> 鶴がをかの神のおしへしよろいこそ家のゆみやのまもりなりけれ
おそらくこれは後世の偽作だろう。
あまりに武張っている。
金槐和歌集に収められた歌とはあまりにも違いすぎる。
金槐和歌集は実朝の私家集、おそらく成立は、実朝が定家に献じて定家が編纂したか。
これに漏れている歌は偽作である可能性がかなり高い。
> 出でていなば主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春を忘るな
これも金塊にない。
こんな暗殺を預言するような予定調和な歌を実朝が自ら詠むとは思えない。
似たような歌ならあるのだが(浅茅原主無き宿の庭のおもにあはれ幾夜の月かすみけむ、
藤袴着て脱ぎかけし主や誰問へど答へず野辺の秋風)。
ていうか菅原道真の歌に似すぎている。出来過ぎ。
> 東路の関守る神の手向とて杉に矢たつる足柄の山
これは、実朝の歌として鶴ヶ丘八幡宮に伝わるものだと言うが、
金塊になく、やはりやや武張っている。
足柄山は、実朝がときどき二所詣した伊豆や箱根からは、かなり離れていて、
そもそも当時足柄山に関所があって関守が居たのかどうか、
そこをわざわざ実朝が実地に視察したかどうか、
かなりあやしい。
> もののふの矢並つくろふ籠手のうへに霰たばしる那須の篠原
> 宮柱ふとしきたててよろづよに今ぞ栄えむ鎌倉の里
これらは金塊になく実朝歌拾遺というものにあるらしい。
まず、「那須の篠原」だが、
頼朝が何度か那須野で狩をしたという記録が吾妻鏡にあるが、実朝が行った記録はないはず。
ていうか、武士の歌として、かっこ良すぎるんだよね。
弓矢とか籠手とかもののふとか鎧などといったいかにも武家を連想させる歌は、
もしかすると全部偽作なのかもしれん。
この種の歌があと五つや六つ、金塊集の中に確かにあればまだわからんでもないが、
金塊集には皆無
(「もののふの」「あづさゆみ」など万葉時代から使われる枕詞としてならばいくつかある)。
金塊和歌集をざっと読んでみるとわかるが、明らかに他の歌の中から浮いている。
はっきり言って、とてもよく出来た偽作、というところだろう。
「宮柱ふとしきたてて」だが、これも勇ましすぎる。神道的過ぎると言ってもよい。
まあ、偽作だろうな。
[追記](/?p=2082)参照。
天才歌人にして、若くして暗殺された悲劇の将軍、源氏の最後の嫡子、
となると、後世の人がいろいろな自分のイメージを投影したがるのだと思う。
良くできた歌、大したことのない歌などが、そのイメージを補完するために、
つぎつぎに実朝の歌として作られていったのだろう。
あるいは、実朝自身の歌にも後付けの伝説や解釈が加えられていった。
偶像の完成。
あたかも仏陀入滅後にも大量の仏典が作られ続けたように。
八幡太郎義家や鎮西八郎為朝が伝説化したように。
義経の戦績が誇張されたように。
そして現在進行しつつあるガンダムシリーズのように。
> とびかける八幡の山の山ばとの鳴くなるこゑは宮もとどろに
斉藤茂吉「実朝の歌七十首講」というものにあるそうだが、
「山鳩」の声が「宮もとどろに」という辺りがどうも現実離れしている。
斎藤茂吉の時代までは、真作と偽作の考証がそれほど厳密でなかったのではないか。
なので、勇ましい武士的な実朝像と、女々しい実朝像があい矛盾する感じで混じり合っていたのではないか。
実朝については太宰治、小林秀雄、吉本隆明らも評論を書いていると言う。
ふーん。
実朝が海を詠んだ歌は多いが、
だいたいは難波潟がどうのこうのと、
古典文学の影響を受けて詠んだものが多い。
鎌倉や伊豆の景色を詠んだものはオリジナリティが極めて高く、
実に大胆だ。
鎌倉や伊豆が歴史の舞台に現れたのは頼朝以来で当時としては極めて新しく、
すべて一から創作しなくてはならなかっただろう。
これに対して箱根の歌は万葉集からあったから、割と参考にしやすかっただろう。
実朝は鎌倉生まれの鎌倉育ち、おそらく鎌倉伊豆箱根くらいしか行動範囲はない。
ほとんど鎌倉幕府によって監禁されていたようなもので、
古今集や万葉集などの空想の世界に遊んでいたものと思われる。
1209年に初めて定家に自作を批評してもらい、
1213年に定家から万葉集をもらっている。
1219年正月には暗殺されているのだが、
実朝の歌には万葉集の影響が極めて強くまたその歌の数もおびただしい。
何百とある。1、2年で詠める分量ではない。
定家に万葉集をもらう前は断片的にしか万葉集の歌は知らなかっただろう。
となると、金槐和歌集に採録されている多くの歌は、
1213年から1218年の間にかなり長期間かけて詠まれたと解釈するのが自然ではなかろうか。
なぜwikipediaには1213年にすでに成立したなどと書かれているのだろう。
吾妻鏡によれば実朝は二所詣に1212年年初、1213年年初、1214年年初と九月、
1215年二月、
1216年冬、1217年冬、1218年二月に行ったらしい。
つまり毎年、主に年明けに行っている。
> 二所詣下向にはまべの宿の前に前川と言ふ川あり。
雨降りて水まさりにしかば日暮れて渡り侍りし時よめる:
> はまべなる前の川瀬をゆく水のはやくも今日の暮れにけるかな
> 二所詣下向後朝に侍ども見えざりしかば:
> 旅を行きしあとの宿守をのをのにわたくしあれや今朝は未だ来ぬ
> 又のとし二所へまいりたりし時、箱根のみうみを見てよみ侍る哥:
> たまくしげはこねのみうみけゝれあれやふた国かけて中にたゆたふ
> 二所へまうでたりし下向に春雨いたく降れりしかばよめる:
> はるさめはいたくなふりそ旅人のみちゆき衣ぬれもこそすれ
> 春さめにうちそぼちつゝあしびきの山ぢゆくらむやま人やだれ
> 二所詣し侍し時:
> ちはやぶる伊豆のお山の玉椿やをよろづ世も色はかはらじ
玉椿というのは、やはり、伊豆に自生するという、
天然のヤブツバキであろうか。
> 山は裂け海はあせなむ世なりとも君にふたごころわがあらめやも
これは金塊和歌集の定家版の最後に掲載された、
れっきとした実作。
新勅撰集にもある。
ということは定家もそうとう気に入った歌ということ。
もしかするとかなり後期の作で、
実朝の自薦集成立後、あるいは死後に定家によって追加されたのかもしれない。
「君」とは後鳥羽上皇を差すらしい。
定家は後鳥羽上皇にとっては実朝との良いパイプ役だったに違いない。