能の式楽化

能楽の本を読んでいると、能楽は徳川幕府によって式楽となった、という記述がよくみられる。

式楽というものはもともとは大和朝廷が飛鳥奈良時代に制定した雅楽のことであった。しかし雅楽は朝廷や公家が権威を独占していて、なかなか武家の自由にならない。しかしながら能楽は足利義満以降に室町幕府がパトロンとなって興した芸能であったから、公家にはなんの遠慮も気兼ねもなく、武家が好きにいじりたおすことができた。これはちょうど、和歌というものが公家にその権威を握られていたので、武家は和歌を敬遠し、もっぱら漢詩が流行したのに似ている。

徳川幕府は能楽を、将軍宣下や勅使応接などの公の式典の場において上演される芸能として洗練させなくてはならなかった。それらは上方の寺社などに伝承された舞楽に負けぬほどのおごそかでお上品で、気高く尊いものでなくてはならなかった。見て面白いかどうかなんてことはもうそっちのけにされてしまった。

武家屋敷の屏風絵が狩野派の画家によって描かれるようになったのと同様だ。狩野派というのは要するに足利将軍家の御用絵師になったからあれほど武家で珍重されたのだ。茶道もまた武家由来の儀礼として重宝された。いずれも公家に対抗して武家が権威付けするためにもてはやされたのであり、芸能そのものが優れていたからではない。そんなことはありえない。もし良い芸能を育てたければ民間活力に委ね、政府が助成したりしないほうが良いに決まってる。政府が金を出して良いのは一部のほんとに絶滅危惧種的な伝統芸能くらいであろう。

現代の日本文化は室町、安土桃山時代に作られたとよく言われるが、要するに、それまでの宮中・公家文化を煙たがった徳川幕府が、室町幕府や、秀吉や家康らが愛好した芸能を式楽化して、武家の文化芸能として世の中に定着させた、というに過ぎない。そういう由来であるから、その源流、その権威の厳選が、世阿弥とか千利休のような、室町、安土桃山時代の宗匠に求められるようになった。また評価や選別も幕府がやったのだから、モノの良し悪しがほんとにわかるはずもなかった。

実を言えば和歌もまた、尊氏は和歌が大好きだったが、しかし家康は和歌が大嫌いだったらしく、足利将軍家が興した芸能の中で和歌だけは式楽化の対象から完全に外してしまった。家康が嫌ったというより家光や家綱が和歌になんの興味もなかったせいかもしれない。

江戸時代というものは、室町・安土桃山の人間味や活気を遺した元禄文化が最高潮であって、井原西鶴、近松門左衛門、松尾芭蕉、そして尾形光琳らによって代表される。元禄以後、徳川幕府による封建主義や思想・芸術弾圧が強まり、芸能も堅苦しくなっていってダメになってしまった。将軍が食べる料理はすべて脂身が抜け落ちるまで焼いて煮てあってうまくもなんともなかった、能楽もまた、目黒のさんまにあるように、徹底的に脂っ気も内臓も皮も削ぎ落とされて、米も精製した白米しか食べないようになって、そのせいで逆に将軍は脚気やなんかの病気にかかって短命で死んだ。いわゆる江戸病だ。

江戸時代における文化の衰退は幕末まで続いて、維新後、明治時代になってようやく新しい文化芸能が現れた、などと雑に評する現代の評論家たちが言っているのはつまり徳川幕府による武家に由来する文化芸能の式楽化のことだけを見てそう言っているのである。

実際、今の能楽が気絶するほどに退屈なのは徳川幕府による能の統制・形式化のせいにほかならない。義満や、秀吉や、家康らが見ていた能楽があんなつまらなかったはずはないと思うのである。家光・家綱の時代に幕府による能の統制が始まった。つまり能というものが、徳川幕府の専売特許にされてしまった。能もまた、公家文化のような家元制にされてしまった。画家の狩野家や大学頭の林家と同じ扱いを受けたのだ。こうなっては文化芸能は死ぬしかあるまい。

江戸時代には幕府の介入によって安泰化し、栄えているように見えて、実際には衰え死んでいった文化学問芸能がある一方で、庶民の活力によって次第に発展していった分野もあった。歌舞伎、浄瑠璃などもまた元禄に生まれたが、こちらは幕府の統制を受けることなくむしろ弾圧される側となったくらいで、町人文化という新たな、公家や武家と別の第三のカテゴリーを作って発展していった。幕府や武家によらない、町人の社会の中でだんだんと醸成されていった文化は、天保期にはすでに爛熟し、その勢いは幕末、いや、維新後にもずっと継続した。浮世絵から生まれた錦絵などは西洋の印刷術が伝来してなお進化し続けた。今日のマンガやアニメは錦絵の正統な後継者と言って良い。

