宇都宮氏、小山氏、結城氏、などというが、
いずれも頼朝の頃に現れた下野の御家人である。
或いは義家の頃からすでに源氏の御家人であったかもしれぬ。
結城は小山の分家だが、
宇都宮頼綱が小山政光の養子(単に養われただけ?)になっていることからみても、
この三氏は同族とみてよく、
要するに、下野氏とでもいうべき、下野国の豪族である。
清和源氏とか言っているがただの嘘だ。
鎌倉幕府が出来たから庶民に姓が出来、武家が出来、本家や分家が出来たわけだが、
下野の勢力は幕府の中でもかなり重い位置を占めていたはずだ。
結城朝光は小山政光の実子なので、頼綱と朝光は一応兄弟ということになる。
この三氏のうち宇都宮氏だけが歌人(と関係のある人)を出している。
頼朝、実朝ともに歌が好きだった。
宇都宮成綱の子で頼綱の弟・塩谷朝業(宇都宮家から塩谷家に養子に行った。下野国塩谷荘)は実朝の歌仲間だったという。
吾妻鏡に朝業の歌として、
> 嬉しさも 匂ひも袖に 余りける 我がため折れる 梅の初花
があるという。
宇都宮頼綱は藤原為家の義父であり、従って定家の義弟である。
例の小倉百人一首も頼綱の求めによって選んだことになっている。
ウィキペディアには、
> 宇都宮歌壇を京都歌壇、鎌倉歌壇に比肩するほどの地位に引き上げ、これらを合わせて日本三大歌壇と謂わしめる礎を築いた。
などと書かれているが、こんなにひどい「日本三大」にはなかなかお目にかかれない。
ワースト日本三大のかなり上位にくると思う。
頼綱は出家して蓮生という名の歌人として知られて、
実際勅撰集にもやや採られているようである。
綺麗なだけで心のこもってない歌に思えるのだが、一応さまになっていて、
まあ、武家でこのくらい詠むのは当時としては珍しいかもしれん。
飛鳥井雅経はもと父とともに鎌倉に護送されたが、
頼朝に好かれて、その猶子となる(つまり鎌倉の生活費をまかなわれる)。
定家と実朝の間の交流も雅経によるらしい。
雅経は定家の八才年少であり、雅経は歌がうまかったというよりは定家の門弟というので、
ありがたがられたのだろうと思う。
飛鳥井雅経の父・難波頼経は藤原氏らしいのだが、よくわからん人だ。
義経の同盟者であったというから、後白河法皇と近かったと思うが、
ごく平凡な公家だったのだろう。
義経の関係で親子共々鎌倉送りになったのだが、
それが息子には幸いしたということか。
雅経の孫娘が二条為氏の妻になっているから晩年はそれなりに二条家と親しかったのだろう。
問題は、宇都宮頼綱と藤原定家の間でどうして縁組みがあったか、なのだが、
よくわからん。
定家から見れば宇都宮氏なんてのは下野国の野人に過ぎない。
ただ歌が好きで意気投合したというのではあるまい。まあ、100%あり得ない。
承久の乱で京都は没落し鎌倉が力をつけた。
宇都宮氏は有力な鎌倉の御家人である。
かつ頼綱は富豪でもあったらしい。
定家は食うに困ったかもしれない。
そこで頼綱と縁組みする代わりに小倉山に所領をもらった。
定家が自分の甲斐性で別荘なんて持てるだろうか。
そう考えると、明月記の
> 予可書由彼入道懇切。雖極見苦事憖染筆送之(私に書くようにと蓮生入道がしつこく頼むので、はなはだ見苦しいことではあったが、無理矢理書いて送った)
というのはただの謙遜ではなくて、ほんとにいやがっていたかもしれんわな。
ていうか今でもアーティストが自分のパトロンにこんな愚痴を言ったりするだろ。
嫌だけど金と力のために仕方なく書いた、みたいなニュアンスかもしれん。
飛鳥井雅経と宇都宮頼綱が鎌倉ですでに懇意であったとすればよりすんなりいく。
難波頼経と宇都宮氏にもなんらかのつながりがあったか。