ヤマザクラとミドリヤマザクラ

さくら品種図鑑桜花譜等々を見ると、山桜には主に「ヤマザクラ」と「ミドリヤマザクラ」がある。私も近所の公園をぷらぷらと歩いてみたが、新しい葉の葉緑素が足りずに赤みがかって、一見枯葉のようにもみえる桜の木がある。こちらが吉野山などの「ヤマザクラ」なのだろう。一方で青々とした葉の「ミドリヤマザクラ」というものもある。

ヤマザクラの美しさはおそらく、花の白さ、花芯や軸の赤さ、新葉の茶、赤、黄色みがかった緑まで、さまざまな淡い色合いが混じり合い、それらが山全体にわたって咲いているようすなのだろうなと思う。

ソメイヨシノは枝が横へ横へと広がっていく。ミドリヤマザクラもだいたい同じような形になる。どちらも花が間近に見れて、観賞用には良い。しだれ桜などはさらに花が目の前まで垂れてくる。しかし、「ヤマザクラ」は枝が上へ上へと伸びてたいへんな高木になり、さらにその梢に花が咲くので、花自体をよくよく見るのは難しい。特にやぶの中に生えているものは、他の雑木と競うから、よけいに上に延びる。写真にも撮りにくい。池の岸辺などに生えているものは、これも池の真ん中の方へ伸びてそこで咲いている。やはり写真にとりにくい。日本原生種の古態を留めていると言えば言えよう。とまあそんなわけでまだ満足のいく「ヤマザクラ」の写真がとれてない状況ではある。

ねぢけゆくわが心

木の花の 咲くがなどかは めづらしき よそぢとしふる 我が身なりせば

木の花の うつしゑうつす はかなさよ よろづの人も ならふてぶりに

ねぢけたる 老い人なれや わこうどの いはふ日なれど たのしくもなし

春の日に ねぢけゆくわが 心かな おくりむかふる 人の世ぞ憂き

いはふとて 飽かざらましや 千とせふる つるかめの身の 我ならなくに

いはふべき 春の良き日に しかすがに ふさがりとざす 我が心かな

ねぢをれて ひねまがりたる 老いけやき 憂き世に長く ふればなるべし

浮かれ女や 浮かれ男つどふ 春の野辺 たまゆらにこそ 浮かれやはせめ

大国魂神社

なぜか大国魂神社にしだれ桜を見に行く。そのあと府中美術館。歌川国芳展。まあまあ。
文覚が那智の滝に打たれる三枚続きの浮世絵が印象的。

ひろびろとして良い町。工場も多いし競馬も競輪もあるからさそがし地方税やら医療費やらは安かろう。戦闘機も飛ばず静かだし。のんびり住むには良い町だろう。

たま川を わがこえくれば 川の辺に 咲きたる桜 ひと木だになし

しだれざくらは赤みが強い。エドヒガンの一種らしい。ということはやや早咲き。ほぼ見頃だが、まだ満開ではなく散るようすもない。

こちらはやはり早咲きの、府中美術館近くに咲いていた大寒桜。

頼義・義家父子と家康が奉納したという大国魂神社ケヤキ並木を

武蔵野の司の道にうゑつぎていやさかえゆくけやき並みかな

しかし八幡太郎が千本植えてさらに家康が補充したはずなのに現在は150本しかなくてしかも並木道の全長は500mもあるっていうのはどういう計算なんだいという。もともとせいぜい100本くらいしか植えなかったんじゃないのかなと。イチョウ、ケヤキの並木、大木が多い。五月頃来るとまた美しいのだろう。

