排蘆小船

『排蘆小船』だが、万葉集に出てくる

11: 2745 湊入之葦別小舟障多見吾念公尓不相頃者鴨
(湊入りの葦別け小舟障り多み吾が思ふ君に会はぬ頃かも)

12: 2998 湊入之葦別小船障多今来吾乎不通跡念莫
(湊入りの葦別け小船障り多み今来む吾をよどむと思ふな)
或本歌曰 湊入尓蘆別小船障多君尓不相而年曽経来
(湊入りに葦別け小船障り多み君に会はずて年ぞ経にける)

から来ているとする説が一般的だが、しかし、和歌データベースで検索すると、37件もあって、後世の勅撰和歌集でもしばしば使われていることがわかる。

題しらす 人まろ みなといりの葦わけを舟さはりおほみわか思ふ人にあはぬころかな
(拾遺)

辛しなほ葦別け小舟さのみやは頼めし夜半のまた障るべき
(続拾遺1279年)

おくれても葦別け小舟入り潮に障りしほどを何か恨みむ
(続後撰1304年)
道あれと難波のことも思へども葦別け小舟すゑぞとほらぬ
後嵯峨院 (同上)

澄む月のかげさしそへて入り江漕ぐ葦別け小舟秋風ぞ吹く
為藤 (後千載1320年)

うきながらよるべをぞ待つ難波江の葦別け小舟よそにこがれて
(新千載1359年)
同じ江の葦別け小舟おしかへしさのみはいかがうきにこがれむ
為世 (同上)

以下略。で、このように「排蘆小船」なる言い回しが頻繁に使い回されているのは、三代集の一つ『拾遺集』
の中に、柿本人麻呂の歌として一首採られているからであろう。
宣長が万葉集をこの時期に直接読んでいたとは必ずしも言えない。
三代集ならば和歌を志すものは誰もが直接読んだはずだ。

意味としては、学問の道に障害が多くてなかなか先へ進めない、ということを言っているだけだと思う。

おやおや、頓阿が『草庵集』で何度も「葦分け小船」を使ってるぞ。これはもしや、宣長は『草庵集』を読んだだけかもしれんね。

なみのうへの-つきをのこして-なにはえの-あしわけをふね-こきやわかれむ
こきいつる-あしわけをふね-なとかまた-なこりをとめて-さはりたえせぬ
なみのうへの-つきのこらすは-なにはえの-あしわけをふね-なほやさはらむ
ありあけの-つきよりほかに-のこしおきて-あしわけをふね-ともをしそおもふ
なにはえの-あしわけをふね-しはしたに-さはらはなほも-つきはみてまし
さりともと-わたすみのりを-たのむかな-あしわけをふね-さはりあるみに
しもかれの-あしわけをふね-こきいてて/なみまにあくる-ゆきのとほやま

ところで、『排蘆小船』は、「もののあはれ」論の原型であるとして、
『安波礼弁』を起稿し、『源氏物語』の講釈を開始した、帰郷後の宝暦8(1758)年頃に成立したのではないか、
宝暦9(1759)年に書いたんじゃないかという説もあるが、
そんなに後ろに引っ張ることはないんじゃないか。
なんでもかんでも「もののあはれ」で解釈したがるのは悪い癖だ。
歴史的仮名遣いがまだからきし使いこなせてないことや、内容がまだそれほど国学っぽくないところをみると、
かなり早い時期、つまり、小沢廬庵と二人で、冷泉為村の悪口を言い合ってた時期に書いたものではなかろうか。
つまり、宝暦7(1757)年8月頃、京都遊学最後の最後の頃。
『排蘆小船』は問答集の形を取っているが、その相手が廬庵だと想像するのは楽しいではないか。

も一つ、国文では普通、「あしわけをぶね」を「葦分け小船」「葦別け小船」などと書く。
しかしそれをわざわざ漢文調で『排蘆小船』と書いたのは、儒学者の堀景山の下で、わざわざ漢文で日記を書いていた時期に成立した、
ということを示唆しないだろうか。こういう漢語臭のする題の著書は他に『紫文要領』くらいか。
『源氏物語』をわざわざ『紫文』と言い換えるあたりがいかにも漢語的だ。

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