徳川家康の母は「大」と言い、皇族ではない。
秀忠の母も、「西郷局」と言って、皇族ではない。
家光の母「江」も皇族ではない。
正室鷹司孝子は天皇家の血を引いていたに違いない、しかし実子無し。
家綱の母「楽」も普通の農民の娘。
正室は伏見宮貞清親王王女顕子女王。
家綱に実子はない。
綱吉の母「玉」は公家の家司と言われているが、実際にはただの召使いだろう。
正室鷹司信子は公家の娘なので、天皇の血を引いてるかといえば遠いかもしれないがたぶん引いてるだろう。
しかし信子には子がなく、また綱吉の子はみな夭折した。
家宣の母「保良」も一般人。
正室近衛熙子は母が後水尾天皇の娘常子内親王。
つまり熙子は天皇の孫娘だが、生まれた子はみな夭折した。
家継の母「喜代」も一般人。
霊元天皇皇女・八十宮と婚約するが、家継は早世。
吉宗の母「由利」も一般人。
ただし、正室は伏見宮貞致親王王女理子、死産の後死去。
家重の母「須磨」も一般人。
ただし正室は伏見宮邦永親王の娘増子、実子無し。
家治の母「幸」も一般人。
ただし正室は閑院宮直仁親王王女倫子女王、実子は女子のみ、いずれも夭折。
家斉の母「富」は幕臣の娘。
家慶の母「照」も一般人。
ただし家慶の正室は有栖川宮織仁親王皇女の喬子女王、長男竹千代を産むが夭折。
家定の母「美津」も単なる側室。実子無し。
家茂の母「美佐」は紀州松平。
ただし正室は仁孝天皇皇女和宮親子内親王、実子無し。
慶喜の母「吉子」女王は有栖川宮織仁親王の娘。
織仁は職仁の皇子、職仁は霊元天皇の皇子。
奇しくも、職仁は家継と婚約した八十宮吉子内親王の一歳年上の同母兄である。
母は松室敦子。
霊元天皇と松室敦子の娘は婚約まではもちこんだが、家継が幼くしてなくなったために、
天皇の血を引いた将軍が生まれることはなかった。
しかし霊元院がなくなってずっと後の幕末に、夭折もせず、成人して、
たまたま将軍職が水戸徳川家から一橋家に養子に出た慶喜に回ってきたのである。
家光以来、徳川将軍は皇女か、王女か、天皇の血を引いているはずの公家の娘を正室にしている。
しかし、誰一人として、慶喜以外は、将軍となることがなかったのである。
もし、慶喜が、天皇の血を引いていなかったら。
もし、慶喜が、水戸光圀の血を引いていなかったら。
もし、幕末、慶喜以外の普通の徳川将軍が就任していたら。
皇室に対してあれほどの恭順の姿勢を示しただろうか。
おそらく将軍家はもう少し保っただろうし、或いは日本が二分することもあったかもしれない。
慶喜の血の由来を意識しないことには幕末維新は語れないのではなかろうか。