誰の勅撰かわからないそうだ。
で、拾遺集に御製と出てくるのは詞書きから「天暦」とわかる。
つまり村上天皇。
「天暦御製」と明記されたものもある。
で、思うに、前の後撰集が村上天皇の勅撰なので、それの拾遺という意味で、形式的には拾遺集も村上天皇が勅撰したことになっているのではなかろうか。
ていうか、
今更勅撰者がいないというわけにはいかないんだろうが(笑)、
編纂者もよくわかってないようだ。
しかしまあ、新勅撰集も定家一人で編纂したわけだから、
やってやれないわけじゃないのだろう。
後撰集も実は未完で奏覧本(正式本)は火災で失われたらしいが、
そもそも勅撰者がすでに崩御しているので奏覧もできないだろう。
後撰集と拾遺集合わせて古今集みたいな形で出したかったのかもしれん。
で、実際には村上天皇から二代後の円融院の御製も出てくる。
かなり混乱してる感じではある。
花山院が中心となった可能性が大だわな。
退位して40才で死ぬまでずいぶん自由な時間があったはずだしな。
で、完成間近に花山院も体調を崩し、とそんなふうにして成立してるような気がする。
天暦御時、少弐命婦豊前にまかりはべりける時、大盤所にて餞せさせたまふに、かづけ物たまふとて
> 御製 夏衣たち別るべき今宵こそひとへに惜しき思ひ添ひぬれ
天暦御時、九月十五日斎宮下りはべりけるに
> 御製 君が世を長月とだに思はずはいかに別れの悲しからまし
共政朝臣肥後守にて下りはべりけるに、妻の肥前が下りはべりければ筑紫櫛御衣など賜ふとて
> 天暦御製 別るれば心をのみぞ尽くし櫛挿して逢ふべきほどを知らねば
天暦十一年九月十五日、斎宮下りはべりけるに内裏より硯調じて賜はすとて
> 御製 思ふ事成るといふなる鈴鹿山越えてうれしき境とぞ聞く
天暦御時、一条摂政蔵人頭にてはべりけるに、帯をかけて御碁あそばしける、負け奉りて御数多くなりはべりければ、帯を返したまふとて
> 御製 白波のうちや返すと待つほどに浜の真砂の数ぞ積もれる
富士の山の形を作らせたまひて藤壺の御方へ遣はす
> 天暦御製 世の人の及ばぬ物は富士の嶺の雲居に高き思ひなりけり
左大臣女御亡せはべりにければ、父大臣のもとに遣はしける
> 天暦御製 いにしへをさらにかけじと思へどもあやしく目にも満つ涙かな
七夕祭描ける御扇に書かせたまひける
> 天暦御製 織女のうらやましきに天の川今宵ばかりは下りや立たまし
天暦御時、伊勢が家の集召したりければ、まゐらすとて
> 中務 時雨れつつ降りにし宿の言の葉はかき集むれど止まらざりけり
御返し
> 天暦御製 昔より名高き宿の言の葉はこのもとにこそ落ち積もるてへ
> 宵に久しう大殿籠もらで、仰せられける
> 天暦御製 小夜更けて今はねぶたくなりにけり
御前にさふらひてそうしける
滋野内侍 夢に逢ふべき人や待つらむ
> 小夜更けて今はねぶたくなりにけり夢に逢ふべき人や待つらむ
ずいぶんのんきな歌だな(笑)。
天暦御時、広幡の御息所久しく参らざりければ、御文遣はしけるに
> 御製 山がつの垣ほに生ふる撫子に思ひよそへぬ時の間ぞなき
天暦御時、一条摂政蔵人頭にてはべりけるに、帯をかけて御碁あそばしける、負け奉りて御数多くなりはべりければ、帯を返したまふとて
> 御製 白波のうちや返すと待つほどに浜の真砂の数ぞ積もれる
神いたく鳴りはべりける朝に宣耀殿の女御のもとに遣はしける
> 天暦御製 君をのみ思ひやりつつ神よりも心の空になりし宵かな
夏、ははその紅葉の散り残りたりけるに付けて、女五の内親王のもとに
> 天暦御製 時ならでははその紅葉散りにけりいかに木のもと寂しかるらむ
中宮崩れたまひての年の秋、御前の前栽に露の置きたるを風の吹きなびかしけるを御覧じて
> 天暦御製 秋風になびく草葉の露よりも消えにし人を何に喩へむ
朱雀院失せさせたまひけるほど近くなりて、太皇太后宮の幼くおはしましけるを見奉らせたまひて
> 御製 呉竹のわが世はことになりぬとも音は絶えせずも泣かるべきかな
これは解釈が難しいがやはり村上天皇の御製か。
天暦御時、故后の宮の御賀せさせたまはむとてはべりけるを、宮失せたまひにければ、やがてそのまうけして、御諷誦行はせたまひける時
> 御製 いつしかと君にと思ひし若菜をば法の道にぞ今日は摘みつる