二宮金次郎

菜の花の 咲けるをりには 思ひやれ 身を立て世をも 救ひし人を

「歯がない」と「はかない」をかけて

をさなごの歯の生えかはりゑむかほのはかなきものは春ののどけさ

をさなごのはかなきかほをながめつつ春のひと日を過ぐしつるかな

またたばこ

いたづらに立つや浅間のけぶり草目には見えでもけむたきものを

「本居宣長」連載

小林秀雄「本居宣長」は連載もので、50回に分かれていて、正直なところ、この50回という切りの良い数字は、必要があってそうなったのではなく、何か出版社との約束事でもあってそうなっているだけなのではないか。というのは、連載も30回を過ぎた辺りから内容もとりとめなく朦朧としてきて、わけがわからなくなるのである。明らかに連載第1回と続く2回目の「遺言書と墓、墓参、法事等について」「辞世の歌」などはおもしろい話題だ。ぐいぐいと引き込まれる。3回目「松坂の生家、生い立ち、家業など」は、まあ普通の前フリ。それから延々と話は宣長からそれて、19回目の「賀茂真淵の万葉考、枕詞考など」からまたおもしろくなり、20回目「真淵との書簡のやりとり、宣長の歌詠み批判、破門状など」。21回目「宣長の弁明、新古今風についてなど」。22回目「歌学と詠歌」辺りまでがこの連載の山場だと思う。その後は 25回目「(ざゑに対する) やまとだましい、やまとごころ、姿と意、など」、26回目「平田篤胤など」、27回目「ことだま、古今仮名序、土佐日記など」がややおもしろいが、28回目以降は古事記の話題が中心になり、明らかにどうでも良いような神道教義の解釈うんぬんという話になり、29回目の「津田左右吉「記紀研究」の紹介など」からどうも明らかにテンションが下がりまくり、後はもうどうでも良い感じ。というのが私の率直な読後感ですが何か。そうだな。ざっと5分の1、要領よくやれば10分の1でまとまると思うのだが。

また、補記の方だが、1回目にプラトンやソクラテスの話ばかり出てくるのは冗談としか思えないし、3回目の「真暦考」についての話がややおもしろい程度で、どうも別段どうということもない。こういうものを頭から難解だが名著だと信じて読んでも意味はわからないと思うのだが、どうよ。

本居宣長の最大の功績はやはり「古事記考」という大著をまとめたことだとは思う。当時解読不能になっていた古事記を読み解いた。それはすごいことだ。特に、古事記は日本書紀に比べて神話時代の話が濃密であるし、宣長は神話はすべて事実だと考えていたから、どうしても宣長という人は神代について、神話について研究した人という見え方になる。

さもなくば源氏物語を読み解き、「もののあはれ」の重要性を指摘し、近代小説との類似性に着目した人、ということになる。この辺りは近代の作家のひいきによるものだろう。

そこでつまり本居宣長とは「古事記」と「源氏物語」の人だということになる。それはそれで間違ってはいないと思う。小林秀雄も最初読んだのは「古事記考」でさらに折口信夫に「本居さんはやはり源氏だよ」などと言われて考え込んだりしている。そういうことが冒頭に書いてある。やはり小林秀雄にとっても宣長について書くきっかけは「古事記」と「源氏」だったわけだ。未だに世間一般ではそういう見方に違いない。

だがその書いたものを見るに彼が着目しているのは宣長の遺言だったり、真淵との師弟関係だったり、「うひやまぶみ」で彼が主張しこだわっていることだったり、異様に膨大な詠歌群だったり、「やまとごころ」「やまとだましひ」の発見だったりする。いやそもそも「やまとごころ」の意味を発見したのは、というより宣長が実は(幕末や戦前において)まるで理解されていなかったことを発見したのは、宣長を理解し再発見した小林秀雄自身の功績であろう。後半の古事記うんぬんの辺りはただ単に小林秀雄の独学というか独り言のように思える。ひどい言い方をすれば義理のために書いた埋め草というか。ただまあ、書きたくて読ませたくて書いた部分ではないのではないかと思う。

坂本は文字がありません。

巖本善治編勝部真長校注「新訂海舟座談」を読む。 江藤淳の「氷川清話」以上のことは書かれているようにも思えないが、附録で、 高木三郎という人が坂本龍馬について

坂本は大きな男で、背中にあざがあって、毛が生えてね。

坂本は、柔術を知らないものですから、

坂本は、文字がありません。

などと言っている。 龍馬は文字の読み書きができなかったらしい。 手紙を書いたとしても代筆だったのだろう。 あの有名な、姉に宛てて書いた手紙も代筆なのだろう。 武士で柔術を知らないというのも当時としては珍しかったのだろう。 剣術は千葉道場で北辰一刀流の目録をもらったというが、五六年もいれば誰でももらえるようなものではないか。 印象としては、行動力はあるが無学文盲の大男、といったところだろう。 勝海舟、西郷隆盛、その他長州や薩摩の志士たちにはだいたい最低限の教養はあったが、龍馬にはなかった。

ともかく、文字を知らないというのではまず和歌は詠めまい。 柿本人麻呂も文字は知らなかったかもしれないが、 それとこれではわけが違う。 仮に詠めても有名な歌のつぎはぎくらいしかできなかっただろう。 読み書きができなきゃそろばんもできなかっただろう。 政治家くらいにはなれたかもしれんが、
商売ができる人間ではなかったのではないか。

龍馬は『新葉和歌集』を欲しがったというが、なんのためだったのだろう。

wikipedia に

平井収二郎 「元より龍馬は人物なれども、書物を読まぬ故、時として間違ひし事もござ候へば」

とあるのも同じか。

勝海舟の歌:

天駆ける翼持たねばにはつ鳥あはれ落ち穂を争ひにけり

なんとも言えない歌だな。

勝海舟が危篤になったときに高崎正風(歌会所長、明治天皇の歌の師)が詠んだ歌:

眠られぬ夜寒の床に響きけり氷川のもりの雪折れのこゑ

玉の緒の絶えぬうちにと駆けつけてかひもなくなく帰る悔しさ

移りゆく世をうれたみて語らひしこゑなほ耳の底に残れり

身は苔の下にありともたましひは天駆けりてや世を守るらむ

「うれたむ」は「憂ひ」+「痛し」が動詞化したもののようだ。
まあ普通。実に平凡。というか明治天皇の御製に良く似ていてびっくり。
明治天皇の歌をより情緒的にしたような感じ。

逆説の日本史

井沢元彦「逆説の日本史」を読み始めたのだが。まあ、一割くらいは面白いことが書いてあるが、八割近くは単なる状況証拠と推理であり、真実は多くて三割くらい。見ただけで間違いとわかることも多いし、記述があまりにも偏向してる。こういうのは南朝の皇族の子孫が明治になって出てきて云々というような話と同じだわ。一つ一つ、裏付けをとる作業を積み重ねながら先に進まないと、こんなふうに歴史なんてどんな具合にも脚色あるいは捏造できてしまうだろ。

義満が天皇になろうとしていたという話にしても、ただ単に自分の息子の義嗣を偏愛していただけとも読める。義満が天皇とまったく違う形の日本の統治者になるというのも、そのままそっくり天皇になるというのもどちらも無理だろ。天皇家の祭祀のうちいかに仏教系の儀式を自宅で執り行ったとしても、宮中の儀式の多くは神道系、たとえば新嘗祭とかなわけで、いきなり神主さんになりますかといわれてもなれないだろ。皇位の簒奪が難しいというのはやはりそのあたりが理由ではないか。

それに足利将軍やら管領やら公家やらが義満の独裁に批判的だったわけだから、義満の暴走は遅かれ早かれ中に浮いて頓挫しただろうと思うな。足利幕府は当時としてはかなり合議制が進んでいたように思われるので、義満はただ煙たがられてただけでは。義満は決して絶対君主的な存在ではないし、それだけの軍事力を足利氏が独占していたわけでもない。一休が後小松天皇の落胤で、後小松天皇の子・称光天皇の兄に当たるので、位を継げば良かったなどというのは、かなりトンデモ系。そもそも還俗して上皇になった例はあるかしれんが、天皇になったなどという話はないだろ。明らかにあり得ない。ていうか、上皇は院、つまり僧侶として法皇にもなれるわけだから、上皇になるために還俗する必要すらないわな。天皇は神道系の儀礼しかできない、法皇は仏教系の儀礼しかできない、という棲み分けはあったんだろうな。仏教系の祭礼の重要性が時代が下るとともに大きくなり、逆に神道系の祭祀が形式化していったのが、もしかすると院政がさかんになった大きな原因の一つかもしれんわな。逆に言えば幼い天皇でも宮中祭祀はできたということだが、摂政か関白が代行していたのだろうか。ていうか幼い天皇がいるうちは上皇は祭祀を代行するために、院にはなれなかったのではなかろうか。なので、天皇、上皇、法皇という三段構成が必要だったのでは。ややこしいなあ。ましかし、天皇家が神道以外に仏教も祭祀に加えていく過程で、直系内での役割分担が必要になって、自然とそうなっていったのかもしれん。江戸時代に入ると天皇家が仏教の儀式をやらなくなった(国家仏教をしきらなくなった)ので、法皇も不要になったのだろう。最後は霊元天皇(在位1663年-1687年、1732年崩御)。

しかし皇位継承が男系に限るというのは良くできている。女系もありとすると自分の息子(内親王と結婚してその息子か娘)を天皇にできる。しかし、男系に限ると孫(娘を皇后に立ててその男子)を天皇にすることしかできない。そもそも皇后に立てるというのはとても難しいが、内親王と結婚するのは割と簡単かもしれん (女帝と結婚する必要はない。皇族の女性と結婚しさえすれば良い)。義満も内親王の子だから、女系もありとするとあっというまに皇位継承対象者になってしまう。女系を認めるかどうかというのはやはりかなり難しい問題な気がする。

ましかし、上記は皇位を簒奪しようというのが男であるという前提だが、完全な男女同権の時代になってしまえば、ある(野心ある)女性が天皇と結婚して自分の子どもを天皇にすることも可能なわけで、あまり抑止力にならんわな。ある意味尼将軍政子みたいなものか。
ま、ていうか、野心ある女性が無理矢理天皇か親王と結婚して子供を天皇にするという状況があまり思い浮かばないけどな。