今年49才で、まさに「四十ニシテ惑ヒ、五十ニシテ未ダ天命を知ラズ」の感が強い。
同じ町、同じ職場にずっと居続けるとその嫌な部分がどんどん見えてきて、最初良かったと思ったことがつまらなく退屈に感じてしまう。これはひとつの錯覚であって、転職し転居したらまたいつの間にか煮詰まってしまうのだろう。私はいつも自分の職場がほんとうにひどいところだと思ってしまうのだが、ではどこにひどくない職場というものがあるかと考えるときっとどこにもないのだ。人間関係も制度も組織も必ずどこかに歪みがあって矛盾がある。
たとえば、私自身はパチンコが大嫌いだが、たまたま渡世の義理で警察庁長官をやらされることになったとしたら、「警察はパチンコの景品の換金については一切関知してません」
というようなコメントを立場上言わざるを得ないだろう。法務大臣になってたら人殺しは嫌いでも死刑執行の書類にサインをしなきゃならないだろう。原子力規制委員会の委員長になってたら、原発は完全に安全とは言えない、といったような歯切れの悪い発言をしなきゃならないだろう。そういう公の仕事にすら気持ちの悪い立場というものはあるのだから、私の仕事が気持ち悪いのは当たり前なのだ。
もし気持ち悪い仕事がしたくなければ世の中とほとんど接点がなくて、一人でできる仕事をやるべきだが、一人でできて食っていけるうまい仕事なんてなかなかない。
孔子はどういう気持ちで「四十而不惑五十而知天命」などと言ったのだろうか。自嘲気味に言ったのか。本気でそんな気持ちになるとしたらただの老人の自己満足誇大妄想なんじゃないのか。逆説的な意味で言ったのかも知れない。「天命を知る」とはもうこれ以上自分の力ではどうにもならないという意味かもしれない。それはつまりは「未だ天命を知らず」ということではないか。「六十而耳順、七十而従心所欲、不踰矩」も隠居した老人は若い者の迷惑にならないように、おとなしくしていようというような諦めの境地かもしれん。
※ 白川静が似たようなことを言っていた。確か年寄りは諦めが肝心だという程度の意味だと。
32までは似たような仕事をしていた。少し方向転換して44くらいまでまた同じようなことをした。その後また少し方向転換して今にいたる。もう32頃にやってた仕事はまったくやる気がない。完全に新しい仕事新しい人生を始めたい気分だ。
だがそれは錯覚なのだ。今の立場で、今いる場所でできることをそつなくこなしていけば良いだけなのだ。おそらくそれが最善の策。それ以上の、それ以外の事をやろうというのが無茶。私の力量を超えている。
田舎から19で東京へ出てきた。28か32くらいまでに田舎に戻っていれば、たぶんかなり無難な人生を送れたと思う。しかし32の頃はまだ東京に未練があった。まだまだやりたいことが残っていた。49になると身動きがとれぬ。父母にも迷惑をかけた。今までさんざんほっつき歩いていて、今更帰っても間抜けな気がする。でも人間関係でがんじがらめになればなるほど田舎に帰りたい気もしてくる。もし、働かなくて食っていけるならすぐにもやめて、田舎でのんびり暮らすだろうと思う。