定家の禅3

そう、もともとは、定家の禅というタイトルにしようとしていたのだった。
[定家の禅2](/?p=17101)、
[定家の禅](/?p=17049)。
最初は「古今和歌集の真相」の続編で「小倉百人一首の真相」みたいのを書く予定だった。
しかし小倉百人一首は100首全部並べるのがじゃまくさいので定家に絞った。
定家と栄西というタイトルにしようかとも思った。
しかし栄西や禅も話がとっちらかってしまうので定家に絞ったのである。
当時の書き出しはこんなふうだったのだ。

> 初期の日本の禅を理解してもらうため、南宋の禅や栄西についてのイメージをつかんでおいてもらう必要がある。道元、一休、沢庵などの禅師についても、比較のために見ておこう。
栄西が渡ったころの南宋では寒山詩という禅詩が流行っていた。伝説では、寒山や拾得は唐代の風狂僧であるとされるが、そのほとんどの詩は、おそらくもっと後代に作られたもの。

時人見寒山 (時人、寒山を見て)
各謂是風顛 (おのおの謂ふ、これ風顛(ふうてん)なりと)
貌不起人目 (貌(かお)は人目を起こさず)
身唯布裘纏 (身はただ布(ふ)裘(きゆう)を纏(まと)ふのみ)
我語他不会 (我は語るも、他は会せず)
他語我不言 (他が語るを、我は言はず)
為報往来者 (為に報ず、往来者)
可来向寒山 (来たりて寒山に向かふべし)

> 当世の人々は寒山を見て言う、「この人はフーテンだ。地味な風貌に粗末な布衣。」私は言う、「私の言葉を他人は理解せず、他人の言葉を私は言わない。道行く人々よ、私に会いたければ寒山に来るがよい。」
済公、あるいは道済などとも呼ばれる済顛(さいてん)は、栄西が南宋に渡ったころに実在していた禅僧である。その肖像の画賛に言う、

両隻帚眉、但能掃愁。一張大口、只貪吃酒。
不怕冷、常作赤脚。未曾老、漸漸白頭。
有色無心、有染無著。睡眠不管江海波、渾身襤褸害風魔。
桃花柳葉無心恋、月白風清笑與歌。
有一日倒騎驢子帰天嶺、釣月耕雲自琢磨。

> 左右の眉は跳ね上がり、口は大きく、大酒飲み。寒くてもいつも裸足。年は取ってないのに白髪。無頓着。何事も気にせず波の上に眠り、粗末な服を着て、風雨に身をさらしている。桃の花や柳の葉は無心、月は白く風は清く、笑いは歌を与える。後ろ向きにロバに乗り山に帰った日には、月を釣り、雲を耕し、自ら修行に励む。
寒山のイメージそのまんまの人だったようだ。済顛は現代中国でも人気で、日本の一休さんのようにテレビドラマの主人公になっているそうである。

今と全然違う。今は道長の話を枕にしている。
いずれ栄西については書きたいのだがせっかく書くなら鎌倉の寿福寺や建長寺できっちり取材して書きたいわな。
で、最初から「虚構の歌人 藤原定家」というものを書こうとしたわけではない。
承久の乱についても書こうとしたがこれもじゃまなので削った。

この本だが、定家だけではない、
九条兼実、良経、道家、式子内親王、後鳥羽院、西園寺公経、北条泰時、宇都宮頼綱らについても今までになかったいろんな見解を書いている。
結局定家に絞り切れてないのである。
兼実と良経と式子だけでも独立して一冊の本になるだろう。
膨らませるのが苦手なのだが。
承久の乱についてはいつか書きたい。

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