濹東綺譚2

日本堤を往復する乗合自動車に乗るつもりで、わたくしは暫く大門前の停留場に立っていたが、流しの円タクに声をかけられるのがうるさいので、もと来た裏通へ曲り、電車と円タクの通らない薄暗い横町をえらみ択み歩いて行くと、忽ち樹の間から言問橋のあかりが見えるあたりへ出た。川端の公園は物騒だと聞いていたので、川の岸までは行かず、電燈の明るい小径こみちに沿うて、鎖の引廻してある其上に腰をかけた。

いきなりうしろの木蔭から、「おい、何をしているんだ。」と云いさま、サアベルの音と共に、巡査が現れ、猿臂えんぴを伸してわたくしの肩を押えた。

公園の小径をすぐさま言問橋のきわに出ると、巡査は広い道路の向側に在る派出所へ連れて行き立番の巡査にわたくしを引渡したまま、いそがしそうにまた何処どこへか行ってしまった。
 派出所の巡査は入口に立ったまま、「今時分、何処から来たんだ。」と尋問に取りかかった。
むこうの方から来た。」
「向の方とは何方どっちの方だ。」
「堀の方からだ。」
「堀とはどこだ。」
真土山まつちやまふもとの山谷堀という川だ。」

山谷堀に沿って下っていけば自然と待乳山に出る。待乳山の語源は真土山であろう。この辺りは隅田川が作った自然堤防でなければ沼や湿地帯ばかりだった。盛り土ではなく天然の土で出来た山なので真土山というのに違いない。永井荷風はそこにこだわったか。

言問橋の灯りが見えるというからおそらく待乳山の脇へ出て、隅田川のほとりへ出ようとして、物騒だからやめにして、道を渡らずに、つまり今の山谷堀公園の南のどんづまり(今戸橋あたり)か、待乳山聖天公園あたりで、何かに引き回した鎖の上に腰掛けていたとき、巡査に声をかけられ、言問橋西詰の交差点にある聖天町交番というところへ連れて行かれたのに違いない。

道路は交番の前で斜に二筋に分れ、その一筋は南千住、一筋は白髯橋
しらひげばし
の方へ走り、それと交叉して浅草公園裏の大通が言問橋を渡るので、交通は夜になってもなかなか頻繁
ひんぱん
であるが、

これも今と同じである。南千住へ行く道というのは都道464号言問橋南千住線。白鬚橋へ行く道とは都道314号言問大谷田線のことである。普段ぶらぶら歩いている道なので実に具体的にイメージがわいてきて、以前読んだ時とはまったく違う気分で読めて面白い。

永井荷風は本所か深川、須崎遊郭の話を書こうとしたのだが結局、寺島玉の井を書くことにして、ここを濹上と言うには川から離れすぎているから、濹東と呼ぶことにしたのだ。本所、深川、須崎、或いは柳橋、向島小梅の里などいろんな地名が出てくるけれどもこれらは子細にみればどれも少しずつ違っている。

本所というのは蔵前の対岸あたりであり、浅草から見れば随分南だ。

深川というのは永代橋、門前仲町あたりのことでさらに南だ。

洲崎は深川の東隣で木場などと呼ばれるあたりだ。

向島小梅の里というのは言問橋東詰、牛嶋神社や三囲神社などのある辺りで、向島見番(向嶋墨堤組合)というのもこの辺りにあって、ほんらい向島の遊郭というのはこの辺りのことをいうのだろう。

鳩の街商店街の辺りは東京大空襲の後に(おそらく戦災を免れた建物を利用して)できたものだというから、濹東綺譚よりは後の時代のものだ。

この、押上、曳舟、寺島の辺りは昔は都電、つまり路面電車などが浅草から伸びていて、どこがどういうふうに繁華であったのか、今では予想が付きにくい。

昔は隅田川に架かる橋というものは今より少なくて、吾妻橋の上流には白鬚橋があるだけだった。白鬚橋を往来する京成バスというものがかつてはあり、白鬚橋の東に京成白鬚線というものがあって白鬚駅から向島駅というところを結んでいたらしいのだが(向島駅は京成押上線に連絡していた)、これらは今はほとんど痕跡もない。この白鬚線沿線辺りを昔は寺島村と呼んでいた、と濹東綺譚には書かれている。白鬚線と東武伊勢崎線が交叉するところが玉ノ井駅、今の東向島駅である。

