tanaka0903.net が固まっていた。JetPack とか All in One SEO などのプラグインのせいであるのは明らかだ。いまどきアフィリエイトもやらずに、非力なレンタルサーバーで、プラグインも使わずに、wordpress を使い続けることにどんな意味があるのだろう。だがまあ、ともかくこのまま使い続けてみようと思う。もしかするともう少しうまい方法がみつかるかもしれない。facebook と連携なんてアホなことをやるのはやめた。
カテゴリー: 雑感
廃仏毀釈
明治政府が発令した神仏習合の禁止は、廃仏毀釈運動にまでエスカレートした。
神道にもある程度の多様性があり、仏教との相性もさまざまだった。神道の中でも例えば伊勢神宮のようなご神体とか神域、物忌みをしなくてはならない斎宮などと関係が深いところは仏教と相容れない。同じように斎宮がいる上賀茂神社もそうである。
神道がその純粋性、純潔性を保ち得たのはこの「物忌み」「穢れ」という神道固有のタブーのおかげだった。タブーを否定することで世界宗教となった仏教と、タブーを中核とする土着宗教である神道は、最終的に決裂した。皇室行事の中核にもこの「物忌み」「穢れ」があって、故に、その中心部まで仏教の影響が及ぶことはなかったのである。神道から見れば仏教は「穢れ」そのものであるからだ。神道の本質は「穢れを忌む」ことであるという原点に立ち戻れば、神仏分離という原則が当然発動する。この信仰は千年を経ても風化しなかった。
天皇は神官であって仏弟子になることは許されないが、上皇になってしまえば出家することができる。同じように、伊勢神宮には仏教は侵入できないが、神宮寺というものが伊勢神宮を取り巻くことなった。ここまでは仏教が入ってきてもよい。ここから先はダメという線引きがなされるようになった。天皇がいなければこのようなぎりぎりの基準が模索され、議論されることもなかったに違いない。平安時代にはすでにこの慣例が確立していた。
しかしそういう明確な線引きができない神社では、神道は仏教によって際限なく侵食されていく。出雲大社や熱田神宮ですらそうだった。
八幡宮は、おそらくは渡来人が建てた神社であって、もともと仏教の禁忌が弱かったと思われる。宇佐神宮、石清水八幡宮、鶴丘八幡宮などは速やかに習合が進んだ。
明治の神仏分離で一番に影響をうけたのは、当然、神宮寺、そして権現社であった。八幡宮は、武家の守護神ということで、国学の影響をもろにうけて、仏教的色彩を意図的にぬぐい去ろうとした。奈良の興福寺は春日大社との癒着が強すぎ、また内山永久寺は石上神宮の神宮寺であり、それがために攻撃された。
それ以外の仏教宗派では、比較的影響は少なかったはずであるが、一部の狂信的な神道家が、明治政府の権威を笠に着て、たとえば県令という立場を利用して、無茶な命令を出すこともあった。しかし、神仏習合と同様に廃仏毀釈の主体は民間であったことはもう少し指摘され、平田篤胤が提唱した国家神道理論にかぶれた明治政府のせいという見方は矯正されて良い。
神仏習合は長い時間をかけて、民間主導で、しばしば由緒正しい神社の権威に寄生して肥え太ってきた文化的侵略である。上田秋成も国学者ではあるが神仏習合自体が悪いとは考えていない(というか、神仏習合にかなり同情的だった、と言うべきか)。明治の廃仏毀釈に相当するのはかつての物部氏の反発であったり、清盛の南都焼き討ち、信長の比叡山焼き討ちも一種の揺り戻し、仏教勢力が力を持ちすぎると自然に起きてきた反発である。特に江戸時代になって、檀家制度によって肥大華美となり、神道の権威にすりよった仏教は、江戸時代の古文辞学、国学の発達によって、ある程度まで見直される必要があった。
