香川景樹の「新学異見」、ここで新学というのは賀茂真淵の「にひまなび」のことであり、
景樹がそれに反論を試みたものである。
四十代半ばに書いたものらしい。
真淵は例によって万葉集はすばらしい、万葉集をまねて歌は詠め。
古今集をまねてはいけない。
実朝のような歌を詠め、などと言っている。
正岡子規が「歌詠みに与ふる書」に書いているのとまったく同じ論調。
子規がまねたわけだが。
景樹はそれに対して反論する。実朝の歌などは、こころざしあるものは決して見るべきものではない。まして倣ってはいけない、という。
その理由がつらつら書いてあり面白い。
適当に意訳すると、
> 人が古歌に感動するのは、その言葉がひとえにまごころから出ているからである。
その古人の偽りなきにならうのである。
ところが、実朝の歌は、古調・古言をかすめとったものであり、
古人のように真心を歌ったのではない。
後の人が見れば、ある人は藤原京や平城京の古代の歌に似ていると貴び、
ある人は真情を偽って世を欺く作だと卑しむであろう。
卑しむのはともかくとして、貴ぶなどもってのほかだ。
漢詩を作る人たちが我が国の言葉を捨て我が国の調べを捨てて、
ひたすら外国風に似せようとするのと同じことだ。
実朝の歌にもとときどき良いものはあるが、
万葉調むき出しの詠草のようなものもあるから、
それを言うのだろう。
実際実朝の歌をまねしてはならない。
ろくなものはできないだろう。
万葉調を漢詩にたとえているのが面白い。
景樹が宣長の国学の影響を受けている可能性は非常に高い。
歌風はだいぶ違うが。
でまあ、景樹とか、古今とか、景樹の影響を受けた御歌所長の高崎正風などは、
まず正岡子規に叩かれ、
それからアララギ派の斎藤茂吉や土屋文明などに叩かれ、
俳句ならなんとかひねりだせるがまともな和歌など詠めない連中が子規にならって攻撃したせいで、すっかり悪者になってしまった。
それで大正時代以後完全に香川景樹は廃れてしまったのだが、
彼の言うことはまったくもって正しい。
実朝あたりが遊びで万葉調の歌を詠んだ程度ならともかく、
実朝をまねた下手くそ、例えば田安宗武なんかが出てきて、
そうすると宗武は吉宗の息子だから、みんなそれをよいしょするから、
そもそも歌などわからんやつらがむちゃくちゃにまねし始めて、
まねをするやつほどもとよりは下手だから手がつけられない状態になった。
それで、万葉調の復興というのはおよそ失敗に終わった。
正岡子規は景樹をある程度評価しているのだが、
そのニュアンスは他人には通じなかったと思う。
これまた面白いので引用しておく。
> 香川景樹は古今貫之崇拝にて見識の低きことは今更申すまでも無之候。俗な歌の多き事も無論に候。しかし景樹には善き歌もこれ有り候。自己が崇拝する貫之よりも善き歌多く候。それは景樹が貫之よりえらかつたのかどうかは分らぬ。ただ景樹時代には貫之時代よりも進歩してゐる点があるといふ事は相違なければ、従って景樹に貫之よりも善き歌が出来るといふも自然の事と存じ候。景樹の歌がひどく玉石混淆である処は、俳人でいふと蓼太に比するが適当と思われ候。蓼太は雅俗巧拙の両極端を具へた男でその句に両極端が現れをり候。かつ満身の覇気でもつて世人を籠絡し、全国に夥しき門派の末流をもつてゐた処なども善く似てをるかと存じ候。景樹を学ぶなら善き処を学ばねば甚しき邪路に陥り申すべく、今の景樹派などと申すは景樹の俗な処を学びて景樹よりも下手につらね申し候。ちぢれ毛の人が束髪に結びしを善き事と思ひて、束髪にゆふ人はわざわざ毛をちぢらしたらんが如き趣きにこれ有り候。
蓼太とは江戸時代の俳人で大島蓼太という人らしい。
知らんな。
昔は有名だったが、今は完全に忘れ去られた人、ということか。
> 苔よりも雪の花咲け塚の上
> 五月雨やある夜ひそかに松の月
> つちくれにうごく物みな蛙かな
> 世の中は三日見ぬ間に桜かな
> かりそめに降り出す雪の夕べかな
確かになんかやらしい感じのする俳句だわな。
都々逸みたいなものだったかもしれんね。
景樹の歌も都々逸っぽいよな。
江戸時代の和歌なんだから仕方ないわけで。
景樹に戻るのだが
> 歌は、おのが情を枉(ま)げて、古調に似せんとするばかり、巧みの甚だしきはあらざるをや。
自分の真心を曲げてまで古歌に似せるのは技巧がひどすぎると。
> 未だに解き得ぬ遠御代の古言を集めて、今の意を書きなさんには、
違へることのみ多く、誰かはうまく聞きわく人あらん。