昭和五年の春都市復興祭の執行せられた頃、吾妻橋から寺島町に至る一直線の道路が開かれ、市内電車は秋葉神社前まで、市営バスの往復は更に延長して寺島町七丁目のはずれに車庫を設けるようになった。それと共に東武鉄道会社が盛場の西南に玉の井駅を設け、夜も十二時まで雷門から六銭で人を載せて来るに及び、町の形勢は裏と表と、全く一変するようになった。今まで一番わかりにくかった路地が、一番入り易くなった代り、以前目貫といわれた処が、今では
はず
れになったのであるがそれでも銀行、郵便局、湯屋、寄席
よせ
、活動写真館、玉の井稲荷
いなり
の如きは、いずれも以前のまま大正道路に残っていて、俚俗
りぞく
広小路、又は改正道路と呼ばれる新しい道には、円タクの輻湊
ふくそう
と、夜店の賑いとを見るばかりで、巡査の派出所も共同便所もない。このような辺鄙
へんぴ
な新開町に在ってすら、時勢に伴う盛衰の変は免れないのであった。
いわん
や人の一生に於いてをや。

濹東綺譚は昭和11年、つまり二・二六事件のあった年に書かれたものだが、東武鉄道が玉ノ井の盛り場の西南に駅を設け、とあるからには、永井荷風が玉ノ井と呼んでいる場所は今の東向島駅の北東辺りのことを指しているわけである。本文から推察するに、東清寺(玉ノ井稲荷)のあたりだろう。つまりいろは通り界隈である。白鬚橋から大正通りを経ていろは通りへ。古い商店街らしいが遊郭の面影というのは私の見る限り無い。むしろ鳩の街や小梅の里のほうが向島らしい雰囲気や情緒があるだろう。吉行淳之介の小説とか、いわゆるカフェー風建築なんてものは鳩の街あたりだけにあるのであり、しかも赤線が廃止されるとともに急速に廃れたから、再開発もされずシャッター街となって比較的そのままの状態で残っている。

寺島町奇譚というマンガがあるがあれは東京大空襲で玉ノ井が焼け野原になるまでのものなのでちょうど濹東綺譚と同じ時代のもの、ということになる。

白鬚橋は大正3年に架かったそうだから、大正通りもそのときにできて、さらにその先が延長されていろは通りとなったものと思われる。日光街道と水戸街道が短絡されたから、寺島町はそれなり賑わいがあったのだろう。

濹東綺譚を昔読んだときは浅草や向島や戦前や戦後や遠くは江戸時代の風物がぼんやり漠然と、渾然一体と混じっていて、そういうものを読むからむしろファンタジー的な気分で読めたわけだけれども、実物を知ってしまった今読んでみるといちいちイメージが鮮明であって、逆に空想の入り込む余地がないとも言える。

以前にも東向島というものに書いたのだが、台東区には台東区で、墨田区には墨田区で巡回バスがあるのに、白鬚橋を往来して台東区と墨田区をつなぐバス路線が無い。言問橋ができて、浅草から押上、曳舟、東向島までいく交通が便利になると、この白鬚橋の重要性が非常に小さくなって、バス路線も採算が取れなくなり廃止されたものと思われる。吉原あたりに住んでいる私にとっては不便極まりない。吉原と玉ノ井を結ぶバス路線なり電鉄などあってくれれば、向島に遊びに行くのにどれほど好都合かしれない。都電荒川線が白鬚橋を渡って玉ノ井まで伸びていてくれたらよかったのに(白鬚線はもともと荒川線に接続する計画だったという)。

私の玉の井散策という記事が最も詳しいように思われる。

寺じまの記濹東綺譚向嶋向島浅草むかしばなし勲章水のながれ吾妻橋草紅葉里の今昔葡萄棚(青空文庫)。

国会図書館デジタルコレクションで断腸亭日乗など読むが、まあとりたててどうということはない。

濹東綺譚

濹東綺譚はもちろん読んだことがある(濹西綺譚なんてものを書いてみたこともある)のだが、小田原まで行く用事があって途中だいぶ間があるから小田急線の中で改めて濹東綺譚を読んでみた。浅草に半年も住んでみたものだから、地名がいちいちわかるのが面白い。

活動写真の看板を一度に
もっとも
多く一瞥する事のできるのは浅草公園である。ここへ来ればあらゆる種類のものを一ト目に眺めて、おのずから其巧拙をも比較することができる。わたくしは下谷
したや
浅草の方面へ出掛ける時には必ず思出して公園に入り
つえ
を池の
ふち

く。

とあるのは明らかに今は、東洋館、浅草ロック座なるストリップ小屋が建ち並ぶ通り(六区ブロードウェイ)のこと。

一軒々々入口の看板を見尽して公園のはずれから千束町
せんぞくまち
へ出たので。右の方は言問橋
ことといばし
左の方は入谷町
いりやまち
、いずれの方へ行こうかと思案しながら歩いて行くと、四十前後の古洋服を着た男がいきなり横合から現れ出て、

これはあきらかに、ひさご通りを通り抜けて、千束商店街の手前、言問通りまで来たところのことを言っている。

永井荷風は千束通り(千束商店街)のことを千束と言っている。実際今の浅草二丁目から五丁目の西側はかつて浅草区というものがあったときには千束町の一部であったらしい。戦後、下谷区と浅草区が合わさって台東区ができて、そのとき区割りも変わった、ということか。

