歴史修正主義

今の歴史教育なんて間違ったステレオタイプだらけだから、 一つ一つ丁寧に検証して、修正していかなくてはならないのだが、 そういうことをすると歴史修正主義だとか歴史の書き換えなどと、条件反射的に批判する連中がいる。

学説は常に変動する。 活発な研究が行われている分野ほどそうだ。 文系・理系を問わない。 しかし単なる学説を事実だと決めつけて封印しようとする。 特に歴史的分野では、殴り合いの喧嘩に発展しかねない。

間違った学説が流布される原因は研究者や執筆者ではないことが多い。 著書を流通に載せようとする出版社や編集者に問題がある。 読者が読みたいと思うもの、というより、ありていにいえば、 売れるもの、或いは、政治的に対立する相手を叩き自分が有利になるもの、を著者に書かせるために、歴史認識は間違った方向へどんどん加速していく。 もちろんアジテーションと金儲けを目的に本を書く人も多い。

本居宣長について書かれた本は多い。 気付かなかったことに気付かされることも多い。他の人が書かないことを詳しく調べて書いている人もいる。 けれど、大抵は古めかしい記述ばかりだ。

宣長について書いた人は多いのだから、私は私にしか書けない宣長を書くべきだと思う。 同じことを繰り返し書いても仕方ない。

大伴家持や菅原道真は漢詩も和歌もやった。 その後漢詩は廃れて和歌が流行った。 その後、漢詩も和歌もやった人は藤原惺窩だろうか。 その後、漢詩と和歌はやはり分離してしまった。 漢詩派が水戸学者になり、和歌派が国学者になった。 水戸学も国学も同じ日本という国を研究テーマとするが、 和歌を愛好する人は自然と国学というグループを作り、 漢詩を志向する人は水戸学者になった。 水戸学も国学も本来は一つのものなのだ、菅原道真や藤原惺窩を見よ。

太宰春台は漢詩を選んだ水戸学者。 本居宣長は和歌を選んだ国学者。

今の人は和歌を詠まない。 和歌を詠む楽しさを知らない。 だから国学というものがわからない。 というか、なぜ国学と和歌に関係があるのかわからない。 なぜ国学者がみなあんなに和歌に夢中になっているのか現代人にはわからないのだ。 話は逆なのだ。 和歌が好きだから国学者になっただけのことなのだ。 和歌が好きでなくて日本のことを研究したい人は、だいたい水戸学者になって国史編纂などをやった。

宣長は自己矛盾した人だと思っていた。 儒教や仏教などの外来思想から離れよと言っておきながら中世的呪縛から逃れられなかった人だと思っていた。 しかし宣長は最後まで中世的価値観にどっぷり浸かっていた。 宣長にしてみればそれは日本固有の中世的価値観だと言いたいわけなのだろう。 雅俗を分離し、飲食を賤しむのは仏教戒の影響だと思っていた。 だが、宣長にしてみれば、それは、日本独自に発展した価値観で、仏教の影響は無視できる、と考えたのだろう。 実際、聖俗分離という現象は、中世の特徴として、世界中の社会に見られる。

神道・儒教・仏教の三つが混淆しているのは江戸時代には自然だった。 神儒仏は合一調和していると考えるのが常識人だった。 幕府があり朝廷があっても矛盾しているとは考えなかった。それがうまく機能しているのであれば、ありのままの現実を肯定して、それ以上追求しない。 神儒仏。朝廷と幕府。こうした対立概念が放置されたまま機能し、それが人間社会というものだと人々に受け入れられ、常識と考えられていたのが江戸時代だ。 言わば関ヶ原の戦いが原理主義的なハッキングを封印してしまったのだろう。

しかし矛盾は矛盾だから、そのことがどうしても気になる人は出てくるわけだ。気にしない人は全然気にならないのだが。 神儒仏が合体することで不協和音を奏でていることに気付く人がだんだんに出て来た。 宣長も二十代半ばにそのことに気付いた。 それまでは現実をありのままに受容していたのだ。

本居宣長の功績

今後どのくらい宣長の連載を続けるのかわからないのだけど、 小林秀雄は60回以上、隔月で11年くらい続けたらしいんだけど、 トータル10万字くらいを一つのめどとすれば20回くらいだろうか。

小林秀雄の『本居宣長』はおもに「古事記伝」と「もののあはれ論」でできていて、この二つが宣長の最大の功績だと、普通は考えられている。

しかしもののあはれ論をよくよくみていくと、欠陥だらけだし、結局何が言いたいのかよくわからない。 何かこの、必死さというものはあるのだが、あまりにもいろんなものを「もののあはれ」に詰め込もうとして、破綻している、と小林秀雄も言っている。 あの、何か朦朧とした文章を書く小林秀雄ですら、宣長の核心思想であるもののあはれ論が、なんだか捉えどころのないものだと、認めざるを得なかったのだ。

