いわゆる大化の改新とか乙巳の変というのは蘇我氏のお家騒動に過ぎないように思える。
主家は滅んだが、蘇我一族が滅んだわけではなく、皇族が力を付けたかというとそういうわけでもなく、
藤原氏の台頭はもう少し後だ。
大化の改新が天智天皇と中臣鎌足によるとしたのは藤原不比等に違いないのだが、
すでに舎人親王によって完成していた日本書紀を不比等や光明皇后らが改変したとすれば足りるのである。
藤原氏は単に文武と聖武の外戚となったが故に権力を手に入れたにすぎない。
皇族や他の氏族のように日本という国を建てて、あるいは国を治めることで権力者になったわけでもない。
白村江の敗北によって日本が中央集権的な律令国家を指向し、それが奈良朝の聖武天皇の治世として結実したわけだが、
そのことにも藤原氏はほとんど関係してない。
天皇家や蘇我氏、その他の有力な氏姓が九州や中国地方から次第に近畿に移ってきたのに対して、
藤原氏は単なる山科土着の豪族で、皇室に絡みついて利を得た存在にすぎない。
というのではあまりにも後ろめたいので、
大化の改新というものの主役になることにしたのだろう。
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