さらに古くは、千束村は浅草区、下谷区、北豊島郡南千住町(大字千束)に編入されていたという。結構変遷があるものだ。もともとは千束池というものがあったあたりを全部千束と言っていたのだろう。

わたくしは口から出まかせに吉原へ行くと言ったのであるが、行先のさだまらない散歩の方向は、かえってこれがために決定せられた。歩いて行くうちわたくしは土手下の裏町に古本屋を一軒知っていることを思出した。
 古本屋の店は、山谷堀さんやぼりの流が地下の暗渠あんきょに接続するあたりから、大門前おおもんまえ日本堤橋にほんづつみばしのたもとへ出ようとする薄暗い裏通に在る。裏通は山谷堀の水に沿うた片側町で、対岸は石垣の上に立続く人家の背面に限られ、此方こなたは土管、地瓦ちがわら、川土、材木などの問屋が人家の間にやや広い店口を示しているが、堀の幅の狭くなるにつれて次第に貧気まずしげ小家こいえがちになって、夜は堀にかけられた正法寺橋しょうほうじばし山谷橋さんやばし地方橋じかたばし髪洗橋かみあらいばしなどいう橋のがわずかに道を照すばかり。堀もつき橋もなくなると、人通りも共に途絶えてしまう。この辺で夜も割合におそくまであかりをつけている家は、かの古本屋と煙草を売る荒物屋ぐらいのものであろう。

ここは少々難しい。千束商店街が尽きるまでいけば日本堤にぶつかる。土手通りを左に行けば吉原大門、見返り柳だ。山谷堀公園という遊歩道は戦後昭和になって暗渠になった、ということはそれまではまだ水が流れていたのだろう。つまり山谷堀公園が尽きるより上流が当時すでに暗渠になっていたと考えて良いだろう。

日本堤橋は吉原大門を出た真向かいにあったはずで、ここには今、桜鍋屋(創業明治三十八年、中江)や馬肉屋が残っている。その裏通りというのは土手通りに沿って、つまり、山谷堀の右岸が土手通りで、左岸が裏通りと言いたいのに違いない。

髪洗橋(紙洗橋)というのは東武ストアへ行くあたりにある。地方新橋はデニーズのあたりにある。地方橋はローソン100がある交差点、千束商店街のアーケードが尽きるあたりにある。いずれも橋の名前ではなくて、土手通りの交差点の名前として残っている。下流から順に言えば、正法寺橋、山谷堀橋、紙洗橋、地方橋、となるはずだ。

要するに、かの古本屋というのは吉原大門前の桜鍋屋の並びか、その裏通りあたりにあったと考えればよかろうと思う。

HP Wolf Security

HPのPCはHP Wolf Security というセキュリティソフトが勝手に入っていて、こいつが勝手にネットからダウンロードしたMicrosoft Wordファイルを保護モードか何かで開くようにしてしまい、まったく使い物にならないので、脅威からの保護というやつを無効にするのだけど、PCを再起動するたびに勝手に有効にしてしまい、アンインストールすることにしたのだが、以前のバージョンを先にアンインストールしないと現在のバージョンはアンインストールできないなどという。

しかしWindows のアプリ一覧には以前のバージョンなどというものはでてこない。

それで仕方ないんで、インストールとアンインストールのトラブルシューティングとかいうツールを落としてきてアンインストールしようとすると、アプリ一覧には出て来なかった wolf security の chrome 拡張だのなんだのというのがわらわら出てきたので、そいつらをひとつひとつアンインストールしていった。

途中突然再起動したりもしたが、最終的に全部アンインストールできた。

私は小説などの原稿は全部 google drive に置いている。それを落とすたびに HP君が余計なことをするのでもう我慢の限界だった。

和歌を詠むということ

近藤真彦が60才になって聴力検査に行こうなどという車内中吊り広告が出ていたが、私もつい最近60才になった。それで

はたちにて 絵は描き尽くし よそぢにて 歌は詠みはて 今さらに なすことも無き むそぢなりけり

などという歌を詠んだのだが、まったく今はそういう心境である。

明治天皇は59才で亡くなった。自分がもう明治天皇よりも年上だというのが、なんだか非常に不思議で奇妙な気分だ。

明治の帝の勅諭を体し

と佐佐木信綱は歌ったのだが、戦後生まれの私もその雰囲気の中で生まれ育った。昭和40年。敗戦後20年しか経ってはいなかったのだ。

私は画材屋の息子に生まれた。爺さんは尋常小学校の絵の教師だったので、子供の頃から絵を習って描いていた。絵を描くのは好きだった。しかし20才くらいになると自分の絵の才能というものはだいたいわかってくる。描き尽くすというよりは、もうこれ以上描いたところで自分が描くような絵はせいぜいどのようなものか、ということが見切れてしまう、ということだ。にたりよったりの絵を数多く描くことは不可能ではあるまい。今CGを仕事にしているのもやはり絵を描くのが好きだからだが、CGなんてものは私よりうまい人はいくらでもいる。どんなに頑張っても世の中に爪痕を遺すことすらできない。

