いろいろ気になったものだから、 世田谷中央図書館で、 角川日本地名大辞典、平凡社百科事典などで調べたところ、 大山道についてかなりわかってきた。
江戸期の大山道の正式名称は、矢倉沢往還といって、 家康が関東に入ったときに、足柄の矢倉沢に関所を設けたことから、 この道を矢倉沢往還と呼ぶことになった。 「往還」は「街道」とほぼ同じ意味。 江戸中期から後期にかけて、 大山詣が流行し、その参詣道として有名になったことから、 大山道とか大山街道とも呼ぶようになった。 矢倉沢の関所は、箱根の関所と同様に、 出女を原則としてみとめない厳重な関所だったという。 ちなみに家康が江戸城に入るときには中原往還、つまり今の中原街道を通ったという。
矢倉沢往還は、 江戸城赤坂門から始まり、青山通り、 渋谷道玄坂を通り、 三軒茶屋、世田谷、二子の渡しを通り、 溝の口、江田、長津田、鶴間、下鶴間、厚木、伊勢原を経て矢倉沢に至る。 但し、元禄時代に三件茶屋から二子へ通じるバイパスができたので、 世田谷は新大山道からははずれた。
もちろん矢倉沢往還は、家康が江戸城に入ってから急にできたものじゃない。 世田谷のぼろ市、つまり 世田谷新宿の楽市楽座が戦国時代に始まったことからも明らかなように、 すでに戦国時代には、この矢倉沢往還は存在していたのである。 少なくとも戦国時代には矢倉沢往還が相模~武蔵地方のメインストリートで、 小田原城と世田谷城の間の往来に使われていたことは確かである。
ではいつごろから矢倉沢往還という道はあったかというと、 話はずっと平安時代にさかのぼる。 古代、東海地方から関東地方に入る道には、 足柄峠を越える足柄路と、箱根峠を越える箱根路があった。 足柄路の方が古くて延喜式にもでてくるのだが、 西暦800年、802年に富士山が噴火して、足柄路がいったんふさがったので、 箱根路が造られたそうである。 箱根峠は駒ヶ岳の南側、足柄峠は北側にある。 足柄路から、当時厚木の付近にあった相模国府を経由して川崎方面に抜ける路が、 矢倉沢往還の原型となる。
ところがその当時には、厚木から長津田、溝の口、 世田谷へ至るルートはまだ存在していない。 したがって、いわゆる矢倉沢往還が完成したのは、 世田谷に吉良氏が城を築いた戦国時代以降の話になるのだろう。
更級日記によれば、相模国の「にしとみ」「もろこしが原」というところを経由して、 足柄山を越えたと書いてある。 にしとみとは現在の藤沢市西富町、もろこしが原とは平塚と大磯の間のことで、 どちらも海沿いの土地であり、海の景色の描写もあるので、 更級日記の作者らは海沿いの道、 おそらくは現在の東海道に近い道筋を通ったのではないかと思われる。
さて、田園都市線や、国道246号線、東名高速などの開発が始まる以前は、 溝の口には数十戸程度の人家しかなかったそうだ。 おそらくかなりこじんまりした宿場町だったのだろう。 長津田もにたようなものだったに違いない。 次回は長津田の歴史について調べてみたい (笑)。