明治という元号は籤で決まった。後にも先にも日本の元号が籤で決められたのはこの時だけだ。贈正一位太政大臣岩倉具視の日記『岩倉公実記』によれば、具視は、選んだ字が吉か凶かなんて煩雑な議論をするのは時代遅れだしもうやめましょう、ついでに一世一元の制度にしましょうと提案した。中国ではとっくに明朝から一世一元であり、清朝もそうだった。
具視は越前国福井藩主松平春嶽に二、三の候補を選ばせて、天皇が自分で籤を引き、それが「明治」だったので新元号を「明治」に決めてしまった。ずいぶん乱暴な話だ。有職故実を何より重んじる公家の岩倉具視がそんなぞんざいなことをするとは。
宮中で行われる占いとしては大嘗祭で行われる卜定が有名だ。亀の甲羅を灼いて占うのだが、これも天皇が自ら行うものではなく、神祇官(卜部)が占って天皇に上奏するだけだ。天皇自ら獣骨や亀甲を火に炙り吉凶を占う。あり得ない。卑弥呼じゃあるまいし。記録が残っていない古墳時代とか飛鳥時代ならともかく、全くあり得ない。
なぜ岩倉具視と松平春嶽が二人で決めたのか。春嶽は佐幕派だが、具視は倒幕側だったはず。この二人の間でなんらかの取引が行われたのだろうか。普通そう疑うだろう。
改元の詔に列挙された臣下の名を見てみよう。
筆頭は「正二位内大臣 臣源朝臣」となっている。ちょっとわかりにくいがこの人は徳川慶喜だ。
慶応三年十二月八日、徳川第十五代将軍慶喜の上奏を受けて大政返上を天皇が許可。これを受けて翌日天皇は王政復古の大号令を発する。この時点で慶喜は将軍職を辞すが、いまだ「徳川内府」、つまり内大臣と呼ばれている。
王政復古の同日、小御所会議が開かれる。ここでは内覧、摂政関白、守護等の職を廃止するとは言っているが、太政官を廃止するとは言ってない。それはそうで、岩倉具視にとって敵は幕府そのものというよりは、幕府の武威を笠に着て、宮家や公家を支配してきた摂家、そして摂家支配の根拠となっていた「禁中並公家諸法度」だったからだ。具視が倒幕に与した理由はそこだ。具視が属する中・下流公家階級にとって倒幕とは倒摂家に他ならなかった。摂家、つまり摂政関白は常に佐幕派で、幕府老中と緊密に連携していた。
薩長は慶喜に即時領地を返納し内大臣を辞めろ、と主張する。
内大臣慶喜もいずれは「辞官納地」するだろうと春嶽は言う。しかしそれは律令制そのものが西洋式の議会制君主政に倣った新制度に置き換り、維新政府が樹立された後に、徳川家以下全ての諸侯が同時に官位官職を辞し、領地を返納する、という意味だ。徳川家としてはそれまで官位官職、そして封地を保持する必要がある。しかし薩長は徳川家だけ先に、ただちに辞官納地するよう主張する。なぜなら徳川は「朝敵」だからだ、と言いたいのだ。 勤王の志篤い慶喜は言うだろう、「天皇に委任された大政は喜んで返上する。しかし朝敵になるのは絶対に嫌だ、」と。徳川は朝敵ではないから徳川だけ先に辞官納地はしない。そのため正二位徳川内大臣慶喜が筆頭で改元の詔を発布する。薩長が同意するはずがない。絶対なんだかんだと揉める。だからこの詔はできるだけ速やかに出す必要があり、天皇に籤を引かせてえいやっと改元した。こうして具視と春嶽は共謀して、慶喜がいまなお内大臣であり、太政官筆頭である証拠を残した。改元の詔勅という紛れもない公文書によって。うさんくさい討幕の密勅などこれで吹き飛んでしまった。