しかしながら歌には、私は多少自負がある。歌ならば少しくらいは世の中に生きた痕跡を残せるかもしれないと。

古語文法を習い始めるのが高校一年生、15才くらいからで、歌をなんとか詠めるようになったのは21才くらいだった。途中ずっと歌を詠んでいたわけではなく、しかしながら、歌の形が固まってきたのは45才くらいだったと思う。若い頃は現代口語で詠んだり古語で詠んだり、字余りしていたり、いろんな歌を詠んでいたのだが、私はそこから現代歌人のほうへは行かず、かっちりした古典文法にのっとって歌を詠むようになっていった。たとえば、20代で詠んだ歌40代半ばで詠んだ歌

はかはかと 部屋片付けて 暑さのみ いかにもえせで 過ぐすよはかな

こういうへんてこな歌は今ではもう詠めぬかもしれん。

天長節に参賀したる日、本丸跡にて詠める

すずかけの 葉もこそしげれ かなへびは 穴より出でて 石垣をはへ

そう。和歌を詠むからには、こういうかっちりとした古語で詠みたい、そうでない歌も詠めなくはないかもしれないが、そういう歌はプライオリティが高くないというか、都々逸でも俳句でも、ほかに表現手段はあると思うし、現代口語を駆使した歌を詠みたいというよりも、和歌を純粋に保ちたいという気持ちのほうが勝るのである。だから自然と、もっぱら古語で、和歌を詠むようになった。茶道にしろ能楽にしろ、最初は単におもしろおかしい娯楽であったものが、だんだんに純化していったのだと思う。自分の中の気持ちはそれと同じだと思う。

みそのふに 春雨ふれば 人を無み しめ野にひとり あるここちする

春雨の ふれる宮路を 踏みゆけば しめりてきしむ さざれ石かな

きもをなめ たきぎにふせし つらき世を 知らずなりゆく わがくに民は

こうした歌ももう詠んだことをすっかり忘れてしまっていた。

歌もまた詠み尽くしたというよりは、これから先、だいたいどういう歌をどういう時に詠むかというのを見切ってしまった、今まで詠み遺した歌で予測可能な範囲でしか歌は詠めないだろう、それ以外の歌をいまさら詠みたいとも思わない、要するに年を取ってもうこれ以上変化のしようがない、ということになる。

明治天皇が59年間の人生で詠んだ9万首の歌をAIに学習させれば、明治天皇と同じような歌は詠めるようになるだろうと思う。明治天皇が学習に用いたテキストも合わせて学習すればなお正確に詠めるようになるだろう。昔の人(明治以降の人、という意味だが)には同じような歌を来る日も来る日も大量に詠んで、詠草に残しておくことの意味がわからなかったようだ。今の人ならわかるだろう。ありとあらゆるパターンの歌を遺しておけば、自分が死んだ後もそれに習って同じような歌を詠むデータベースになってくれるのだ。ときたまに気の利いた歌を詠んで遺せば良い、自分の最高傑作だけをいくつか残せば良いというものではない。明治天皇にはある程度までそのことがわかっていたはずだ。和歌はごく短い詩形ではあるけれども、一つ一つの歌を見ただけではその価値がわかるわけではないのだ。

同じように私が生涯詠んだ歌を全部AIに学習させれば、そのAIが私が死んだあとも代わりに永遠に私の歌を詠んでくれるのに違いない。もうそうなってしまえばわざわざ私が生きている必要もない気がする。

歌を詠む 人もなき世に 歌詠めば ひとり狂へる ここちこそすれ

歌詠まぬ 人に問はばや 歌詠まで 大和心は ありやなしやと

天下之糸平の碑を詠める

いしぶみを あふげばむなし とはに名を のこさむとする 人のこころは

いしぶみを すみだの岸に 建つるより こころに残る 歌を詠ままし

沢庵

日曜日の浅草は観光客が多すぎてほんとうに苦痛だ。駅の改札を通れないで立ち往生する人、道の真ん中に固まってどっちへ行こうか思案している人、スマホを見ながらだらだら歩く人。こちらも観光気分で何かまだ見落としているものでもないかなと物色する気分の時は良いが(実際浅草というところはそんな簡単に見尽くせるところではない)、普段道を歩く時と同じ感覚で歩くととにかく精神衛生に悪いから近寄らないほかない。

上野のヨドバシで品物を取り置きしてもらい、散歩がてら上野まで歩く(40分くらいか)。私がここらをくまなく散歩して回れるのも浅草に部屋を借りている数年限りだから、せっせと見て回ろう、などと思う。途中下谷神社に寄る。正岡子規の碑が立っていた。

