宮崎駿的ではなく(つまりストーリーがややこしすぎて宮崎駿的でない。だが映像演出は随所に宮崎駿的なものが満ちている。たとえばシシ神の森はトトロの森とナウシカの腐海を足したようなものだったり、タタラ場はラピュタの鉱山に似ていたり、乙事主らイノシシは明らかにオームの焼き直しだったり、とか)、誰か宮崎監督のほかに(民俗学的なものにこだわりがある)仕掛け人というか裏方がいたのではないかと疑われるのだ(高畑勲?うーん。そうかもしれないが)。

ははあ。なるほど。梅原猛が関わっているのか。神殺し、ギルガメッシュとフンババの戦いか。梅原猛はヤマトタケルも好きだったはずだ。だから、アシタカもサンも、ジコ坊も、全然宮崎駿ごのみのキャラじゃないんだな。エボシとかタタラ場の女たちはちょっとくらいは宮崎駿好みの要素が入ってそうな気はするが。エボシはナウシカのクシャナ姫だろう。

というわけでなんだかすっきりしないわけのわからない終わり方のようにみえて、いろいろと補助線を引いてみると、実はすべてが予定調和ですっきりしているのだけど、そこに気づく人はあまりいないだろう。だから面白いのである。少なくとも私にとっては。千と千尋は誰にでもわかる面白さだが、もののけはわかる人にしかわからない面白さだから、それに気づいた自分えらいとなる。

要するにもののけ姫は宮崎駿以外の梅原猛とか糸井重里とかいろんな人がいろんな形でかかわってきたからあんななんだかカオスなものになってしまった。ジブリとしては初めてCGも採り入れたりして、いろんな模索をしてたんだと思う。でもよく分析してみると一本筋のとおったコンセプトがあってそれでかろうじて破綻してない。もののけ姫で宮崎駿監督はほんとは何を言いたかったのか、また、鈴木敏夫プロデューサーは何をやりたかったのか、というよりも、ジブリは当時制御不能な状態にあってああいうものができてしまった、というのが実情だろうね。

そんで、なんだかんだあって、もののけ姫の反省から結局宮崎駿の個性で作品全体をまとめるしかないねみたいなコンセンサスというか諦めのようなものがジブリの中にできあがって、それで千と千尋ができたのだろう。ジブリはほんとうはもっと早く宮崎駿とか高畑勲の「個性」から脱して、もっとニュートラルな、属人的ではないアニメーションスタジオになろうとしていたのだけど、結局それは失敗したようだね。

もののけ姫で迷走し、千と千尋で当たってしまい、五郎にまかせてみてコケた。もうどうしようもないね。もののけ姫の段階でもっと試行錯誤しておくべきだったんだよなほんとは。そしたら何か新しい突破口が見つかったかもしれないのに。ジブリは個人経営のまま終わるしかないのか。

もののけ姫とまったく同じ理由でテキサスレンジャーの主人公の立場を理解でき、すんなり感情移入できる人はほとんどいるまい。ケビン・コスナー演じる主人公と同じ境遇の人なんてこの世に滅多にいるわけないのである。いるとしたら、そうだな、いろんないやな仕事をやらされてきたが定年まぢかでそろそろ楽になろうとしたときにいきなりやっかいな役職を任された人くらいで、私の今の立場に似ていなくもないが、そんな人は世の中にはほとんどいないはずだ。こういう映画をわざわざ作るというのはどういうつもりなのだろう。

ケビン・コスナーはアンタッチャブルでも嫌われ者の警官役だった。

テキサスレンジャーというのももともとは正義のヒーローであると同時に人権を無視してネイティブアメリカンやメキシコ人を虐殺した鼻もちならないアングロサクソン人だった。

アンタッチャブルを元ネタに俺たちに明日はないの主役をひっくりかえしてこのテキサスレンジャーという映画が作られたわけだが、やはり、なぜ誰がこの映画を作ろうと思ったのか、だれがこれを喜んで見るのかがよくわからない。そういうひねくれた映画だから私にとっては非常に面白いのだろうなと思う。