> 彼は今にそむくをもて古へとよび、巧みのなれるをもて真心と示し、
大御代の平言をばひたすら俗語といやしめて、
ただ古き世にのみかへらんとす。
> そのうたへる歌、つくる文を見るに、もののわかれざるや、うるま人と語らふごとく、
事のたがへるや、いるま詞聞くらんここちして、さらにこの大御代心の姿とも思ひなされぬは、浅ましからずや。
景樹の主張をそのまま受け取ると、現代人は現代語で自分の真情を述べるべきだ、
ということになるが、果たしてそこまで言っていたのだろうか。
「短歌」という呼び名は間違っていないが、
「和歌」を短歌というようになって、
「やまとうた」というニュアンスが失われた。
大和言葉だけを使った歌という大前提が失われて、
五七五で季語を入れれば俳句、
季語が入ってなければ川柳、
五七五七七と少し長くすれば短歌、
そんなふうな位置づけになってしまっている。
単なる定型詩の一カテゴリーにされてしまっている。
「和歌」の本質は「やまとうた」であることであり、
形式だけ「やまとうた」を借りた詩は「やまとうた」ではないのではないか。
「短歌」というものをそういうものだと言いたければ言えばよいと思うが、
私はそっちの世界に行くつもりはない。
景樹は「古今和歌集正義」で、紀貫之が
> いにしへ今の大和歌をつどへて、それが中より勝れたるを選びて、
千首廿巻となし、古今和歌集と名付けて、奉り給ひしより、
大和歌の道再び古へに復りて、今におよべり
> 唐歌大和歌の同じからざるけぢめを知るべく、大御国は異邦の風俗といたく違へる事を知るべきなり
などと書いている。
ここでも和歌は漢詩と対比されているのだが、
今の言葉を無制限に使って良いとは言ってない。
和歌には和歌のけじめがあると言っている。
「大御国の風俗」を大事にすること、それが和歌を詠むということだ。
同じことは宣長にも契沖にも言えるわけだし、
蘆庵も明確には言ってないが同じ思いだと思う。
真淵や宗武はそこからかなり外れてしまっている。
古すぎたり新しすぎたり、外来語を多用して「やまとうた」から逸脱しては元も子もない。
今の世の中外来語や漢語を使わないと詠めない歌はいくらでもある。
私はあえて使わない、敢えて詠まないだけだ。
和歌にはすでに定型詩という制約がある。
そこに語彙の制約を付け足すのになんの問題があるか。
定型が嫌ならやめれば良いだけだ。
歴史小説を書くのにも似ているかもしれない。
時代考証ができなくて歴史物など書けない。
それと同じではないか。
> 思ふこといはでかなはずそれいへばやがても歌のすがたなりけり
「桂園遺文」にある歌。景樹やっぱすごいな。
それが普通の人にはなかなかできぬ。
景樹の言いたいことを代弁してみると、
中世ヨーロッパには古代ローマ語に基づく正書法としてのラテン語があった。
ラテン語が共通語であった。
日本にも共通語と呼べるのは平安時代に確立した大和言葉であり、
古今集や源氏物語がその規範であった。
景樹にとってみれば正しい大和言葉を学んで真心をそのまま歌うのが、
大和歌だったのだと思う。
景樹の使う言葉は江戸時代の俗語ではない。
平曲や謡曲や俳句に使われるような和漢混交文でもない。
完全な和語である。
きちんと使い分けている。
古典語でもちゃんと熟達すれば話し言葉のように話すことができるし、
歌を詠むことができる。
そう言いたかったんだと思う。
江戸時代でも外来語や新語まじりの歌はいくらでもあった。
しかし和歌は大和言葉以外の語彙を使うことをかたくなにこばんだ。
俳句が語彙にアバウトになっていったのと違う。
ところが短歌というようになってからその制約をとっぱらってしまった。
それが良くない、と私は言いたい。
それはルール違反だ。
短歌は大和歌であることをとっくにやめてしまった。
和歌を大和言葉以外で詠んでいいのなら、
伊勢神宮だって鉄筋コンクリートで建てれば良いではないか。
大和言葉の語彙を広げようと新語や造語を乱造するのは無理があるかもしれない。
ただ大和言葉にも適当な新語はあってよい。
新語は漢語かカタカナ語に限る必要はない。
ただ、日本人にとって大和言葉の新語にはかなりの拒絶反応がある。
なじみ深いから新語は造りにくい。
だがそこはなんとかしなくてはならない。
香川景樹や上田秋成をみよ。
宣長だって、明治天皇が歌に使っている造語だって、そんなひどくはない。
みんな感覚で批判しているだけだ。