寄席はねて上野の鐘の長夜かな

下谷神社が寄席発祥の地であるという。上野の寄席とは鈴本演芸場のことだろうか。寛永寺の鐘であろうか。暮れ六つの鐘であったろう。長夜は秋の季語なので、早く日が暮れてしまい、これから長い夜が始まる、というような意味合いであったか。それとも当時すでに西洋式に18:00に暮れ六つを打っていただろうか。

上野の博物館は異様に混んでいる。特に西洋美術館がいつもとんでもなく混んでいて建物の外まで行列しているがあれはショップに並んでいるのかもしれない。今はミロ展の最中で、こないだはモネ展だったが、とにかくモネだかミロだかのグッズをどうしても買わねば気が済まない人がたくさんいるらしい。とりあえず上野の博物館群は人の多さにあきれて素通りした。

天海僧正毛髪塔というものがあった。この天海というやつが家康をたぶらかしておかしな宗教にはまらせたのだ。

上野松坂屋地下食品売り場で沢庵を買った。それから吉池でカマスの一夜干しとかメザシのようなものを買った。吉池は地上部分はユニクロ化してしまったが地下の食品売り場はすばらしい。浅草のいかなるスーパーよりも吉池のほうが良い。御徒町に来たら吉池に寄って晩御飯の支度をするべきだ(これからの季節、保冷剤は持参したほうが良いかも)。

沢庵は難しい。宮崎県産の沢庵は好きだ。野崎漬物、道本食品のは安心して買える。しかし九州の沢庵はどうも甘味が気になる。甘味料を入れないか、もっと減らすわけにはいかないのだろうか。と思って和歌山産や山形産の沢庵を買ってみたのだが、山形のやつ「田舎たくあん」は販売者が山形の晩菊本舗三奥屋だが、製造所はキムラ漬物宮崎工業株式会社で、キムラ漬物は愛知県の会社である。甘味は強くない。おいしい沢庵なのでこれは良しとする。和歌山の沢庵は甘くはないがすっぱい。漬物が乳酸発酵してすっぱいのはよくあることなんだが、私はすっぱい沢庵が食べたいわけではないのである。熱海の七尾たくあんも甘くはないが、かなりすっぱく、しかも固い。もしかするとそういう沢庵が本格派なのかもしれないのだが、私が食べたいのはそういう沢庵ではないのである。

なんというのかな。私が食べたい沢庵というのは、色も白っぽくて、塩分もそんな高くはなく、しゃりしゃりした浅漬けのような歯ごたえではなく、きちんと漬かっていて、しかしながらあまり筋っぽくもなく固くもなく、砂糖など甘味料はいっさい使ってないものが食べたい。食塩とぬかと大根だけで作られたものが(もし現代にそんなものがあるなら)食べてみたい。煮干しとか昆布だしとか鰹だしとかそんなものは入れてほしくない。どこかにそんな沢庵は無いものか。燻製にしたいぶりがっこは好きではない。壺漬けもべったら漬けも好きではない。

沢庵というのは沢庵和尚が発明したのだろうか。となると江戸初期、家光の時代だ。当時の沢庵とはどんな味だったのだろうか。沢庵に適した白首大根を大量に生産しているのは宮崎や鹿児島くらいらしい。つまり、消費者に近い関東などでは生食用の青首大根を、消費地から遠い九州南部などではあまり一般的ではない漬物用の品種をもっぱら栽培している(かつ南国なので育ちやすい、火山灰の砂地で育ちやすい?)、ということではないか。となるとその他の地域の漬物屋でも大根は宮崎産を使ったり、全国展開するような大きな漬物屋は宮崎に工場を作ったりするのかもしれない。

沢庵にこだわりのある人というのはごく一部で、老若男女、特に子どもが食べるのには柔らかくて甘い沢庵が好まれるのだろう。私も子どものころはそうした沢庵を食べていたのかもしれないが。スーパーに売られている量産品はみんなそんなやつだ。

伊勢沢庵は名高いけれども東京ではほとんど売られていないようだ。沢庵は結局、百貨店の食品売り場などをしらみつぶしに探してみるしかなさそうだ。

6月6日になってイオン(まいばすけっと?)が外米を売り始めたらさっそく買うつもりだ。実に待ち遠しい。

船渡御

江戸初期の歌人、戸田茂睡が書いた「紫のひともと」(天和2(1682)年)という仮名草子があってそこに浅草三社祭のことが書かれている。

観音寺門三社権現の祭り、三月十八日なり。是も隔年行はるる。此の三社権現の祭りは花園院の御宇、正和元(1312)年、神託によって始まるなり。

本堂の社の東に三社権現あり。是は観音を網にて引き上げし檜の熊の浜成・竹成と二人の漁夫の在家を改めて精舎となし、直中和といひし漁師と合はせ、三人を権現に祝ひ、三社の護法といふ是なり。本堂の外に出居る出家、専堂・斎堂・常音は、彼の三社の末孫なり。妻帯して子孫相続有る故、三月十八日の祭りは此の三社の神なり。東の随身門より、一の権現の前に出る。一の権現と云ふはあかん堂のことなり。昔、観音、海より上らせ給ふ時、野より雉子来て、羽にて御身体を隠し、雨露に塗らし申さざると云へり。此の故に此の観音、信心の者は雉子を食せず。所の者は雉子を家内にて、他の人にも食せず。