廃仏毀釈、或いは廃寺によって行き場をうしなった檀家は、神道に改宗したり、寺を神社に改組したり、神道系の新興宗教を立ち上げたりしたであろう。あまり意味のあることとは思えない。また工芸品としての仏教美術をうしなうことにもなった。ただ「廃仏毀釈」の是非を問う人たちのほとんどがこれを単なる愚挙と見做しているのは愚挙である。仏教勢力は結局、GHPの農地解放によって、領主、地主としての地位を失って大きく衰退した。その後、仏教そのものの衰退によって、「無駄に多い」寺は存続の危機に立っている。
日本には寺が多すぎる。江戸期にどれほど仏教が無秩序に肥大化していったか。特に関東の人間にはそれがわからない。平気で寺の隣に神社を建てたりする。京都市街など見れば、寺と神社は明らかに区別されている。その、神道と仏教は区別しなければならない、
という感覚に鈍感すぎる連中が関東には多すぎるのである。神道も仏教もキリスト教も、冠婚葬祭は全部同じところでやれば良いという発想はわからぬでもない。しかしそれではダメだと思う人も関東以外にはたくさんいる。
鎌倉仏教の基礎を築いた北条氏は、南宋の文化と文明を輸入するための方便として臨済宗を取り入れた。しかし、民衆たちが、仏教を念仏と偶像崇拝の宗教にしてしまった。
もしキリスト教が神道と無秩序に混淆してしまったとしたら、キリストと天照大神は同じだなどと神道の教義が説くようになったとしたら、反発する日本人は少なくないだろう。しかし仏教に関しては長らくこのような説が主流だったのである。
神道が念仏にも偶像崇拝にも、大伽藍建築の悪弊にも、かろうじて染まらなかったのは幸いだった。
アメリカ映画
ハリウッド映画やアメリカドラマでは、よく夫婦が離婚する。離婚した状態で物語が始まる。或いは別居中である。仕事はできるが夫としては頼りない男が主人公で、ヒロインは別れた妻で、子供は妻に取られてて、困難を克服して夫婦はふたたび仲直りする。というストーリーになっているのがすごく多い。ナンデヤネン。
一方で、主人公が軍人の場合には(退役軍人をのぞく)、彼は理想的な男であり、良き夫であり、妻とも子とも仲が良い。しかし軍人なので家を離れがちであり、しばしば愛する妻に電話した後に死んだりする。
この扱われようの違いはなんだとおかしくなる。
アメリカでは、軍人は頼りない夫であってはならない。そんなストーリーはタブーなのだ。
ソラリス
自分で小説を書くようになると、むかし読んだ小説が違って見えてくる。『ソラリス』を読み解くのはなかなか厄介だ。まず原作のスタニスワフ・レムという人がややこしい。『ソラリス』を読んだだけではよくわからん人だ。それをアンドレイ・タルコフスキーというソビエトの監督が映画化した。これまたよくわからん映画だし、映画版『ソラリス』を見ただけではタルコフスキーという人はわからない。
さらに『ソラリス』をよくわからなくしているのはハリウッド版の『ソラリス』なのだが、ハリウッドという存在をある程度知っていれば、このような脚色になるのは理解できるし、その知識に基づいてリバースエンジニアリングすれば元の『ソラリス』をある程度「復元」することも可能だ。
タルコフスキー『惑星ソラリス』:悪しき現実逃避映画。山形浩生もまたそのややこしさに目くらましされているように思う。もしかすると彼は東宝が配給した日本語吹き替え版を見たのかもしれない。この日本配給版は、冒頭で説明的なナレーションをかぶせたり、
意味深な前振りをざっくり省略したりしている。この前振りはラストと呼応しているわけだが、前振り抜きでラストだけ見させられると、どうしても山形浩生のように、
タルコフスキーは最後の最後でそこから逃げる。
という印象になってしまうだろうし、そこから
現実との直面を妄想との置換で逃げるやりかたのあらわれでもある。