ホームランドも設定がややこしすぎるドラマの一つだろう。

ブラックリストは、設定はややこしいといえばややこしいが、ぱっと見はただのFBIのアクションものなので、そこがホームランドとは違う。ホームランドはたぶん、911で芽生えたアメリカ人の「良心」「内省」というものが作らせたある種の「懺悔」だろう。だがブラックリストは明らかに一般大衆受けを狙って作られた娯楽だ。

噛めばかむほど味が出るスルメみたいな映画というのがつまり私には面白いわけだが、しかしそういう映画は世の中から評価されにくい。されるのに時間がかかる。見たあとに勉強してもう一度みないとわからない。たぶん一般大衆からの評判なんかどうでもよくて、そういう映画を作っても良いよといってお金を出す人がいて、そういう人が作らないような映画をどうしても作りたいという人がいて、それでこういう映画ができるんだろうなあ。

この、でっぷりとおなかがでたケビン・コスナーを見ていると、どうしても、パルプ・フィクションに出てきたジョン・トラボルタを連想する。タランティーノは一世を風靡した一発屋の、腹の出たトラボルタをわざわざ映画に使いたかったわけだ。同じいじわるさをこのテキサス・レンジャーズには感じる。タランティーノは顔がパンパンに膨らんだレオナルド・ディカプリオも使ってるよな。そういうのが好きなんだな(しかしシャッターアイランドやインセプションのほうが早いか)。

空谷に吼える

世の中何もしないことが大事だ。何もせずに、しかし生きているうちは何事かをなす必要がある。矛盾しているようだが、年を取った今、そのことを余計に感じるようになった。HDDも30%くらいまで使ってあとはあけておいたほうが安定して動く。70%、80%くらいまで詰め込むと良いことは何もない。

誰が総理大臣になろうと私の残りの人生には何の関係もないことであって、そのことで頭を使うのは無駄だ。今の自分にとって意味のないことはやらない。

youtube動画にブッダの教えで、年を取ったら人に親切にするな、徳を積もうとするな、静かにしていろというのがあって、そりゃそうだよなと思う。年を取ると、付き合いは増えるし、ある程度の社会的地位やら貯金などが得られるからどうしてもそれを使って何かしたくなるのだが、そんなことをしたところでたかがしれているのであって、それよりは自分の心の平安のほうが重要だ。よかれとおもってやっても他人にはただおせっかいなだけかもしれないし、どうしても向こうから頼まれればそのときはじめて考えればよいのであって、それまでは知らんぷりしているのがよい。何かしゃしゃり出て老害呼ばわりされてはたまらないが、何もしなくて老害呼ばわりされるかもしれない。その見極めは難しいけれども、何もしないのは何も私に限ったことはないので、私も周りのやってるように何もしなくてそれで世の中つまんなくなってもそれは私ばかりのせいではあるまいよ。

職務上やらなくてはならないことはもちろんやる。問題は、職務上やらないよりはやったほうがよさそうなことをやるかどうかだが、これはもうきっぱりやらないことにする。ただし、暇つぶしにちょっとくらいは善行の可能性を探ってみても良いかもしれない。何か世の中のためになったほうが精神衛生的によいかもしれない。まったくさぼってたわけじゃないんだよとあとで何かのときの言い訳になるかもしれない。

SNS (特に twitter だが)、見ず知らずの人の発言に反応したり、絡んだりするのはもうやめる。中島敦の山月記に空谷に吼えるというのがあるが、twitterだろうとブログだろうと他人とはかかわりをもたずただ自分の書きたいことを書く。

もう私がこの世にしてやれることの9割はしてしまった。あとはのんびりやる。

久しぶりにもののけ姫を見たのだが「生きろ」と言われても困ってしまう。しかし私が勝手に死ぬと周りが迷惑するから死なないけれども、もうこれ以上生きても私には何もできない。あと望むことはできるだけ苦しまずに死ぬことくらいだろうか(「生きろ。」というキャッチコピーは糸井重里によるものだそうだ。だからなんか作品とあんまり関係なくて浮いてるのかなあ)。

エウメネス3を手直ししていたのだが、古代ペルシャにはボートの刑というものがあり、罪人を縛って小さなボートに寝かせて中を蜂蜜で満たし、さらにもう一つのボートで蓋をする。首は外に出しておいて砂漠のアリ塚か何かの上に放置すると、アリが蜂蜜ごと罪人の体を食べてしまう。そんな話を書いていたのだがもうすっかり忘れてしまっていた。