さて、此の三社権現は駒形堂より海に乗せ申し、浅草見付の船着より上らせ給ひ、本通りを本社へ帰らせ給ふ。

いやはや。これはすごい。

戸田茂睡の時代にすでに浅草神社は一応本堂、つまり浅草寺とは別の建物に分かれて、今の場所にあったらしい。また随身門とは現在、二天門と呼ばれている門を言うらしい。浅草神社を出たらすぐ東に折れて随身門を出て、おそらくこの辺りに「あかん堂(一の権現)」と呼ばれた建物があって、そこから今の馬道通りを南下して、駒形堂というところまでいく。これは今も駒形橋西詰の北側にある。ここから神輿を船に乗せて隅田川を下り、浅草見附(浅草御門)、つまりおそらく神田川が隅田川に合流する柳橋辺りの船着き場(蔵前あるいは浅草御蔵のことか)から上陸し、ここから本通りを経由して、鳥越(蔵前)を経て、再び駒形堂を経て、本社に帰っていたのだろう。

今の三社祭と全然違っている。

江戸初期、当時の浅草から吉原にかけてはまだ田んぼや沼が広がっていて人はほとんど住んではいなかったのだろう。吉原が今の場所、当時、竜泉寺村と呼ばれていた場所に移転したのは明暦三(1655)年のことであった。

しかしながら江戸城大手門から浅草まで通る道沿いには後北条氏の時代から既にかなりの人が住んでいたと思われ、また浅草の主たる産業は隅田川を使った水運や漁業であったから、それを生業とする町民らが三社権現の主役であって、また浅草観音は川の中から網にかかって引き上げられたということになっていたから、船渡御というものが、祭りのメインイベントだったのだ。それが三社祭の原型なのだ。

浅草寺に「あかん堂」「駒形堂」なる別館が存在する意味が今ではわからなくなっているが、昔、浅草寺は隅田川と密接に関係していたのだ。だから川と連絡するために、これらの施設が非常に重要だった、ということになる。浅草寺が今ある場所はもともと檜前さんちの在家だったとあるが、おそらくこのあたりで一番開けていて、しかも水害に遭いにくい高台だったのだろう。

関東は、昔未開拓な頃はどこも川と沼だらけだったから、船祭というものが一般的だったのかもしれない。

鹿島神宮では12年に1度、午の年に式年大祭 御船祭(みふねまつり)というものがあって勅使下向もある。

香取神宮にも経津主大神の東征を再現した、式年神幸祭というものがあって船が出る。

大宮の氷川神社もかつては沼自体をご神体とした船祭があった、と言われているそうだ。船に神輿を乗せていたかどうかはともかくとして、関東地方における遷幸、遷宮、東征というものは、もともとそうした、船に軍勢を乗せた大がかりなものだったに違いない。それがいつの間にか氏子のレジャーと化していき、観光目的化していったのだろう。

浅草三社祭に勅使が来るわけはないので、あの馬は勅使風のパレードの演出ということか。

三社祭り2

人混みにはほとほとまいっているのだが、なおさら、もう二度と見たくない、今回一度きりで済ませようと思うので、宮入りは浅草寺の境内に残り、正門から行列が入ってくるところまで見届けて帰った。宮入りは19:00から20:00くらい、となっていたのに、20:30まで待たされた。たぶん、三ノ宮から入って、次に二ノ宮、最後に表参道から一ノ宮が、少しずつ時間差を付けて入るというだんだりになっているようだが、三ノ宮が5656雷おこし屋の前で何度もいったりきたりを繰り返してたせいでめちゃめちゃ遅れた(youtubeのライブでいらいらしながら見てた)。さっさとやってくれよ。

神輿は雷門と宝蔵門をくぐらなくてはならないのでそんなに大きなものは作れない。門の下に吊ってあるでかい提灯は上の方へ縮めてあった。京都の山鉾やだんじり、或いはねぶたのように、神輿や山車が際限なく肥大化する、ということは浅草ではなかったようである。また、日光東照宮にも神輿はあって、江戸では将軍家にはばかって東照宮よりも大きく華美な神輿を作るということはできなかったに違いない。神田明神の神輿もネットに落ちている写真で見る限りそんな大きなものではない。浅草と同程度のもののようだ。

徳川宗家も江戸の町中を馬鹿でかい東照大権現様の神輿を引き回す、などという暴挙に出なかったのは賢明であったが、であればこそ、江戸の神輿はこぢんまりとして地味なものにならざるを得なかった。その代わり浅草では神輿の数が氏子の人数分、爆発的に増えたということだろう。