という結論に導かれてしまいがちなのである。レム原作の『ソラリス』は現実逃避な話でもなければ、「愛が世界との関係の比喩になっている」作品でもない。最初から最後まで完全純粋なSFである。SFというか、物語仕立てにした、科学的手法に基づいた思考実験、というべきか。その「まな板」の上で「恋愛」が調理されているに過ぎない。この「まな板」はレムの他の作品と共通なものだから、それを知った上で『ソラリス』を見れば、ああ、レムは今回は「恋愛」をSF的手法で徹底的に切り刻んだわけだと、簡単に理解できるのである。
大嫌いです。冷たくて人工的で。だいたい兄は映画で、家族への思慕を繰り返し描きますが、実際には実家にも全然帰らず、まったく家族に会おうとすらしなかったんです。あんなの全部、口先だけのインチキです
変なことを言う、と思う。創作者はみな自分を狂気に追い込まなくてはならない。狂気の中に身を置かねばならない。いつも自分がほんとうに狂ってしまわないように自分の理性をコントロールしながら生きていくものだ。家族が好きかどうかということはあまり関係ない。それに妹に兄のことがわかるはずがない。親にも子にもわかるはずがない。映画監督の気持ちなんて。
それでまあ、山形浩生は律儀な人だから、レムの原作も読んでみたわけだ。感情なき宇宙的必然の中で:スタニスワフ・レムを読む。ところが彼はレムの小説ではなく彼が書いたSF評論を先に読んでしまったようだ。山形浩生は作家ではなくて評論家であるから、評論家としてレムを見ようとしたのかもしれないが、レムの評論に何か意味があるとは思えない。レムはSF作家以外の何者でもないからだ。
さようなら、人間嫌いのレム。死んで、水のつまったべちゃべちゃの醜悪な肉体から解放されたあなたは、機械に生まれ変われたでしょうか、それとも情報の炎を放つ星になれたでしょうか。もうしばらくして人間の時代が終わり、宇宙の主役が交代して機械となったとき、その機械たちにあなたの慧眼が伝わりますように。もっとも……あなたが正しければ、おそらくぼくたちは、その交代が起こったことにすら気がつくことはないのでしょうけれど。でもその一方で、かれを悼む人々に対してレムなら平然と言い放つだろう。悲しむことはない、と。
「機械に生まれ変われた」というのは『砂漠の惑星』のことを言っているのだろうし、
「情報の炎を放つ星になれた」というのは惑星ソラリスのことを言っているのだろう。
しかし、レムはおそらくただの「人間嫌い」ではなかったはずだし、宇宙の主役が機械になってしまうことを望んでもいなかっただろうし、自分自身が機械になりたいとも思ってなかったはずだ。
レムが嫌っていたのは、例えばウェルズの『宇宙戦争』のように、地球に人間が住んでいるのならば、火星には火星人が住んでいるはずだ、とか、火星人がいたら、地球人が民族どうし戦争するように、戦争するはずだ、文明人が野蛮人を征服するように、火星人のほうが地球人よりも文明が進んでいれば、先に火星人が地球に征服に来るはずだ、という「あまりにも人間的」な発想だ。19世紀のヨーロッパ帝国主義的と言ってもよい。
このウェルズ型の素朴な「宇宙人」「侵略者」は、徐々に洗練されていく。人間と良く似た宇宙人がいて、地球を侵略しに来て、時には宇宙人と地球人の間に恋愛が成立して、子供まで出来てしまうという、実にご都合主義的なSFも出てくる。そのご都合主義は、イデオンのように宇宙人も地球人ももともとは同源であるとか、キューブリックのように、キリスト教的な、地球のすべての生命体のスーパーバイザーとしての知的生命体の存在を仮定したりする。『未知との遭遇』のように、戦争に倦んだヒッピーたちは人間の形に似ているが友好的な宇宙人像を求めた。すべて馬鹿げたことだとレムは思っただろう。そんな人間に都合の良いような、人間の想像力で説明が付くような宇宙人が存在するはずがない。人間の都合で宇宙人を作るな。それは、人間の都合で神を作ってきたのと同じくらい馬鹿げたことだ。人間固有の発想に囚われている。先入観を捨てて、人間的発想から脱出しなくてはホンモノのSFは書けない。レムはそう思ったはずだ。