古事記伝は偉業ではあるが、研究者として淡々と仕事を積み上げ完成させたに過ぎないと私は思っている。

それで、宣長のほんとの業績は何かと考えたときに、歌学かといわれればそうでもない。もちろん歌人としてことさら優れているわけでもない。

それまでなんとなくよくわからなかった「国学」というものにしっかりとした形を与えた人、ということはできるかもしれない。 国学者は誰かといえばたいていは宣長を思い浮かべるだろう。宣長は国学者の肖像、ステレオタイプになった。 宣長でやっと国学は一つの独立した学問分野になった。真淵では弱い。

私としては、宣長のほんとうの業績は「みよさし論」つまり「大政委任論」を創始したことだと思う。 「大政委任論」があって初めて幕末の「大政奉還論」が出てくる。 むろん、征夷大将軍は天皇の宣旨によって任命されるのだから、形式的にすでに、天皇から幕府へと、大政が委任されているのだが、 それにどういう政治的正統性があるのかってことは、極めて曖昧だった。

北畠親房には「大政委任」という概念は希薄だったと思う。 幕府から天皇へ、というより朝廷へ、政治の実権を奪い返すことが至上命題であり、幕府を存続させて、将軍に軍事や治安維持を委任しようなんて発想は、 親房にはなかったはずだ。

しかし、三度「大政委任」が実現した江戸時代には、この、天皇から幕府への委任ということは、現実的にやむを得ないこと、歴史的必然なんじゃないかと考える人が出て来たのに違いない。 家康自身にもその意識が芽生えたかもしれない。

なぜこうたびたび、天皇から幕府への委任という現象が起きるのだろうか。 中国では王朝が交替するのに、なぜ日本では天皇が存続して幕府が交替するのか。 この問いに儒教は答えることができない。 何か日本固有の政治原理があるらしい。 そういうことを考え始めた。 儒者にはしかし、天皇が存続しているのは単なる偶然だと考える人も多かったし、天皇はいてもいなくても同じであり、幕府が日本を統治しているという事実のほうが重要だと考えた。 室町幕府の足利や細川などは実際そう考えていたようだ。

ともかく天皇の存在は儒教では説明できないので、儒教とは異なる、新たな、日本固有の政治理論が必要なんじゃないかということに気付いた最初の儒者が栗山潜鋒であった。

栗山潜鋒の後を引き継いだのが本居宣長だった。宣長は栗山潜鋒の著書『保建大記』に言及している。 「みよさし」というのは元々は高天原にいる天照大神から瓊瓊杵尊へ葦原の中つ国の統治権が委譲されたことをいう。 「み」は美称、「よさし」は「依さし」。 天照大神から瓊瓊杵尊への委任という図式を、宣長は、天照大神の子孫である天皇から東照神君家康の子孫である徳川宗家への委任という形に転換してみせた。 こんな理論を宣長以外の人が思いつくはずがない。

この宣長の「みよさし論」が出た直後に松平定信が老中となって、幕府として公式に、「大政委任」ということを認めたのである。 定信は、表立っては何も言ってないが、明らかに宣長の影響をうけている。 定信以前に、誰か儒者が、そういう理論を考えついたとはとても思えない。 定信はどちらかといえば儒者というよりは国学者だった。書いているものも和文のほうが圧倒的に多い。 彼の父は田安宗武で、宗武もまた真淵に学んだ国学者である。 定信は、おそらく、宣長をおおやけに認めるわけにはいかない立場にあったが、内心宣長に心服していたのではないかと思うのだ。 この宣長と定信の関係は極めて重大だと思う。調べても何も出てこないと思うけど。

宣長はすでにそのころ紀州藩や尾張藩の武士に門弟を持っていて、彼らが宣長の政治理論を幕府に提案していたのである。

さらに松平定信が頼山陽の『日本外史』を公認したことによって「大政委任」という考え方は武士の間で完全に確立した。

その後水戸斉昭やその息子の徳川慶喜が、実際に「大政奉還」してみせたことによって「大政委任論」は完成し、明治維新を生んだのである。

栗山潜鋒から徳川慶喜へリレーすることによって「大政委任」という非儒教的概念が確立したのだが、その間に宣長がいなければ、このリレーは成立しない。

国学も水戸学も、儒教や仏教からは決して出てこない。 儒教でも仏教でも説明できない日本固有の現象を説明するために江戸時代になって新たに構築された学問なのである。 水戸学は漢文を元に国史を重点に、国学は和文を元に文芸を中心に発達したが、両者は日本というものを説明するための学問であるから、 極めて緊密なものである。 宣長は水戸学にも大きな影響を与えたわけで、やはりそのあたりが宣長の最も大きな功績だと私は思うのである。