身動きがとれない状態で無数のアリに体をかじられながらゆっくりと、苦痛に耐えながら死んでいくというのはどれほどつらいだろうか。そんな死に方はしたくない。

とかなんとか、言っておきながらちょろっと言いたいことを書くが、ある人が「明治時代に井上毅のでっち上げたプロパガンダ」などと某ブログで書いているのだが、実際、井上毅はとんでもない歴史捏造をした人なのだが、彼一人の舌先三寸で、あるいは勅語の発布で日本人がみんな騙されたというわけではない。明治の天皇崇拝というものは多くの人々がかかわって長い時間をかけてできてきたものだ。どこかの国の将軍様のようにごく一部の独裁者が十年か二十年かそこらで急にこしらえたものではない。

それは明らかに江戸時代の国学や水戸学によって整えられたものだ。井上毅はそのあまり出来の良くない生徒だったにすぎない。井上毅は確かに天皇を絶対化しようとしたけれども、しかし生身の天皇が普通の人間であることもわきまえていた。天皇を絶対化した上に超人化しようとしたのはどちらかといえば伊藤博文だった。伊藤博文は常識人ではあったけれども明治天皇に対しては恐るべき迫害者だった。野蛮人で反逆者であったと言っても良いくらいだ。星飛雄馬の父一徹のようなものだった。

一方で井上毅という人はちゃんと欧米の論文を読んで理路整然と歴史を捏造した人だった。才子とか策士とでもいうタイプの人。彼は確かにすばやく嘘をでっちあげ国の公文書にねじこむことができる能吏ではあったけれども(彼自身は人をだますつもりはなく、彼が考えた歴史が事実だと思っていたフシあるけれど)、彼のロジックを利用しようとした人たちが相当数いなくては彼の理論が世に広まるはずがない。

追記: twitter に書いたことをここにまとめておく。

AIが出てきてますます私が面白いと思うコンテンツを探すのは容易ではないってことが明らかになってきた。
世の中の流行り廃りとは関係なく、個人の主観で、他人が思いつかないようなことを、ひたすら追求しているようなブログを教えてくれと言っても見つけてくれない。

AIがみつけてくれるのは、今世の中ではやっていて、新聞とか地上波で流れているようなニュースで、みんながよく読む小説とか映画とかスポーツとか政治の話題を扱っているようなブログなのだが、私はそんなものには何の興味もないのだ。

そんなものにはもうあきあきしているから、いままでみたこともきいたこともないようなことを言っているブログが読みたいのだが、そういうものをAIは探し出してはくれない。

twitter にしても、今のトレンドとかトピックを知るには向いているかもしれないが、今まで見たことも聞いたこともない、誰もまだ言ってないことを探すことには向いてない。

それで、google gemini にはアマゾンのレビューでも読んでろと言われたのだが、それもそうだなと思い直し、レビューを読んだりしている。

前例が無い

やる気がダダ下がり中なのでなんでそうなのかって分析してみると、要するに、予算はありそうなんだが、それをうまく使うにはいろいろ根回ししたり、組織に働きかけたり、新しい法人作ったりとか、定年間近でたまたま任された役職でやるには荷が重すぎる仕事ばかりで全然やる気がおきないんだわ、これが。

前例がない。では作りましょうか、ということになって、よーしパパがんばるぞーと前例を作っちゃう人では私はないってことがわかってしまった。これが40才くらいの私であれば進んで旗振り役を買って出たかもしれんが、旗を振っても誰もついてこないってことをいやっていうほど経験してきたからいまさらやる気なんて出ないよな。

私がやる気でないのは私の問題なのでどうでもよいとして、仕事を依頼する人には話がしょぼすぎて申し訳なさすぎる。まったくばかばかしさに涙こぼるる。仕事したふりして何もしないのが一番なのよね世の中。

金と人をどう使うかまるごと決めさせてくれればもすこしどうにかなるんだが、金の使い方も人の使い方も条件を付けられてはやる気が出るほうが不思議というものだ。