宇宙には人間とはまったく異なる知的生命体が存在するに違いない。それはどういうものであり得るか、ということを(20世紀に生まれた人間という限界の中で、ぎりぎりまで)追求したのがレムという人だった。他のSF作家が「あまりにも人間的」なSFばかり書くのでそれに反発したのがレムであったというだけであり、そここそがレムのオリジナリティーなのである。作家が自分のオリジナリティーに過度にこだわり、必要以上にのめり込むのは当然といえる。レム自身が人間嫌いだったとは言えない。
飯田規和氏の訳はともかくとして、『ソラリスの陽のもとに』という早川文庫の邦題は余計だ。「ソラリス」はもともと「太陽」の意味でかぶってるし、「ソラリスの陽」ではまるでソラリスは恒星のように思える。まあ、惑星をソラリスと名付けるのがそもそも問題だが。『ソラリス』だけでわかりにくいというのであれば『惑星ソラリス』くらいにしておくのが一番良かろう。『ソラリスの海』というのは冨田勲の命名。
タルコフスキーが『ソラリス』をあんな恋愛ものに仕立ててしまった理由はよくわからない。レムは反発してそして抵抗を諦めたのに違いない。『僕の村は戦場だった』で、白樺林の中でマーシャがくるくる回るシーンがある。そしてあの暗く冷たい湿地帯のイメージ。まさにポーランドの原野だ。『ソラリス』では東京の首都高をぐるぐる走ってる。要するにタルコフスキーはそういう映像表現が好きな人であって、それを『ソラリス』に投影すればあんなふうになるのだろう。としか言えない。
ハリウッド版の『ソラリス』はまあどうでもよい。タルコフスキー版からヒントを得て、きちんとしたSF恋愛ものにリメイクしてしまった。ヒロインは悲劇のアンドロイドとして描かれている。和食がみんな醤油味なのと同じで、ハリウッドの『ソラリス』はハリウッド味のハリウッド映画、としかいいようがない。
レムの『ソラリス』だが、導入からして完全にSFである(タルコフスキーとはまったく違う!)。第一章の終わりで、スナウトの手に干からびた血がこびりついている、という記述がある。この日の朝、ギバリャンは死んだとスナウトは言っているのだから、スナウトがギバリャンを殺したか、あるいはその死に深く関わっているだろうということが暗示される。うまいひっかけだと思う。読者はこのひっかけにひっかかってさらに読み進めざるを得なくなる。多くの謎が第一章で投げかけられるが、そのほとんどすべてがあとで裏切られていく。そこがまあこの作品のおもしろさだろう。第二章ではさらに昔死んだ恋人が現れる。これがだめ押し。ここまで読めばとりあえず読者は中盤までは読み進めるだろう。レムの他の作品にもあると言えばあるが、これほど巧妙な仕掛けはしてないと思う。
私もこういう仕掛けを使わなきゃならんなと思わせる。
ま、しかし、レムの代表作が『ソラリス』なのはタルコフスキーの映画のせいであって、『ソラリス』が真に理解されたからではないし、『ソラリス』だけに恋愛要素があるからでもないだろう。『ソラリス』は確かに傑作だが、その評価はかなり本質からずれていると思う。
『ソラリス』の多くの部分は、おそろしく退屈だ。恋愛なんて一言も語られない。ここはレム自身による作品解説になっている。タルコフスキーもハリウッドもこの部分はざっくり省略している。多くの読者もそれらはよみとばしているのではないか。
真ん中あたりに「バートンの飛行日誌と調査委員会における証言」というエピソードがある。巨大な人間の赤ん坊がソラリスの海の中で、ソラリスに操られて無意味な動きをしているという場面などが出てくる。実は『ソラリス』は他を一切読まず、ここだけ読んでもわかる。『ソラリス』という話の核とも言える。もしかするとレムは最初にここを書いて、前後を付け足したのかもしれない。
