隣の家がまた外壁から車までご丁寧にケルヒャーで洗っててうるさいから耳栓していたら宅配便が来たのに気付かず再配達してもらうことになった。まったくケルヒャーというやつは大迷惑だ。あんなものでちょっとばかし車や壁がきれいになったからといって何の意味があるんだろう。隣の家は小うるさい犬も飼っていて毎朝散歩に出るとき吠えてうるさい。飼っている人間の自己満足のために私はいつもイライラさせられている。
犬もカラスも人間の子供もうるさいのは同じだがとりわけ犬には嫌な思いをさせられたから(深夜新聞配達が来るたびに一時間近く吠え続ける犬というのが昔住んでいた所の近所にいた)気に障る。
たった一軒の隣人のせいで隣人ガチャに失敗しているのが非常に悔しい。こいつのためにさっさと引っ越したくなる。ヘーベルハウスの営業をやっていた人の話をこないだ聞いたがヘーベルハウスは鉄骨で、鉄筋コンクリートではないが、特殊な壁を使って静かでエアコンの効きが良いそうだ。私が大金持ちなら隣人に煩わされることなく広い敷地のヘーベルハウスに住むんだがなあ。
ある店で串焼き屋をやっているという中国人経営者に会い、忘れないうちにとその人の店をたずねてみたのだが、この店主は、ゴルフ場もいくつも持ってる大金持ちらしく、なぜあなたはあの店を気に入っているんですか、と聞いてみると、いやあそこはタバコが吸えるから休憩に寄っているのだ、食事もせず酒も飲まず、ノンアルコールだけたのんでタバコだけ吸っている、などと言っていた。なるほど自分の店は禁煙なので、よそで吸ってくるしかない。私も昔からのお付き合いであの店の前を通りがかったら寄っていたけれども、煙いだけなのでもう行くのはやめようかと思った。
その店は中国風の味付けのラムの串焼きを出す。中国人は内陸にいくとみんな羊を食べているようだが、日本人はあまり好きじゃないだろうと言っておいた。私は好きだから行ってもよいのだが、はたして流行るかどうか。
アンパンマンで、何のために生まれてきて何のために生きるのか、などというシュールな問いかけをしているが、すぐにネタバレしてみんなのために生きるのだ、愛と勇気が友達だなどと言っているのだが、単なる誘導尋問に過ぎない。あんなもので大人が感動しているのがわからぬ。ああいう結果ありきの予定調和のシリーズものの子供向けのアニメや漫画でほんとうに何のために生まれてきて何のために生きるのかについて考えられるはずがないではないか。子供にみせるものであればよい。子供がサンタクロースを信じるようなものだ。しかし大人があれを面白いとか感動したというのがわけがわからない。
永井荷風は死ぬ日まで昼は近所の定食屋でカツカレーを食っていて、血を吐いて、胃潰瘍で死んだというがそんな死に方をしたいとは私はまったく思わない。晩年ずいぶん持病を抱えて衰弱していたようだが、私なら適当な段階で安楽死したい。そんな死ぬ間際までふらふら食い歩きしたいとは思わない。
他人というものは自分の思い通りにならない面倒なものだから、コミュ障になるのは当たり前だと思う。初めて会った人とは社交的に会話できるが、二度目に会うと何の話をしたらいいかわからずしゃべれない。何度も会っているうちにますますしゃべれなくなるという話をユーチューブか何かでみて、私も最近そういう傾向があるなと思う。もうこれ以上人間関係を増やすのがめんどくさい。もういいかげん年寄りで老い先短いのだからどんどん人間関係を狭めていって生きて行くのに必要な人たちだけと付き合うようにするのがよいのではないか。職場や住む場所が変わるたびに、世田谷や川越や厚木や中野や浅草で飲み歩いてきていろんな人と会ってきたが、今ではなにもかもがむなしい。若者は良く何のために生まれてきて何のために生きるのか悩んでみせるがあれはほんとうの悩みではなくて、結論ありきなところへ自分を誘導する作業過程に過ぎないのだろう。ほんとうなら今までの人生を顧みて、年寄りがそういうことを真剣に考えるべきだ。若者には悩むだけの人生経験がないのだから悩みようがない。悩みようがないことを悩んでいるのか。年寄りは自分がAをやればBになり、CをやればDになるというデータベースを豊富に持っている。それらの経験をいちいち思い出して次にどう行動すべきか真面目に考えていればきりがないし、手詰まりにもなる。年寄りの引っ込み思案。逆に若者にはそのデータベースがないからとりあえずでたらめな手を打ってみるかという話になる。
で、たいていの年寄りは、ただ長生きしよう、生きられるだけギリギリまで生きていたいと人生に執着ばかりしているようにみえる。要するに最初から人生について悩むなんてめんどくさすぎるのだ。