町会の神輿も浅草神社の神輿も造り自体は同じもののようである。しかしながら、本社神輿、つまり浅草神社の一ノ宮、二ノ宮、三ノ宮の神輿は白い布で覆われて四面それぞれに七つの鏡がついていて、ピンク色の紐で縛ってあるという一種独特のものである。江戸の宮大工が作る神輿は東照宮の建築に良く似ているように思われる。コテコテとして、装飾と彫刻が過多。しかしながらこの浅草神社の神輿は家康入府以前の質素な古態を残しているようにも思えるのである。

東照宮は神社建築と仏教建築を節操も無く混淆させた、家康とか天海とかあのへんの連中の宗教音痴というものがもろに現れた、下品と言って悪ければ悪趣味なものとしか私には思えないのだけど、浅草神社の本社神輿にはある種の神秘性というか、ゆかしさというか、浅草という町を開拓した祖先に対する畏敬の念のようなものを感じた。その原初的形態を想像してみるに、最初はああいう装飾のない、シンプルな、白い布で覆っただけの神輿に本尊(三体の権現)を収めて、神体の姿を象徴する鏡を四面に一枚ずつ貼り付けたようなものではなかったか。それをいつからか七枚に増やしたとか。

町会の神輿には馬に乗った勅使(?)は付かない。神社の神輿だけに馬が付く。1頭、または2頭だったりするようだ。

こういう馬が付くとか、なぜ鏡が七枚あんなふうに配置しているのかとか、ネットで検索してもまったく情報が出てこない。研究者はもう少しちゃんと調べて、マスコミも報道すべきなんじゃないの?

金曜日夜から町会ごとに神輿をくりだして、土曜もやって、日曜は本社神輿各町渡御、のはずではあるがやはり町会の神輿も相変わらず出ているので、とにかく三日間ずっと町会は大騒ぎしている。

いやしかし、都会には次から次へとおかしなやつ(挙動不審、独り言、多動)が現れてきて、祭りのようなものにはなおさらしゃしゃり出てきて、坐ってるとじりじり幅寄せしてくる。気持ち悪すぎる。こういう馬鹿な一般人にいちいち怒っても切りが無いから、絡んできたらシカトするのだがシカトするのが忙しすぎる。もう絶対祭りは見ない。

こういう祭りがもっと人の少ない田舎で、強制参加で村祭りのようなものであったとしたら、参加するのは苦痛であろうが、これだけ大勢人が集まるのだから、祭りが嫌いな人はわざわざ参加していないはずであり、祭りが好きな人だけ好き勝手やっている分には別に私としてはどうということもない。ただ関わり合いたくないだけだ。実際、隅田川の両岸では子供らが祭りと関係なしに野球をやったりしていた。野球は要するにユニフォームを着てみんなで騒ぐという意味では祭りと何も違わない。やたらと野球場を作ってテレビで野球中継するからみんなやっているだけのことで、私も子供の頃はみんながやっているからほかにやることもなくやっていたが、面白いものとは思えない。

田舎だと盆と正月くらいしか人が集まらないからだいたい祭りはお盆にやる。私の田舎もそうだったが、梅雨前のこの時期に祭りをやるのが暑くなくて良いのかもしれない。

マスコミがあまり熱心にニュースで流さないのは、取材がめんどくさいわりに視聴率が取れないというだけのことに違いない。

戦前まで本社には七つの神輿があり、三つは家光が下賜したというがつまり、祭りはやっても良いが幕府の統制下でやれという介入であろう(それによって作り直してそれよりかでかい神輿を作ることも封じられたであろう)。おせっかいなやつである。その三つをそれぞれレプリカを造り、六つ。さらによその町で持て余していた神輿を譲り受けて七つあった、ということらしい。

イオン外米

イオンが4kg税抜2680円でカリフォルニア米「かろやか」を売るそうだが、私が普段ビッグエーで買っているブレンド米やベトナム米よりも安い。発売開始が6月6日というのも、絶妙のタイミングだ。ほんとはもっと安く売れるのだろうけど、値下げ競争が始まるまではできるだけ高値を付けて売りたいというのが本音であろう。

イオンはかつて日本の小売業者を敵に回して懲りている。米の価格が高止まりしているのはイオンに錦の御旗を与えた。イオンの外米を食べて、なんだ普段食っている国産米と違わんじゃないかとなれば、消費者に長年かけられていた呪いがやっと解ける。みんな悪夢から覚めたように外米を食べるようになるだろう。

そうすると結局国産米は今の和牛と同じ運命をたどる。高級銘柄米だけが残って、一部の金持ち、一部の好き者だけが食べるようになり、海外にもばんばん輸出されるようになる。米の値段なんて原価全体からすればたかが知れてるから、旅館や料亭などが国産米を売りにしたからといって別段困ることもあるまい。価格に転嫁すれば済む話だ。今時その程度の金を使いたがるやつはいくらでもいる。