レムはおそらく科学者に憧れた人だっただろう、宇宙時代を開拓したソビエトという国家に現れた科学者たちに。少なくともレムの作品にはオカルト的な、不条理な、ファンタジー的な要素はひとかけらもない。100%ピュアな科学小説だ。レムにしてみれば、この作品は小説の体裁をした「学術論文」あるいは「哲学書」という性格のものであり、徹底的につじつまを合わせ、ネタばらしをしなくては気が済まなかった。実は私も「エウメネス」や「マリナ」ではそうしている。前半部分は読者サービス。中盤以降の解説部分は、たぶん読者にはあまり興味ないのだろうと思うが、著者としては書かずにはおれない。
finis vitae, sed non amoris
などと言った、恋愛小説めかした文句は結局は飾りなのだ。
機動戦士ガンダム THE Origin
「機動戦士ガンダム THE Origin」なんだが、comic-walker などで無料の試し読みが見れるので、読んでみたのだけど、これはねえ。安彦良和の悪いところが出てしまっているというか。「王道の狗」「虹色のトロツキー」なんかは好きで読んだけど、それとおなじノリをガンダムでやられると、正直つらいところがある。「麗島夢譚」的なノリというか。
フラウボウとアムロ、ミライとブライトの関係なんかも見ててはがゆい。
本人が描きたかったということもあるんだろうけど、描けば必ず売れるという計算もあっただろうと思う。安彦良和のオリジナル漫画なんてマニアック過ぎて誰も読まないからね。
オリンピック
アッリアノスなんか見てると、神前に犠牲を捧げて、体育の捧げ物とか音楽の捧げ物とか、競技などを催すのだけど、これが近代オリンピックのひな形なのだろう。
この、古代ギリシャにおける、神に捧げる体育競技というイメージと、今のオリンピックはほぼ何の関係もないような気がする。こんなものを捧げられた神様はたまったもんじゃない。
オリンピックなんてやめて、個別競技の世界選手権で良いのではないか。インフラ整備なんてものをいちいちやる必要ないし。同じようなもので万博というのももう死んでしまったし。
一度リセットしてみるべきなのではなかろうか。
エウメネス2 ― イッソスの戦い ―
最初は「エウメネス2」か「イッソスの戦い」かどちらにしようか迷ったが、結局間をとって「エウメネス2 ― イッソスの戦い ―」とした。
図版無し90枚くらいのはずが、図版あり225枚くらいになった。かなりの大作だ。最終的には250枚くらいになるだろうと思う。
「イッソスの戦い」がメインなのだが、だんだん書いていて「テュロスの戦い」もけっこういけるんじゃないかなと思えてきた。この「テュロスの戦い」だが、あまり深く掘り下げて書いたものはなさそうだ。むろん、イッソスにしろ、テュロスにしろ、アッリアノスの「アレクサンドロス東征記」を下敷きにしているわけで、こちらのほうが細かいといえば細かい。しかしほかの文献で補完したりしてかつ私なりの脚色と考察を加えているわけだから、私のほうが詳しいといえば詳しい。割と良い出来だと思う。
先に書いた『エウメネス』だがだいぶ整合性がなくなってきたので、少し書き換えた。少しだけだけど。最新版ダウンロードはアマゾンに個別にリクエストしてください。すみませんが、よろしくお願いします。変えたところというのは、まず、カルディアというポリスのことを誤解していた。カルディア == トラキアのケルソネソス半島だと思っていた。実際にはケルソネソス半島のごく一部。また、エウメネスの母をトラキア人としていたのだが、フリュギア人に統一。
