村上春樹

まだ1Q84をちらっと読んだだけだが、私の知っている作家の中では、小林秀雄の文章に似てるなと思った。村上春樹と小林秀雄が似てるといってる人はいないかとググってみたが、どうもいない。

小林秀雄は戦前のフランス文芸の影響をうけた人で評論家になった。一方、村上春樹は戦後のアメリカ文芸を受肉化して小説家となった人だが、村上春樹の作品は小説という分類からはかなり外れているように思う。その本質は「やおい」であり、小説という体裁を使って書かれた何かだ。冗長で内容に乏しいが読める。小林秀雄の文章と同じだ。ある種の依存、麻薬中毒なのではないか?けなしているつもりはないがほめているのでもない。小林秀雄の文章も評論という体裁を使って書かれた何かなのだ。それはもう小林秀雄節というしかない。

村上春樹の文章はどこもかしこもことわざめいた言い回しで埋め尽くされていて、もちろん全部違うが全部同じような既視感がある。イスラム建築の回廊をぐるぐる回っているような感じというか。それが私にとって心地よいかといわれれば、はぐらかされているような、おちょくられているような、つまりは車酔いにも似た不快な感じがして、村上春樹が嫌いな人も同じことを感じているのだろう。奇妙な言い回しで同じところをぐるぐる回っている、回らされている感じ。

もちろん何かのストーリーとか落ちとか展開とか伏線というものはあるんだろうが、たぶんそれは小説という体裁を整えるために付け足されたもので、あると落ち着くが無くても済む、日本建築の床の間のようなものではないか。

あ、違うな。読者を登場人物に感情移入させるための何かの仕掛けがしてあるわけだ。そして、明らかに、私にはその辺りの設定が、存在しないくらいに透明で、まったく感情移入できない。心の琴線の固有振動数がまったくあってなくてぴくりとも共鳴しない。だから、ただ美文だけ延々読まされる感じがする。あるいは、絵に例えると南画みたいな朦朧体みたいな感じ。

「やおい」だが「読める」というのは日本文芸のお家芸といってもよく、「やおい」だが美麗なアニメ絵でむりやり作品に仕上げたのが新海誠ではないか。村上春樹と新海誠の雰囲気も似ていると思う。

戦前の日本人が小林秀雄に眩惑されたように、今は村上春樹と新海誠がそうしていて、世の中の磁場が非常にゆがみ始めていることを感じる。その磁場の中心が何かはだいたい想像がつく。やはりそこが日本文芸の核であり、読者のマジョリティなのかと、諦念にも似た気持ちになる。

例えば1Q84を映画化しましょうとか言って、できないよね。映画監督に指名されたらとても困る。タルコフスキーなら喜んで作るかも。ていうか、ある意味タルコフスキーの映画とも似ているよね、村上春樹は。超絶退屈だが、好きな人は好き。それなりにファンもいる。よく女の子が六時間も七時間も長電話してしまいにゃ話しながら寝てしまう。でも話す内容はとくになくて覚えてもいない。そういう需要があるってことは、知識としては知っている。だからそういうものを書いて提供する人がいて、実際に売れている。

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