高級銘柄米を作れない農家、或いは補助金に依存する零細兼業農家は淘汰されて農地の整理統合が進み、稲作も多少は合理化されるかもしれん。あまり悪いところが見当たらない。

米は2kgの上はいきなり5kgでその上は10kgでしか売ってない。10kgを3ヶ月くらいで食べきるのであれば10kgを買えば良さそうに思える。イオンは2kgと5kgの間の空白を狙ってきたとも言える。ともかくいろいろと計算尽くで「かろやか」を投入してきている。

ましかしこんなことは私が今更指摘しなくても米業界ではとっくにわかっていたことだ。なるべくしてなるようになる。米は日本人の主食で安全保障上国産しなくてはならないなどという嘘八百はもう通用しない。

残置物

エアコンから雨漏りするので不動産屋に電話した。詳しくは書かないけど、もともと部屋に設置されていた「設備」ではなくて、前に住んでいた人が勝手に付けて残していった「残置物」なので故障しても大家さんは金を出してくれない。とんでもないところにとんでもないやり方で設置されていて、配管なんかももうボロボロになっていて手の付けようがない。修理も撤去も付け替えもできない。やろうとすると新品のエアコンの数倍の金がかかってしまう。もとはどうやって工事したのだろう。

とりあえず応急措置でなんとかなりそうだ。古くて安い物件には何があるかわからん。家賃をケチったのだから仕方ない。

三社祭り

浅草の三社祭りなんだけど初日金曜日の夜から町会ごとに提灯の櫓を建てたり、簡易寄り合い所を作ったり、神輿や、お囃子を載せる車(囃子屋台というらしい)などを繰り出して騒ぐ。土曜日もやはり町会ごとに騒ぐ。一つの町会に神輿1台ずつかというとそうではなく、大人神輿と子供神輿という具合に2台ずつくらいあるらしい。というわけで浅草氏子44町会、合計100基ほどの神輿が浅草で一斉に練り歩き始め、いたるところにテントやら仮設小屋が建てられて道にはみ出していろんなものが置かれ、ブルーシートを敷いて宴会をもよおし、子供はここぞとばかり路上で追いかけっこし、よそからも見物客が来るから交通に支障をきたさないはずがない。昨日も夜中に近所のスーパーに惣菜でも買いにいこうかと家を出たら神輿で道がふさがっていて2箇所ほど迂回せねばならなかった。あちこちから祭り囃子が聞こえてきて祭りの中に没入してしまうという実に面白い体験をした。

思うに、江戸の三大祭り、神田祭と山王祭は将軍家が見物したが、三社祭りはそうではなかったという。将軍だってヒマじゃないわけで何月何日の何時にどこそこに桟敷を作ってその時だけ見物する、ということになるだろう。だから、何日間もだらだら祭りをするとしても、将軍家にお目見えするための数時間だけは、特定の通りを整然と行列を組んで進んだりするのに違いない。そういう下地が江戸時代にできていれば、マスコミとしても、今秋葉原を神輿が通りました、などという絵を撮りやすい。撮れ高を稼ぎやすい。京都でも天皇が町人の祭りを見物するとなると町人も意識するだろう。祇園祭の山鉾なんかも、あれは町人が自分たちのために楽しんでいるというより、日本の首都を訪れる万人の客に見せることを意識してああいうふうになったのに違いない。

三社祭りはそういう公権力の介在がほとんどまったくない状態で、浅草の町人たちが好き勝手にやっていたもので、しかし浅草は当時大阪を抜いて日本一、いや、世界一人口稠密な都市であったはずだから、民間の祭りがとんでもない規模で寄り集まってああいうカオスな祭りが自然発生的にできてしまったのだろう。

最終日、三日目は浅草神社の一宮、二宮、三宮が、町会よりは多少大きな神輿を出すというのだが、これも浅草寺境内はひとごみでごった返していてどこをどう撮ればいいのかマスコミとしても撮りかねようし、まして一般人が見ても何をやっているのか、よその祭りとどこが違うのか、一部を切り取った映像だけではわからないのであんまり面白くない。ドキュメンタリーを作ることもできようが大して注目もされない。だから神輿どうしで喧嘩になった、というようなことくらいしかメディアでは報道されない。もともと人に見せようということを意識してできた祭りではない。純粋に町人が楽しむためにできたものだ。だからマスコミにとってあまりにもうまみがない。

普通の観光客は三日間だらだら三社祭りを見たりしない。せいぜい数時間浅草に滞在してその片鱗を見るだけだ。だから三社祭のすごさなどというものがわからないに違いない。

観音裏辺りの町会の名前は、象一、象二、象三などと呼ぶらしかった。今の町名と違うのでわからんかったがうちの近所でも普通に神輿を出していた。象とはこの辺りがかつて象潟と呼ばれていたことに由来するらしい。