しかし、『ヒストリエ』ではなぜエウメネスをスキュタイ人としたのだろうか。たぶんプルタルコスの『対比列伝(英雄伝)』の記述に引っ張られたんだと思うが、『対比列伝』は、ローマ人についてはともかくとして、ギリシャ人の記述は民間伝承レベルで、決してよろしくない。と思う。ヨーロッパからみたスキュティアは今のウクライナ辺りになるのだが、北方のトラキア人を広い意味でスキュタイ人と言ったのだろうか。そうかもしれんね。
もうほとんど完成したと思うんだが、出版予定日は繰り上げずに予定どおりやると思う。
こまごましたところはゆっくり直していけば良いと思うんだけどねえ。KDPなんだし。
ちょっとだけネタばらしすると、テュロスの戦いですごいのは、おそらくアレクサンドロスが世界で初めて「投石器を搭載した軍艦」を建造し、実戦に投入し、これによって勝利した、ということだと思う。誰か前例を知ってたら教えてください。無いと思うけど。
それまでの海戦はだいたい軍船どうしの戦いだったはずだ。一日で決着がついた。しかしテュロスの戦いは軍船による島の上に建てられた城の包囲戦だった。こんな戦いがテュロス以前にあったはずがない。これがゆくゆくは米海軍による黒船襲来、マニラ艦砲射撃へとつながっていくわけですよね。もちろん軍船の上で弩を使って撃ち合った、というようなことはあったかもしれんが。
でまあ、私としては、テュロスの戦いはもっと注目されて良いと思った。と言っても、イッソスの戦いですら、日本ではあまり話題になることがないのだよね。
あと一気に読むのは長さもあって辛いと思います。私も校正してて気絶しました。地名や人名がたくさん出てくるのは勘弁してください。そういうところは流し読みしていただけると助かります。
これを当てて、ゆくゆくは総集編を出したいよねえ(笑)
あ、あと、アマゾンが 50pt 付けてくれてるのはありがたい。
血圧
血圧がすごく下がることがある。もともとそういう体質でもなければ、そういう病気に罹ったわけでもなく、これは飲んでいるアーチストという薬が血管を拡げているせいなのだ。そうすると、立ちくらみすることがある。歩いてたり、座って安静にしていても、
急に血の気が下がったような状態になる。ところがまあ、日本では(世界的にも?)、血圧は低ければ低いほど正常なことになっていて、私の場合低いと言っても上が 100 とか 105 とかなんで、医者に言っても「正常値です」「大丈夫です」としか言われない。しかし血圧が低い状態で気分悪いから寝てしまうと寝たまま死んでしまうんじゃないかと不安で仕方ない。
私の場合もともと血圧は高いほうで、130 とか 140 くらいが普通で、そういうときは目も覚めるしやる気も出る。しかし血圧が低いとなんか生きる気力まで失われてしまう。電車に乗ると、いつ気分が悪くなるかと気が気でない。田舎で、仕事もせず、車にも電車にも乗らない生活をしてればいいんだろうが、それもできない。なんかもうすごい年寄りになった気分になる。ここまでしてこの薬を飲まねばならないのかと思う。何度か医者に文句を言ったこともあるんだが「我慢して飲んでください」としか言われない。血圧が低すぎて死ぬ人は、高すぎて死ぬ人に比べて皆無に近いのだろう。
この低血圧というのは女性には多い症状なのかもしれない。生まれたときからずっとそうならば、人生とはそうしたものだと思うかもしれんね。
じんましんが出たり、おしりにおできができるのは、毎日きちんと石鹸で体を洗い、きちんと下着を着替えれば、ほぼ防げるようだ。しかしそれがなかなかめんどうだ。じんましんに関していえば、ほぼ原因は、食べ物によるアレルギーではなさそうだ。酒を飲むとめんどくさくてそのまま寝てしまう。それが2日続くとじんましんがでる。たぶんそんな感じ。
1日以上放置すると確実に体の表面の角質層に残った脂が古くなってダメだ。汗をかくたびにシャワーを浴び、古い角質と脂を洗い流し、新しい脂をワセリンなどで補充し、下着を替えると完璧なんだろうが、そこまでする必要もなさそうだ。というよりそんなことしたら別の皮膚の病気になるかもしれん。