そして国学もまた、徳川幕府による保護や統制を受けなかったことがむしろおおいに幸いして、驚くべき発展を遂げた。国学がもし官学化されて朱子学と混淆して武家の窮屈な教義になっていたらたいへんなことになっていた。そうなる可能性は、ちょっと頭のおかしな為政者がいたとしたら、実際十分にあったのである。荷田春満は明らかに国学を幕府の官学にしたがっていた。国学をもっと堅苦しい道徳に縛られた学問にしようとしていた形跡がある。賀茂真淵もますらをぶりなどと言ってちょっと怪しかった。田安宗武には実際かなり危険な傾向があったし、宣長の死後にはおかしな神道家や、神道系新興宗教や、明治の国粋主義者たちがワラワラ出てきた。国学はあっという間に偏向した危険思想になりかねないのである(宗教というものはすべてそうだが)。宣長はよく踏みとどまって後世に範を垂れてくれたと思う(宣長にもやり過ぎがあったことは否めないが)。それ以前にも、仏教と儒教と神道を際限なく混同した本地垂迹説や、山崎闇斎の頭のおかしな垂加神道なんかがいくらでもあった。東照宮なんて明らかに頭がおかしいし、あんなものを正統な神道と混同されては迷惑だ。

もちろん徳川宗家は賀茂真淵を重く用いたし、尾張や紀州の徳川家は本居宣長を崇拝すらしていたのだが、武家はやはり、公家のしばりを受けない漢学をどうしても根本教義としないわけにはいかず、下手に国学や和学なんぞに色気を出すわけにはいかず、したがって官学は朱子学のままであったし、朱子学と和学は水と油だから、結局、国学が幕藩体制の皮下組織まで浸透していくことはなかった。江戸時代に哲人政治家と言えたのは新井白石と松平定信の二人しかいなかったが(もう一人、荻生徂徠を加えても良いけれども)、その定信にできたことは、宣長の思想を密かに幕政に採用して、大政委任論を天下に公布したことくらいであった。薩長が国学を武器にして尊皇攘夷、倒幕の原動力としたのは必然と言えた。薩長は定信の大政委任論を大政奉還論に読み替えたのだったが、これとても徳川慶喜は反対したわけではなく、むしろ積極的に公武合体論の一部に組み込んで推進しようとしたのである。

和歌は国学によって再構築された。もし和歌が単に公家の専有物であったら、和歌は江戸時代に死滅していたに違いない。和歌とは別に町人は狂歌を愛好した。国学と狂歌の流行が合わさって、和歌は息を吹き返し、純化した。その最高峰はやはり香川景樹であったと言わねばならない。景樹によって何をもって「和歌の理想」とすべきかということが、やっとほのかに見えかかってきた。和歌には時代を超越した大和言葉という言語の普遍性(古典語、文語としての厳格さ、完成度)と、大和言葉によって表現されるポエジー(本来、話し言葉がもつところの叙情性、人間性、あるいは芸術性とでもいおうか)が必要なのである。

ところが、景樹の後継者、桂園派には二度と影響力のある歌人は現れなかったし、歌論の体系化も進まなかった。桂園派の歌人として最後の光輝を放ったのはやはり明治天皇と樋口一葉、わずかにこの二人しかいなかった。和歌とは何かということは結局うやむやになってしまった。

私が言いたかったのはつまり、(岡本太郎や渡辺昇一のように)江戸文化は元禄が最高でそれ以後二百年続いた封建制によって真綿に首を締められるように徐々に窒息したという見方は間違いだし、逆に江戸文化は素朴な元禄時代からだんだんに発展して天保で絶頂に達したというのも一面的な見方であるし、禁中並公家諸法度に守られた公家文化はどうしようもなく衰亡していったし、実際には公家、武家、そして町人文化が三つ巴になって絡まり合い交差し逆転しながら、江戸時代260年間をかけて確実に進歩していったということだ。その下ごしらえがなければ明治の文学などというものはあり得なかった。

