藤原定家の本がまもなく出るので、
自分のブログを読み返しているところだが、すでに2010年に
> 駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕ぐれ
について[藤原定家](/?p=2902)
> 定家にしてはめずらしく写生的な歌なのだが、 実際には存在しない情景を詠んでいる。何かはぐらかされたような気分になる。
> ありありと目の前に情景が浮かんでくるようで、それをいきなり否定されて、 まったくの架空の絵空事でしたという結論。 定家はやはりよくわからん。 一種の禅問答だと言われた方がわかる気がする。
> こんなものが本歌取りなら取らぬ方がまし
とか
[達磨歌](/?p=3333)
> 言葉は美しいが、描かれた光景はただの空虚な何もない世界である。 上の句で色彩鮮やかな光景を提示しておいてそれを否定し、下の句では代わりに寒々しい虚無な光景を残して放置する。
> 和歌をただ二つにぶち切って、華やかな世界提示と否定、そして救いようのない世界の放置という構成にする。
> その言葉の美しさと禅問答のような空疎さ、難解さだろう。あるいは本歌取りという退廃的な知的遊戯として。禅もまたそれから武家社会で受容され、もてはやされた。禅ってなんかかっこいい、みたいな。
> そういうのをさらに発展させると「古池や蛙飛び込む水の音」や 「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」になっていくのだろう。俳句とは要するに「達磨歌」の末裔なのだ。
とか
[影](/?p=15388)
> 定家ただ独りがたどり着いたこの境地を、現代人はわかってない。 幽玄とかありがたがっておりながら幽玄の意味がわかってない。
などと言っている。
確かに定家が一番影響を与えたのは武家社会と禅と俳句なのであり、
定家が偉大なのは宮廷や和歌からそれらの文化を派生させたからなのだ。
密教的平安時代から禅的鎌倉時代に移行する。
定家は和歌に禅詩的な要素を導入した。
[鉢木](/?p=15545)
に書いているように、
> ささのくま ひのくま河に こまとめて しぱし水かへ かげをだに見む
> ちかはれし かもの河原に 駒とめて しばし水かへ 影をだに見む
などが直接の本歌となったと思われるが、「駒駐めて」を初句に持ってきたのは父俊成の
> こまとめて なほみづかはむ やまぶきの 花のつゆそふ ゐでのたまがは
の影響だろう。
「駒駐めて」には独特の旅情がある。
普通ならば、
> 駒駐めて袖振り払ふ
とくれば
> 駒駐めて袖振り払ふ旅人の家路はるけき雪の夕暮れ
などとするだろう。
むろんこれではただの平凡な歌であって、
後世に残るようなものではない。
定家はそういうふうな展開を予想させておいていきなり「かげもなし」と否定した。
だから私はそこではぐらかされたような、馬鹿にされたような気分になったのである。
そしてそれゆえに、それこそがこの歌の斬新なところなのに、
室町時代の人は鉢木のように、誰にでもすんなり解釈できるように解釈し直してしまった。
虚無的な歌をなんだか普通の牧歌的な歌にしてしまった。
こういうことはよくあることだ。
キリスト教でパンをキリストの肉として食べ、ワインをキリストの血として飲むというのも、
最初はおそらく(伝統的なユダヤ教に対する)黒ミサ的なものだったのだが、
後世はそれを万人に受け入れられる聖餐として解釈しなおしたのだ。
今では私は、
> 駒とめて袖うちはらふかげもなし
の駒を駐めて袖を打ち払ったのは定家自身だろうと解釈している。
賀茂の河原だか井手の玉川だかはしらないが、
真冬の雪景色の中を定家一人が騎馬していた。
そして駒を駐めて袖を打ち払いながら、自分より他の人影もないなあ、と思ったというのであれば写生の歌であるとも言える。
しかし続く「佐野の渡り」という歌枕によって定家は自らこれが写生の歌であることを否定してしまう。
実際この歌は源氏物語に表れる古歌をコラージュしたものなので、
最初から完全に絵空事に詠んだ歌の可能性もあるのである。
せめて
> 駒駐めて袖打ち払ふかげもなし賀茂の河原の雪の夕暮れ
くらいにしておいてくれると好感が持てたのだが。