おできは今まで気にしなかっただけで毎日できては消えているらしい。おしりを圧迫したりむれたりするのが良くないようだが、よくわからない。できるのはしかたないからそれがかぶれたり悪化しないようにやはり清潔にしておかねばならない。
昔は体のことなど何も考えずに暴飲暴食してたわけだが、そうもいかなくなったのはやはり加齢のせいだろう。皮膚の新陳代謝が衰えているのはまず間違いない。
神鹿、死刑
昔、神鹿を殺すと死刑になった、といわれているのだが、ちょっと信じられない。常識的に考えて、あり得ないことだ。
信長が神鹿を殺した者を密告させて、処刑したという記録があるそうだ。しかしこれはおそらく、奈良の鹿を組織的に密猟した者がいて、処罰したという意味であろう。たまたま過失で鹿を殺してしまって、それでただちに死刑になるはずがない。
だいたい誰が死刑を執行するのだろうか。春日大社の宮司?そんなはずはない。東大寺か興福寺の僧兵?まさか。
江戸時代の奈良奉行や京都所司代、あるいは寺社奉行ならば幕臣だが、幕府の役人が鹿を殺した程度で人民を処刑するはずがない。鎌倉時代の北条氏、室町幕府ですらそんなことをするとはとうてい思えない。
鹿の密猟というのは寺社領でなくともよくあったことだろう。その首謀者は、場合によっては死刑になることもあっただろう。
アーチスト
最近体調が悪いのは、心臓の具合が悪いとか、年をとったからということもあるかもしれんが、たぶんアーチストという薬を飲んでいるせいだ。
服用を忘れたときに、2回分をいちどに服用すると血圧が下がりすぎて、めまい、転倒をおこすこともあります。飲み忘れたときは、その分は抜いて、次回から正しく飲んでください。
アーチストは血管を広げて血圧を下げ、これによって心臓の負担を軽くしている。しかしながら、よく立ちくらみするようになった。しばらくすると体が慣れたのか立ちくらみすることはほとんどなくなった。しかし電車に長く立っていると気分が悪くなってきて、冷や汗が出てくるようになった。たぶんアーチストのせいだと思う。
座っていれば特に問題ない。短い時間なら問題ない。歩いてるのは全然平気。しばらく山歩きしても、息が切れるとかそんなことはない。
でまあ、電車やバスではできるだけ座るようにしているのだが、本来は私のような人間が優先席に座ってよいはずだが、見た目は健常者なので、席を譲ってもらうのは難しい。アーチストの量を減らしてもらいたいとも思うが、それで心臓に問題が出ても困る。でも減らしても全然平気なのかもしれない。
血圧というのは多少高いくらいが体調は良いものだ。がんがん遊びたくもなる。しかしそれはもうできない。いつもなんか眠い感じもするが、無理せず寝るようにしている。私は日本が認めた重病人なのだからなー。
通勤というのがまあ問題なわけですよね。特に都心方向への。多少金がかかっても仕方ないので指定席でいくか、あるいは逆に各駅停車で行くようにしているが、ときどきどちらもできないことがあって、そんなときたまたま座れると良いが、座れないときは、ときどき途中下車して休憩しなくてはならないだろうと思う。実に面倒だ。
そんなふうで私はいつも生命の危険を感じて生きているわけだ。私のような人間は早く田舎に引っ越して店番かなんかして、毎朝墓参りなんかして生きていくのが体には良いのだろう。そうしてただ無為に、死ぬまでの間生きていく。もう、それで良いのではなかろうか。
皮膚が弱くなってきている気がする。これも薬の副作用かと思ったがなんともいえない。私は汗かきなのだが多少汗をかいてほっといてもたいしたことにはならなかった。しかし今はこまめに下着を替え、体を洗ったり拭いたりするようにしている。まあ、普通の人がふつうにやってることをやるようになっただけなのだが。