思うに能楽は、綱吉や家宣くらいまでは面白かったのではなかろうか。しかし家継で家光の直系が絶えて、紀州の吉宗が江戸に入府して、吉宗以降の徳川将軍家はおそらく、「武家の式楽」としての能に存在理由は見出していたかもしれないが、もはや娯楽としての興味を喪失していたのではないか。能楽は幕府に守られたまま、どちらにその芸術性を伸ばし膨らませていけば良いかわからず、ただ宗匠の教えを墨守するだけとなって、生木の潤いを失い、急速に枯れた老木と化していきそれが、今日の能楽があれほど退屈なものになった理由ではないかと思うのだ。

茶道もそうだろう。信長や秀吉のころの茶の湯はもっとおもしろおかしいものだったはずだ。それが式楽化して、小笠原流などというものがでてきて、上流階級の作法、結婚前のご令嬢のお稽古ごととなって、死ぬほど退屈でつまらなくなった。

狩野派の絵にしてもそうだ。岡本太郎は狩野派の絵が嫌いすぎて洋画をやり始めた。狩野派の絵はつまらない。尾形光琳や俵屋宗達なんかの江戸初期の画家の絵と比べたら。その点については岡本太郎に完全に同意する。

とはいえ、式楽化によって能が死ぬほど退屈になったのはほぼ間違いないと思うが、もとの、退屈になる前の能を推定し復元することは不可能ではないと思うし、また、退屈になったことにはなにかの必然性はあったのだろうし、退屈ならば退屈でその中に面白さを感じることも不可能ではないと思う。少なくとも勉強してみる価値はあると私は思っている。生木には生木の、枯れ木には枯れ木の面白さがあろうというものだ。寺院建築や仏像も昔の彩色を復元することはそんなに難しいことではあるまい。そうしたくない、ふるぼけた骨董趣味を愛好する人がたくさんいるだけのことだろう。

つまり、普通に一般人が見れば退屈だけども、その退屈になった歴史的経緯や必然性を知識として理解していれば、かつての本来の姿を想像して、楽しむ方法はあると思うのである。たとえば、たとえとして適当がどうかはともかく、ピカソの絵は全然おもしろくないしうまいと思えないが、ピカソがなぜあの絵を描かなくてはならなかったという理由を知れば、多少はおもしろく見ることができるかもしれない。小笠原流にしても、興味ない人にはなんの価値もない、酒なんて立ち呑みで十分、懐石料理じゃ窮屈で飯を食った気にもならんという人でも、そうした作法も理屈として理解はできるかもしれないとは思う。理解はしても良いが、抹茶の最後のひとすすりをずずっと音をたてて飲むなどいう作法につきあわされるのはまっぴらごめんだ。

なんで私がそんなことを偉そうに言えるかというとまったく同じことが和歌でも起きているからだ。というか有史以来、日本の文化芸能で起きてきたすべての現象は、なによりもまず先に和歌で起き、和歌で見られた現象が、後からでてきた文化芸能でもみな同じような形で繰り返されるのだ。歴史は繰り返すってやつだ。

最初は単純素朴な娯楽、遊びだった。だんだんみんなが技巧を凝らすようになる。上流階級の目に止まって詩歌管弦の風流なもてあそびものにされたりもするし、身分は低いが面白い和歌を詠む人も出てくる。そうした地下歌人を発掘して洗練させる職業歌人で出てきて、教育したり、教材として整理したり、布教したりするようになる。世襲制度をたちあげて家元になりそれを飯の種にする人がいる。さらにそれを式楽化して、面白さなんてそっちのけでやたらとおごそかでお上品で、気高く尊いものにしてしまう人もいる。それを破って新しい歌を詠む人もいる。それらがもう、古いものから新しいものまで、公家も武家も、天皇も庶民も、みんなごっちゃになっているのが和歌なのだ。私はそういうものを一つ一つ見分けてきた。ちゃんと調べれば能楽でも同じことはできるに違いないと思う。

だから、日本芸能はなんでも、とにかくまず、最も古い和歌を学ばないことには何もわからない。国学が和歌を重視するのもそのためだ。

追記: どうも google が長い文章のほうを好んで検索結果の上位にもってくるというのは本当らしい。この文章が読まれている理由もそれではないか。あるいは、単体としてはそんなに長い文章ではないが、過去記事などにリンクがあってそっちもそこそこ長い文章などが好まれるのではないか。

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